本文サンプル>>> 朱差し烏の橙花雛
 
「此方へ来い!」
 叫びに反応し、慌てたようによろよろと高度を下げ始めた烏目掛けて幸村は駆け出した。ずるり、と童の頭が襟の中へと消える。大きく羽撃き、烏は必死で高度を下げるが間に合わぬ。
 する、と童が落ちた。ばさばさと大きく羽撃く翼がぐらと体勢を崩す。幸村は脚に力を込めて、跳んだ。
「くっ……!」
 小さな躯とは言え、重力が加われば結構な重さだ。それをど、と腕の中へと受け止め咄嗟に身を丸めた幸村は、赤子を庇ったまま生け垣へと突っ込んだ。
 ばきばきばき、と酷い音を立てて、低木が幾本も折れる。丸めた背中がじんと痺れ、未だ乾ききらなかった雨がぱらぱらと降った。
「幸村様!!」
「お、お怪我は!」
「否、大事ない……」
 駆け寄って来た下男に引き起こされながら、幸村は腕を弛めた。赤子はぎゅっと目を閉じている。
「無事か!?」
 勢い余って潰したか、と慌てた幸村ががくがくと揺すると、瞼がぱちりと開いた。
 幸村は僅かに息を止めた。
 ぱちくりと見上げた裸の童の肌は白く、大きな瞳は異人の様に緑掛かる茶だ。滑らかな頬は柔らかそうで、未だ赤子とも呼べそうだ。三、四歳というところだろうか。
 ばさ、と、大きく乱れた音を立てて、傍らへと烏が舞い降りた。
 顔を上げた幸村とそらちを向いた赤子の視線の先で、大烏はそのままゆったりと蹲り、地へと伏せる。爪に、緑の模様に染め上げられた、肩掛けが引っ掛かっていた。
「さ……才蔵!」
 呼ぶまでもなくふっと姿を現した男は、いつから紛れていたのか下男の姿だ。
 忍びは素早く大烏を抱き上げ、それから幸村の膝の上の童を見、奇妙な顔をした。
「なんです、それは。佐助の子ですか」
「ば、」
 幸村は目を剥いた。
「馬鹿な!」
「けど、此の烏が連れて飛ぶのはうちの長だけですよ。第一そいつの頭」
 指を差し、形のいい唇を曲げて才蔵は涼やかな目を細めた。
「そんな派手な頭の子供なんか、そういるもんじゃあない。彼奴の子でないなら、凶兆でしょう」
 きょとんとした赤子に意味が判るとも思えなかったが、幸村はぐう、と眉尻を上げ、口角を引いた。
「……忍びが迷信に踊らされるとはな」
「忍びほど迷信深い者もいませんよ」
 意に介さぬ顔で、才蔵は目を回している烏を示す。
「兎に角、此奴、手当てしてしまいます。よっぽど飛んだようですね。それから、武田屋敷には遣いを」
 幸村は僅かに黙った。
 任務に連れて出ていた筈の大烏だけが傷を負って戻ったとなれば、佐助の身に何かがあった可能性が高い。どの様な任務に出ていたものか、救出には迎えるのか、それを信玄に尋ね、指示を仰がねばならない。
「………良い、おれが行こう」
 才蔵は判りました、と頷いて、もう一度ちらと童を見遣り、ふっと姿を消した。幸村は腕の中の子供を見遣る。
 消えた才蔵のいた場所を不思議そうに凝視していた童は、視線に気付いたか幸村を見上げた。つるつるとした白い額に掛かる、子供特有の産毛のような髪が、朝焼けの色をしている。
 不安げに家人が見守る中、幸村はそっとその額を撫でた。きゅっと瞑った目を縁取る、長い睫もまた、明るい色をしている。
「童。大事ないか」
 童は幸村を見詰め、それからこっくりと頷いた。幸村はそうか、と溜息を吐く。
「お主、幾つだ。……名は、何という。言えるか?」
「みっつ」
 短い指を三本出した童に、幸村はゆっくりと瞬いた。童はにか、と柔らかな色をした白い歯を覗かせて、笑う。
「さすけ」
 誇らしげに名を名乗り、それから童は少しばかり擦り剥いていた肘を見せて、此処が痛いの、と首を傾げた。