本文サンプル>>> 朱差し烏の橙花雛
 
 外の光との境目であるせいか、土間は暗い。しかし一歩敷居の外へと出れば明るい日差しに満ちている。
 だと言うのに、全身を光に照らされている筈の佐助の形に、くっきりと影が切り取られているかのようだった。痩せた厚みのない躯は勿論、逆巻くように立てられた髪の一筋まで、寸分のずれもなくぴたりと貼り付いた平坦な影が明度を下げている。
 思わず凝視していると、腕に乗せた烏へと何事か言い含めているようだった佐助が、ふと顔を上げた。
「旦那」
 笑み崩れた顔に、幸村はぽかんと開けていた口を慌てて閉じた。
 佐助は腕の烏を飛び立たせ、それから敷居を跨いで土間へとやって来た。そうして影の裡へとやって来れば、何処も不自然なところなどない。
「行くのか」
 何か言わねばと口を開き、出た言葉はいつもの通りだ。佐助は頷き、それから首を傾げて苦笑した。
「やだなあ、旦那。そんなにぎくしゃくしないでよ」
「ぎくしゃくなど……」
 途端、ふいに昨夜のことが思い出されて幸村は言葉に詰まった。
 全身で触れた躯は滑らかな感触ではなく、意外と硬く骨の太い、間違えようもなく男のものだ。幾度抱いても変わりはない。
 しかしそれでも大して大柄でもない筈の幸村の腕の中へと収まってしまう痩せた肢体に、大分無理を掛けて幾度も求めた最初の夜が、何となしに思い出された。
 幸村は慌てて佐助の戦装束を改めて見た。頭の天辺から爪先まで見ても、いつもと変わらぬ、少し力の抜けたような、けれどいつでも跳躍出来るような適度に膝の弛んだ姿勢でいる。
「そ、その……躯は、大丈夫か」
「大丈夫ですよ。昨夜はのんびりだったしさ」
 佐助はへら、と気の抜けた笑みを浮かべた。少しばかり照れた様子がある。
 その顔を見ながら、いつから此れはこのような顔をするようになったのだったか、と幸村は記憶を手繰った。
 最初の頃は、閨へ呼んでも少しも楽しげではなかった。むしろ厭うているような空気も感じたものだ。
 それを知っていながらだからどうしたとばかりに呼び付けていた己は改めて考えれば相当に横暴だが、しかし結局こうして照れた笑いを浮かべるまでに心を許してくれたのなら、別に構わないとも思う。
 そもそも閨を厭うている雰囲気はあったものの、元々佐助に疎まれていたわけではない。身を重ねるようになってから一時期、稀にそういった顔をすることがあったと、それだけのことだ。それも間もなくに消えた。
 此れはおれを好きなのだ、と幸村は改めて思う。酒の席で出る下世話な色恋などというものではないかも知れぬし、忠義の域を出ぬかも知れぬ。佐助の気性を鑑みるに、漢が漢に惚れるといったものでもないだろう。
 しかし佐助は、人として幸村を好きなのだと思う。幸村自身がそうであるかといえば同じ気持ちとはいかぬかも知れぬが、しかし好意を向け合っているには違いない。
 願わくばいつまでも、こうして此の烏を己の庭に飼っておきたいと幸村は思う。何処へ飛んでも必ず戻る、そういったものであれば良いと思う。
「じゃあ、旦那。お仕事行ってきますね。何かご用事あるかな」
「い……否、何もない」
 何の仕事だ、と尋ね掛けて、幸村は慌てて言葉を呑んだ。答えられぬならば訊いても佐助は答えぬし、ならば訊いたところで問題はない。
 しかし普段ならば訊こうとなどしないはずの幸村だ。その己の何気ない問いに不審を感じた瞬間、訊けなくなった。
「さ、佐助」
「はい?」
 そっか、と頷きじゃあね、と踵を返し掛けた佐助が、再び幸村を見上げた。
「その、……早く帰れ」
 佐助はぱちぱちと瞬いて、く、と苦笑のように笑う。