本文サンプル>>> 山烏 |
ほう、ほう、と遠く啼いていた梟の声は、いつの間にか止んでいた。もう夜も更けた。昼の合戦の疲れだろう、兵達も寝静まり、夜番の者が、時折松明を翳してさく、さくと地を踏む音が行き来する。 ばちん、と静寂に火の爆ぜる音が響いて、幸村はうとうとと浅く眠りを漂っていた意識を引き戻された。瞼を開ける。 さほど深く眠るつもりはなかったものの、無駄に起きていても明日の戦いに疲れを残すだけだと横になっていたが、火の気配に完全に覚醒してしまった。矢張り、戦場であるが故か気が昂っている。加えて、戻ると言った己が忍びの不在もまた、眠りを妨げる原因の一つだろう。 元々戦場で熟睡する様な事はないが、其れでも佐助が居れば、其れなりに纏まった睡眠は取れる。無論居なくとも眠る事くらいは出来たが、今戻るか、未だ帰らぬかと気にしている状態では難しい。 未だ、戻ったとの報告は、無い。 喩え己が寝ていたとしても、戻ったなら報告へ向かわせろと伝えてはいるから、佐助本人が信玄への報告に手間取っているのだとしても、才蔵辺りが報せには来る筈だ。其れがない以上、未だ佐助は戻らぬのだろう。 幸村は嘆息して、身を起こした。簡易な寝台の上に、胡座を掻く。夜気がさらさらと流れ、草の臭いがする。微かに泥混じりの血と汚物の臭いも混じるが、其れもまた、戦場であるのならばいつもの事だ。 立ち上がり、天幕を出ると護衛が物言いたげに此方を見た。其れを何でもないと手を上げ宥めて、陣幕の間を歩く。草の合間で鳴いていた虫が、人の気配に驚いたのか、ぴたりと声を止めた。 ちゃら、と首許で、穴空き銭が鳴る。 失くした縒り紐の代わりに新しく作らせた紐は、早くも血で硬く締まり始めている。水で幾らか濯ぎはしたが、何に付け不器用だと己が忍びに溜息を吐かれる幸村の手では、矢張り血糊が全て落ちたわけではない様だ。 其れに膿む事はないが、鈍くなっている筈の嗅覚が、時折何かの拍子に血臭を拾うのには良い気分はしない。血の臭いに昂揚するのは戦う者として当然の事だが、戦場でも、得物を手にしているわけでもない時までそうなる程、好戦的な質ではない。 腕の立つ武将との真剣勝負には命を懸けても惜しくはないし、信玄の為なら幾らでも鬼となろうと決めている。其れに一片の迷いもないが、好戦的、と思われがちの其れを、正しく知るのは近しい部下と父と兄、師である信玄くらいのものだろう。 幸村は、喩えどれだけ強い相手でも、誰彼構わず拳を交える事に興味はない。然るべき相手と戦う為に、日々の鍛錬を繰り返す。無論、其れが信玄の前に立ちはだかる敵であるのなら、どれだけ相応しくない相手であっても叩き潰す手に迷いはないが、其れで血が滾る事はない。 いつの間にか難しい顔をしていたのか、擦れ違った夜番の兵が怪訝そうに幸村を見詰め、目が合うと慌てて逸らして頭を下げた。 そそくさと去る背を見ながら、其れ程避けずとも取って食いはしないのに、と少しばかり疲れた溜息を吐いた時、ふいに現れた気配が片膝を突いた。 「才蔵。佐助が戻ったか?」 「は、一刻程前に」 其のいらえに、幸村は眉を顰めて口角を引き下げた。 「お館様への報告が長引いたか? しかし、誰ぞに報せに走らせよと、命じていた筈だが」 「申し訳ない。手当てをさせていたものですから」 「────、負傷したか」 「命に拘わる様なものでは。体力の消耗の方が激しい程です」 才蔵は、気休めの嘘を吐くような部下ではない。そうか、と頷いて、幸村は知らず握り締めていた拳を解いた。 「其れで、佐助は何処に居るのだ」 「休ませておりますが」 「だから、何処で」 怪訝そうに見上げた目にもう一度促すと、才蔵は西を示した。 「陣の西側に、負傷者を休ませています。其方へ行かせました」 「足軽の手当てをしている辺りだろう」 「申し訳ない。今の長では、陣の内に置かねば伏兵にでも首を掻き切られかねないと判断しての事です。俺の一任故、お咎めならば、俺に」 「何故咎めなくてはならない?」 爪先を向け、陣の西端へと歩き出しながら言えば、音も無く身を起こした才蔵は影の様に従った。 「草如きを、陣の内で休ませる等」 「おれが、其の様な事を気にする男に思うか」 「もう少し、そう言った辺りを気に掛けて頂きたい程、頓着なされぬ方かと」 「判っているのなら、無駄な問答はさせるな」 「───は、」 申し訳ない、と三度謝罪した才蔵にちらりと視線を向け、幸村はふと、そう言えば鉢巻きを忘れて来たなと関係のない事を思った。 「幸村様。───佐助の顔を見たいのならば、連れて来ます。天幕でお待ち下さい」 「いい、此方から出向く。休ませているのだろう」 「しかし……」 「此処は戦場だ、才蔵。身分がどうの、体裁がどうのと、下らぬ事を言うな。皆等しく、武田の為に戦う者等だ」 もう良い、仕事に戻れと命じると、才蔵は目元ばかりを覗かせた装束の内で僅かに黙り、其れから行く先を示した。 「………陣幕の縁を探して下さい」 「うむ?」 「篝火の明かりが届かぬ影の、陣幕の縁に、休んでいると思います。横たわる兵の顔を覗いて歩いても、見付かりません。佐助の方が、幸村様の気配を察して、起き上がる様なら良いのですが」 期待薄です、ときっぱりと断じられ、幸村は強く眉根を寄せて、重く頷いた。 「判った。手間を取らせて、悪かった」 「仕事の内です。見付からぬ様なら、お呼び下さい」 では、と声が届いた時にはもう影の姿は無く、唐突に、ほう、ほう、と啼き始めた梟の声と、いつの間にか再び鳴いていた虫の声が入れ替わる様に途絶えて、幸村は暫し木々の影を眺め、薄く雲の流れる星空を見上げて、其れから足を踏み出した。 |