本文サンプル>>> DRESS DOWN
 
 三百、五百、と釣り上がっていく値を聞き流しながら、政宗は貴賓席の縁に頬杖を突いて欠伸をした。見下ろす壇上には手枷を付けられた男が、囚人とは思えない凛々しさで胸を張って立っている。粗末な衣服と手枷がなければ、そのまま訓辞の一つでも垂れそうな空気だ。
 相変わらず時と場所を選ばない、とちらと唇の端で嗤い、政宗は七百、の声を耳にしてまた欠伸をした。どうせ此の男が千や二千で獲れるわけはないのだから、最初から万の単位で争えばいいものを、と未だ未だ続きそうな茶番に眠い目を瞬かせる。漸く、何処ぞの誰かが千を叫んだ。
 奴隷の値というものは決して高くはない。金貨一枚程度の値が付けば上等だ。愛玩奴隷だとしても、どれだけ上等でも百にはならない。
 しかし今行われているのは剣闘士奴隷の競売だ。剣闘士奴隷は良い素材を上手く使えば金になる。元も貧民や難民の女子供ではなく、敗国の戦士や将が主だ。多少元手が掛かろうとも、二年、三年のうちには数十倍、数百倍の金になる可能性を秘めている。となれば、何万人もの奴隷の犠牲の上で遊興に明け暮れるこの都市の貴族たちにとって、千そこそこの金貨など惜しいものではない。何より、強い剣闘士奴隷に付いて来るのは箔と名誉と話題だ。都市中が闘技場に湧いている今、強い剣闘士を抱える貴族は、一躍時の人となる。
 とはいえ、普段政宗がこうして人身売買に拘わることはなく、剣闘士への興味もない。闘技場などで間接的に血を沸かせることなどしなくとも、普段から血煙の中へと身を置いている。数人の奴隷が粗末な装備で戦い合う様など、面白くもなんともない。
 そもそも、政宗はこの都市に来る事すら稀だ。都市内に城とも呼べる大きな屋敷は構えているし、確かに皇帝はここに座しているが、政宗は都市の周辺の守護を担う国王の一人だ。この都市の周辺には同じような小国が幾つも存在し、それぞれが領土を広めるべく、戦を続けている。
 その戦を知らぬでもないだろうに、王が何人いようが誰にすげ代わろうが、所詮は全て己がものとばかりに見て見ぬふりの皇帝である。ちらと一段と高い皇帝専用の貴賓席を見遣れば、珍しく奴隷の競売などに顔を見せた皇帝が、何事か側近に尋ねている所だった。恐らく、何故あの男の競りがこれほど白熱し、また見物であるのか、その理由を問うているのだろう。
 理由も知らず面白いものがあると言われるがままにほいほい付いて来たのか、と片方だけの目を細め、政宗は壇上へと目を戻した。競りの声は、七千を数えた。
「百」
 そろそろ出番か、と一万、の声が掛かったところでもう一度欠伸をし、片手を上げて五万、と釣り上げ掛けた値を遮り、遙か下段の片隅から静かな声が響いた。
 決して大きくはないその声は、喧しいほどのざわめきを縫って政宗の、壇上の競売人の耳に届いたらしい。競りに掛けられていた男が、初めて首を巡らし、そちらを見た。凛と肉食獣の深さで静かに光っていたその目が、年相応に丸く幼く見開かれる。
 ざわ、と、漸く会場がどよめいた。立ち上がった男は、右手の人差し指を立てた。
「百だ」
 一万まで釣り上がっていた値に被せた百は、金貨ではない。しかしこの都市での通貨は、金の上は王貨である。王貨一枚は金貨百万の価値を有する。
 つまり男が付けた値は、一億金貨ということだ。下級貴族であるのなら、それだけで身分が買える額になる。
「一、億──他に、」
 あるわけがない。
 政宗は唇を吊り上げ、嗤った。一瞬、更に値を被せてでも横取りしてやろうかとの意地の悪い考えが頭を過ぎったが、こちらを仰ぎ見たその橙頭の男の目が、深い決意に燃えているのに手を下ろす。
 何にせよ、考えている事は同じようだ。ならば向こうで片付けてもらった方が、楽は楽である。どの道、あの男は最低でも二年、剣闘士奴隷として熾烈な日々を潜らねばならぬ。
「一億!! 落札致しました!!」
 人一人には有り得ぬ値を叫んだ競売人に、わっと会場が沸いた。橙頭の男は硬い表情のまま、壇上へと向かう。壇上の剣闘士が、ふっと顔を綻ばせた。
「おお、佐助! どうした、貴族の服など着て!」
 男の舌を打つ顔が見えるようだった。
 政宗は盛大に吹き出し、武田の者が真田幸村を剣闘士として落としたとどっと湧いた会場の怒声と歓声の中腹を抱えて大笑いをして、脇に六爪を抱え控えていた小十郎に、うんざりと溜息を吐かせた。
 
 
 
 
 
 突き出される鉄の槍を幾つも弾き飛ばし、一振りで敵兵の胴を三人薙いだ所で流石に勢いが鈍った。
 好機とばかりに群がる敵兵にぐっと奥歯を噛み締め、幸村は気合いを込めて穂先を振り抜く。ど、と鎧ごと切り裂いた腹から、腑が零れた。
「うおおおッ!!」
 雄叫びを上げた幸村に呼応して、陽炎を立てる程に温度を上げていた空気が燃える。舞い上がる一括りにした髪がばちばちと音を立てて焦げ、ふうっ、と噛み締めた歯の奥から吐いた息に口の中が干上がった。
 炎となって現れた闘気に怯み、じり、と後退る敵兵を睨め付け、幸村はびゅうと腑の絡む槍を振った。びしゃ、と飛び散った内臓と血に、ひい、と戦いた声を上げた雑兵が更に、後退る。
「その程度の覚悟で此の幸村が首、獲れると思うてかッ!!」
 槍が燃え、血と脂に汚れた刃を白く浄化していく。毀れた刃は戻らぬが、今更切れ味などさほどの問題でもない。此の火に触れて、燃え上がらぬ者など、ほとんどいない。
「覚悟ッ!!」
 じり、じりと何処までも後退ろうとする包囲に焦れて鋭く叫び、幸村は大きく一歩を踏み出した。ひあ、と悲鳴を上げて逃げ出そうとした歩兵の胴を貫き、返す刃で隣の兵の首を刎ねる。もう一本の槍は背後の敵を払い退け、そのまま浅く腹を斬り付けた。それだけで衣服どころか肉そのものに炎が移り、あっという間に火達磨になる。
 断末魔の悲鳴を上げてくるくると狂い踊り、直ぐにがしゃり、と炭の崩れる音を立てて倒れた兵が事切れる間に、幸村は確実に包囲を押し広げていた。しかしそれでも、突破するには至らない。鎧の染料の燃える有毒の黒煙が、じ、と目を灼いた。しかし涙は滲む端から蒸発していく。
 おかしい、と思った。熱狂する頭の片隅が警鐘を鳴らし続けている。
 包囲する兵は雑兵に過ぎない。稀にそれなりに腕の立つ部隊長もいるようだが、それでも幸村の敵ではない。幸村の気合いと炎に恐れをなして、斬られながらじりじりと後退して行くだけだ。
 だというのに、幸村自身は撤退が出来ない。前へ進めば敵は退くが、後ろへ下がれば包囲が狭まる。そして進む先には、更なる大軍が、待つのだ。
 誘導されている、と随分と前から察してはいた。しかし進むより他にない。罠だと判ってはいたが、連れて来た部下は皆分断されてしまった。上手く逃げおおせていればいいが、全滅もやむなしと思われた。
 そもそも、このまま行けば幸村の命とて、保証はない。此れは想定していた戦ではない。読み切れず、まんまと嵌められた。戦そのものが罠なのだ。
 
 ───徳川の戦ではない。
 
 数で迎え撃つ、それは一見如何にも徳川の好む戦に思えた。実際、怯えながら幸村を囲み、ただ斬られ燃えていく兵は、徳川の兵だ。此れが作戦であるのなら、兵を手厚く遇する徳川総大将は本陣で歯軋みし、涙を堪えている事だろう。みすみす、己の兵を死兵とするのだ。
 つまり徳川が逆らえぬ徳川の主、それが本当の相手であるという事だ。
「おやおや、屍の山……酷い事をしますね」
 織田、と口の中で呟いた瞬間、うふふ、と浮かれた声が槍の先で響いた。からら、と荒れた石畳を引き摺る大鎌が叩く。
 ぐり、と顔を向けた先の包囲網が、禍々しい気配に恐れをなしたか波の様に割れた。燃える屍体がぐらりと陽炎を引いて揺れた向こうに、銀髪が歪む。
 柔らかな髪に熱気を孕み、ゆるりと顕れた織田の狂臣は、銀色の瞳を細めて酷薄に嗤った。薄い唇が、きゅうと半月型に吊り上がる。酷く美しい貌の上で、火が揺らめく影が踊った。
「邪魔ですね」
 笑みを含んだ可笑しそうな声で呟き、光秀はまるで重さなどないもののように軽々と大鎌を振り切り、立ったまま燃えている屍体を攫った。そのままぶうん、と音を立てて屍を投げ捨てる。慌てた雑兵が逃げた。
 放られた屍体は思い掛けず遠くまで飛び、どしゃ、と崩れる音を立てて石畳へと落ち、砕けた。
 ずる、と長い髪と長い装束を引き摺りながら、薄い皮鎧を纏っただけの軽装で現れた男は、ゆうらりと大きく上体を揺らした。しかしその足運びに澱みはない。ふらりふらりと揺れているように思えて、重心はしっかりと中心を捉えている。
 此れはいかぬ、と幸村は思った。此の男は、強い。
 禍々しい気が立っている。戦場での幸村の従者もまた、血にまみれ傷を負い黒々とした気を纏う武器を両手に駆けるとなれば似た気を薄らと漂わせもしたが、しかし決定的に質が違う。
 彼れが纏う闇は陰りであり影の技だが、此の男の闇は、冥府の闇だ。空虚な魂の裡から溢れんばかりの、黒々とした光だ。
 
 此れは死人だ。
 
 織田の、冥府の闇より還り来る、最早生きては無い者だ。
 幸村は槍を握り直した。ぐいと構え両脚に力を込めて地を踏み締めると、男はふとつまらなそうな顔をした。
「嗚呼、貴方……良いのですよ、余計な真似をしなくて」
「何?」
「名乗りなど無駄だと言っているのです」
 私は貴方に興味がない、とそっけなく言って、男はがらら、と一際大きく音を立てて鎌を擦り、腕を振った。広げた両腕はひょろりと細く長い。
「総大将殿がね……此れ以上兵を死なす気ならば己が打って出ると泣くもので、仕方なく私が代わりに来て差し上げたのですよ。本当なら、私は貴方など顔も見たく無かったというのに」
「………某は、貴殿とは初にお目見えする気がするのだが」
「そうですね。しかし聞こえていましたよ……遠く本陣まで、貴方の喧しい遠吠えがね。嗚呼……まったく、煩い仔犬だ。甲斐の虎もろくな躾をしていないと見える……無駄吠えばかりの虎の子と、貴方、此方でもなかなかの評判ですよ………おっと、」
 うふふ、と皮肉げに嗤う男に、幸村はぎらりと目を光らせその笑みが収まる前に跳躍した。予想していたのか反射的にか、男はゆら、と上体を揺らし僅かに後退しただけで辛くもその槍の先を避ける。
「おやおや、まだそんな元気があるのですか」
「お館様を愚弄するとは、命が要らぬと見える!!」
「貴方にも貴方の主にも、興味などありませんよ。自意識過剰な方ですね……」
 やれやれ、と態とらしくまた溜息を吐いて、男はふいに一見緩慢にも思える動きで鎌を振るった。その刃先の意外な疾さに足を取られ、幸村はがくりと膝を突く。
 流石に疲労が溜まり過ぎている。重心が浮付き、遠心力を加えた鎌の重さを耐える事が出来ない。
「おっと、おとなしくして下さい。私は今、あまり機嫌が良くないのですよ」
 舌を打ち、飛び退ろうとした幸村の背へとひゅ、と湾曲した刃が添った。言葉通りにつまらなそうな顔で、男はじろじろと幸村を見下ろす。
「天下に名高き甲斐の虎、その子飼いの真田隊を潰す事が出来れば、それで良かったのですが……貴方、戦力を国へ残して来たでしょう。今日は遊軍が殆ど居ませんでしたね」
「興味がないのではなかったか」
「貴方には……ね。貴方の隊には興味はありましたよ。嗚呼………」
 男はうっとりと目を細めて何処か遠くへと笑んだ。
「圧倒的な大軍に囲まれて潰れていく悲鳴と怒号……貴方の部下は、実に良い声で啼いてくれました」
「────、」
 かあ、と目の前が赤く染まった。脳裏が白く灼ける。
 普段戦となれば、忘れる訳でも使い捨てる訳でもないが部下の命を一々顧みる事など出来ぬ幸村である。だが、己が信玄の為に駆ける事、それで手一杯になってしまう幸村の、手足となって死んで逝く部下達の姿を、此の目の前の癇に触る男がにやにやと気味の悪い嗤いを浮かべて愉しんでいたのかと思えば、全身が一瞬で熱を上げた。
 しかし幸村は槍を握り締め堪えた。男の話には続きがあるようだ。駄目だよ旦那、と、耳の奥で幸村の密偵の、制止の声がした気がした。
 ぼた、と大粒の汗が転がり落ちる。全身を包んでいた炎は、今は消えている。疲労と出血とに、槍を握り締めた拳が震えた。
「ふふ、賢明です。今、貴方の首を刎ねるなど、私には容易い」
 堪えなさい、と優しげに言って、男は少しばかり首を傾げて思案した。
「貴方の処遇は私に一任されているのです。つまらない獣などさっさと殺して仕舞おうと思っていたのですが、そうですね………貴方の部下に生き残りが居るのなら、もっと面白く出来るかもしれません」
 言った途端に翻った両の鎌が、未だ握られていた幸村の槍を巧みに絡める様に奪い、先程の屍体の様に遠く投げ捨てた。がらんがらん、と石畳を叩く、重い音が響き渡る。
「立ちなさい。無駄な抵抗はしない事です。貴方の部下のうち、捕虜となった者も多いのですから。彼等を無事に帰して欲しいのなら、黙って従うべきですね」
 幸村が従ったからと言って、捕虜となった者の命が保証される訳ではない。此の男の挙動を見る限り、気分によっては皆殺しも有り得るだろうと思う。
 しかし此処で逆らえば、選択の余地なく彼らは死ぬだろう。僅かでも助かる可能性があるのなら、此処で無駄に抗い己も命を落とすよりも、生き残る可能性へと賭けた方がいい。
 無論、幸村一人であるのなら、むざむざ捕らえられるような真似はしない。幾ら此の男が強くまた己が疲弊していたとしても負けるつもりはさらさらなく、喩え敵わぬとしても命尽きるその時まで闘う覚悟だ。
 しかし、真田隊は幸村の部下ではあるが、武田の、信玄の兵でもある。幸村を見込んで師が預けてくれた兵達を、今日の戦で大勢失った。此れ以上、信玄の宝を失わせる訳にはいかない。
 幸村は両手をだらりと下げたまま、ゆっくりと立ち上がった。音もなく持ち上がる鎌が、油断なく首を狙っている。長身の男の瞳に炎が映り込み、怪しく輝いた。銀の瞳だ。
 魔眼、と口の中で呟いて、幸村は僅かに顎を引いた。
「縄を掛けなさい。嗚呼……さほどきつくなくとも構いません。解くのが面倒ですからね」
 駆け寄って来た自軍の兵に何を考えているのかわざわざその気になれば逃げ出せるような縄の掛け方をさせ、男はふふ、と低く嗤うとゆるりと背を向け歩き出した。男の引き連れて来た黒尽くめの兵に突かれて、幸村はその後を大股で追う。ゆら、ゆらと揺れる長身は、一見無防備ではあるのに、何処か隙がない。
 ふわ、と、ふいに男の周辺に飛んだ暗い光の玉を見て、幸村は瞬いた。見直した時には、もう何もない。
 気の所為か、と首を傾げる幸村を余所に、脇を固めていた兵の歩みが目に見えて遅れた。見遣れば怯えた顔をして、男の周囲を凝視している。
「………貴方、何も視えて居ないのですね」
 ふと顧みた半顔に何の表情も乗せず、男はつまらない方だ、と低く呟いた。
 幸村は謂われのない言い掛かりに口角を下げ、眉を顰めたまま答えず、ふいと再び視線を逸らし銀髪を揺らしながら歩み始めた男へと付いて歩いた。
 
 
 
 
 
 幸村が捕虜に取られた、と一報が入ったとき、佐助は武田の城にいた。
 直ぐ様救出に飛び出ようとした佐助を部下が三人掛かりで止めているところへやって来た信玄は、幸村相手ならば一喝し、殴り飛ばしていた筈だ。だが佐助の血走った目を見据えた国主は、ただその大きな手で命を待つ佐助の頭を掴み、荒く撫でただけだった。
 しかしそれだけで怒らせていた肩の力を抜いた佐助に、流石はお館様と部下達は安堵し、信玄に命ぜられるままに退室した。
「傷は、どうじゃ」
「………どうってことは、ないですよ」
 俯いたままの囁き声で返し、佐助は寝台へと力無く腰掛けた。
「こんなの、怪我のうちにも入りません」
「そうか」
「俺も出陣するんだった………」
「馬鹿を申すな。お主が出陣したところで、事態が防げたとも思えぬ」
「もし、旦那のお側にいたのなら、命に代えても帰還させましたよ」
 信玄はふ、と口髭を震わせて苦笑し、その巨体には小さ過ぎる粗末な椅子に腰を下ろした。
「ほれ、見ろ。そうして、己が命を失うであろうが。それを見越して、幸村はお主を置いて行ったのであろう」
「いつもは……」
「そうじゃな。いつものお主ならば幸村を連れ帰った上で、己も無事に戻ったであろうな」
 佐助は顔を歪ませた。袖から覗く、きつく包帯の巻かれた手首を見詰める。
 ゆったりとした部屋着に隠された肌の多くが、そうして清潔な白い布に覆われていた。火傷だ。深くはないが、焼かれた箇所が多過ぎて、医者に暫しの安静を言い渡された傷だ。
 漸くに熱も下がり膿が止まり、近いうちに城の中だけならば自由にうろつく事も出来るだろうとの診断を受けたが、それでも医者も幸村も、戦へ往くことは許してはくれなかった。
 佐助は額を抱えた。
「旦那が………」
「落ち着け、佐助。お主の所為ではないわ」
 わしわし、と再び橙の髪を掻き混ぜるように頭を撫でて、信玄は低く威厳のある声で続けた。
「そもそもその傷、幸村の所為であろうが」
「旦那の所為じゃないですよ。単に、俺が失敗したってだけで」
「しかし、変化の術を強請ったのは彼奴であろう。お主に炎が使える訳もなかろうに、無理に真似をさせたのも、彼奴よ」
「俺が未熟なんです」
 ふっふ、と信玄は喉で笑った。
「ならば、そういうことにしておいても良いが」
 佐助は目を上げ、怪訝に信玄を見た。信玄は薄く笑みを浮かべたまま、じっと佐助を見詰めている。その黒い目の、深さ。
 佐助は額を抱えていた手を下ろし、ゆっくりと背筋を正した。
「………大将。何で笑ってるんです」
「落ち着いたか」
 佐助はゆっくりと呼吸をした。
「はい」
 信玄は重々しく頷く。
「お主、何処まで戦況を聞いておる」
「真田の旦那の部隊が分断、真田の旦那は敵陣に取り残され、捕虜に取られたと」
「それだけか?」
「彼奴等誰も、教えてくれないんですよ。旦那に口止めされたとか言って」
 己の持つ遊撃部隊の部下達の口の固さに眉を顰め、佐助は溜息を吐いた。薄らと憂える目を伏せる。
「旦那も、まさか負け戦になるなんて、思ってもいなかったんでしょうね。徳川は少し前にやり合ったばかりだし、その時に本多忠勝も負傷して、未だ恢復し切らないって話だし……」
「うむ。それは油断とは呼ぶまい」
 再び俯き掛けた佐助にじっと視線を注いだまま、信玄は腕を組んだ。
「しかし、誤算があった」
「…………」
「幸村を捕らえたは徳川ではないぞ、佐助」
 佐助は軽く眉を顰めたまま目を上げた。
「え?」
「織田の、魔王軍よ」
 色の薄い目が見開かれる。その色硝子のような目の中に己の鏡像を二つ見ながら、信玄は徐に続けた。
「徳川の大軍の向こうに、魔王が伏せておったのよ。追い詰め、退きに退いた徳川を追撃した幸村は、まんまと罠にはまったと言う事じゃな」
「罠……」
「勘違いをするな。お主の落ち度でも、お主の部隊の落ち度でもないぞ。まんまとしてやられたと言うのなら、徳川の後ろには織田が控えていると知りながら、まさか今は出て来るまいとお主等に全て任せた儂であろう」
 お陰で、多くの真田の兵と幸村を捕られたわ、とぐうと口角を引き下げて、信玄は難しい顔をした。佐助は膝に手を当てたまま、身を乗り出す。
「そ、それで、旦那は……まさか、もう首を獲られたっていうんじゃ」
「否、未だ生きてはおる」
「なら、身代金、とか」
「幾人かの部隊長に関しては、法外な値で交渉が来ておったな」
「真田の旦那は!?」
 信玄は深く溜息を吐き、佐助の肩を片手で押し遣り宥めた。肉厚の手から、布地越しに高い体温が沁みる。火の舐める様な幸村の熱とは違う、けれど此の主もまた、裡に炎を籠めた冷え知らずの体温を持っている。
「佐助。……お主に此れを授けよう」
 ごそ、と懐から一通の書状を差し出され、佐助は僅かに首を傾げて信玄を見た。一つ頷く様を確認し、そっと受け取る。封緘には、武田の印が施されている。
 佐助は慎重に封を剥がし、厚手の書状を取り出した。たった一枚、しかし公文書と思しき文書だ。
「───大将」
 簡潔な文章に目を走らせ、佐助は呆然と信玄を見た。信玄は重々しく頷き、腕を組む。
「儂の養子としても良かったが……」
「そ、そんな、恐れ多い!」
「既に何人も養子は取っておるわ。今更息子が一人増えたところでどれ程のものか。しかし、それでは佐助、お主が幸村の上へ立つ事になろう」
 佐助はく、と唇を引き結んだ。心なしか青ざめた顔に目を細め、信玄は案ずるな、と囁いた。
「だからな、下級貴族の席を用意した」
 佐助は竦み上がった。さあっと、足下が砂になった心地がした。立っていたならしゃがみ込んでいただろう。
「でも、俺は奴隷上がりですよ! そんな、前例のない事、」
「何、剣闘士などは奴隷上がりでも騎士位を拝命しておるではないか」
「あれはそもそもがどっかこっかの兵や将で、もともと奴隷じゃないから……そ、それに、騎士位と爵位じゃ、違い過ぎ……」
 はた、と口を噤んだ佐助に、信玄は流石は勘が働く、と軽く顎を引いた。
「………まさか、織田の仕掛けて来たのは」
「そうじゃ、佐助」
 ぬう、と懐から出された手が伸び、握り締めた書状の真ん中をとん、と突いた。
「幸村は、剣闘士奴隷として売りに出されるらしい」
 佐助の細い眉が、くうと吊り上がった。
「なら、尚更今のうちに助け出さないと……!」
「無理だな。あらゆる国へと通達がなされておる」
「けど、武田が動けば、」
「一度剣闘士となってしまえば、最低二年は剣闘士として生きねばならぬ。それを曲げる事が出来るのは、皇帝陛下のみよ」
「だから、その前に」
「佐助」
 何もかも判っているのだろう佐助に、信玄は低く名を呼んだ。武田の密偵は口を噤む。
「最早、避けられぬ。幸村が捕虜となり、剣闘士奴隷として売りに出された事は周知となった。捕虜は処刑か、身代金での返却か、奴隷として出されるか……どれも屈辱であるには違いなかろうが、それが戦の倣いとなれば、戦に生きる我々に曲げる事は出来ぬ。武田を上げて、幸村を奪還する為に織田へ戦を仕掛けるにも、最早日がない」
「………だけど、」
「だからじゃ、佐助」
 もう一度、とん、と書状を弾く。佐助は唇を噛み、じっと書状を見詰め、信玄を見詰めた。
「帝都に、儂の城がある」
「………はい」
「其処へ住まえ。使用人なら幾らでも、連れて行け。遊軍も好きにしろ、お主の部隊じゃ」
 佐助は薄く胸を上下させて息をした。
「───はい」
 全てを呑んだ目に、信玄は重々しく頷き、ゆっくりと青白い頬を撫でる。奴隷上がりの上今は幸村の密偵ではあるが、元々は信玄が見出した、武田の烏だ。未だ幼さの残る年の頃から、成長を楽しみに見守って来た青年だ。
 此れを息子としてもみたかったが、矢張りそれは余りに酷だろうと胸の裡で呟き、信玄は低く囁いた。
「すまぬな、佐助。──暫し、耐えよ」
 佐助は漸く強張らせていた頬を解き、いつものゆるい笑みを見せた。
「大丈夫ですって、大将。二年、待ってて下さいよ。あんたの元へ、此の俺様が真田の旦那をちゃあんと連れて帰って来ますから」
 もう一人の息子とも呼べる青年の名を出し、佐助はにか、と笑った。その笑顔に頷き、信玄は纏まりのない橙の髪を、名残惜しむように撫でた。
 
 
 
 
 
「お館様の城ではないか」
「………大将からお預かりしたんですよ」
 薄着過ぎる粗末な着物の上から被せた外套を受け取り答えると、幸村はふうむ、と気のない返事をしてぐるりと高い天井を見回した。
「暗いな」
「住んでる人間が少ないからね、要らないとこまで灯りは無駄でしょう。部屋の方は明るくしてあるよ」
「此の広さだ、少ないと言うことはあるまい?」
「少ないんですよ、使用人は数人だけだし。後は遊軍の一部が居るだけです」
 幸村はぐり、と顔ごと此方へ向ける仕種で振り向いて、どう言うことだ、と上げた眉に示した。佐助は少しばかり疲れた溜息を吐く。
「此処にいるのはみんな武田から連れて来た連中だからね。給料渡す必要はないけど、でも養う数が増えれば、経費は掛かる」
「お館様から、貰うておらぬのか? それでいてお前よく、彼れだけの額でおれを競り落とせたものだ」
「だから、お館様から頂いた分は、あんたを競るのにみんな使っちまったんだよ」
 幸村は目を見開き、それから破顔した。
「佐助、お前は馬鹿だな」
「そうですね。もっと少ない額でも良かったんだけど、でも印象は付いただろう? こっから先、あんたがどれだけ闘技場で快進撃を続けた所で、誰もあんたを俺様から買い取ろうなんて言い出す奴はいなくなるさ」
 ふむ、と呟き、手首へ手枷の痕の残る手で顎を撫でて、幸村は自信ありげに笑う。
「ならば、楽しみにしておれ、佐助。おれがお前の使った金の分、取り戻してやるぞ」
「俺が使いたくって使った訳じゃないよ」
 現状が判っているのかいないのかも定かでないような幸村にはあ、とまた溜息を吐き、佐助はそれよりも、と気遣いげな目をした。
「怪我はない? ちょっと痩せたかな」
「何、戦がなければ此の様なものだ、痩せてもおらぬ。商品だからだろうな。二、三日前からは良い物を食わされていたぞ。怪我もない」
「………なら、良いけど」
 万全でなくては値も付かぬだろう、と平然と言う幸村に、もしや此方が思うよりもずっと判った上で腹を括っていたものか、と訝しみながら、佐助は頷いた。
「じゃ、着替えかな。流石に何時もの着物着せる訳にはいかないけど、今着てるのよりはましなもん、用意してるよ。剣闘士はある意味お家の顔だからね、身綺麗にしといてもらわないと」
「うむ。おれの部屋は何処だ」
「え、ちょっとそっちじゃないよ! て言うか、奴隷に部屋なんかないよ!」
 勝手知ったる様子で此の城へと逗留する際に使う部屋へと足を向けた幸村を慌てて追うと、幸村はそうか、と頷いた。
「ならばお前の部屋だな。主であるからには、お館様のご寝室か」
「そ、そんなわけねえだろ! 近従の部屋ひとつ借りて……て、何で俺の部屋だよ! 俺様今此の城の主なんだぜ!?」
 幸村はきょとんと振り向いた。焦げた所を落としたのか、ちぐはぐに短い髪が額へと掛かる。
「使用人の部屋を使っては、その者の寝床がなくなるだろう」
 心底不思議そうな幸村に、奴隷の自覚はないのかと佐助はぐったりと項垂れた。しかし全て武田から連れて来た者達に、今は犬畜生にも悖ると言われる奴隷の身とは言え、かつても、そして此れからも武田の虎若子である幸村を、家畜の様に扱えと言った所で無理がある。使用人達と共にさせれば、彼らが自ら割を食おうとするのは目に見えている。
 ならば矢張り己の監視下に置くしかないのかと考えていると、焦れた幸村に腕を掴まれた。
「こっちか」
「嗚呼、うん……そう。いつも空き部屋になってた部屋」
「お前が出入りに使っていた所だろう」
「良く知ってるね、そうだよ。侵入しやすいとこだからさ、俺様が居れば警備が楽だろ」
 此の広さの城を少人数で効率よく守るためには、形ばかりは主とはいえ、佐助が働いた方が都合はいい。
 幸村はちらりと口元に笑みを浮かべた。
「おれの主殿は、働き者だ」
「…………、ま、ね」
 僅かな沈黙を置き肩を竦めた佐助を横目で見遣り、幸村は軽く目を細めた。しかし何も問わずに、違わず目的の部屋の扉へ手を掛ける。
「何もないな」
「あるでしょう。天蓋付きだよ、寝床。貴族っぽいだろ」
「それしかないではないか」
「それしかってこた、ないんじゃねえの? 机だって箪笥だってなんだってあるよ」
「そんなものは造り付けだろう」
 言いながら、つかつかと部屋の主の様な足取りで入り彼方此方を検分している幸村を余所に、追って来たらしい使用人から衣服を受け取った佐助は扉を閉めた。
 多くある燭台の全てに火が入っている。此れは、幸村が此処に来る事を予想して、使用人が準備をしていたものだろう。佐助だけならば、自ら火を入れねば暗いままの部屋だ。
 無論使用人達は佐助を主と仰いではいたが、余り世話を焼く必要はないと、その様に通達してある。部屋に手を掛けずとも構わぬと、それも通達のうちの一つだ。
「はい、着替えて下さいよ」
「お前も着替えるのか」
「此の服、窮屈だって。動き難いったらねえよ」
「貴族ならば身嗜みにも気を配らねば、舐められるぞ」
「うちの中でくらい、良いでしょ」
 ふん、と鼻を鳴らして上着を脱ぎ、背を向けてさっさと着替え始めた佐助を暫し眺め、幸村は帯を解いた。渡された質素な平服に手早く着替えて顔を向けると、疾うに着替え終えた佐助がいつもと変わらぬ姿でいる。
 幸村はふう、と息を吐き、肩から力を抜いた。矢張り少々、緊張していたものらしい。
「人心地付いたな」
「腹は? 減ってないの?」
「今は構わぬ」
 ふうん、と不思議そうに頷いて、佐助は幸村へ椅子を勧め、己は立ったままで首を傾げた。
「売人の中に、あんたを知ってるのがいたかな」
「何?」
「結構大事に扱ってもらったみたいじゃない? 買い入れたばっかの奴隷が腹も空かせてないなんてさ」
「飯は良い物が出たと言ったであろう」
「つったって、あんたが良い物なんて思えるようなのは、普通は出ないって。犬の餌よりゃましって程度でさ」
 簡易な衣の長い袖の内で懐手に腕を組み、幸村はふむ、と呟いた。
「そうか。お前は奴隷市を知っておるのだったな」
「知ってますよ。武田に拾ってもらうまでに、二、三回は売り飛ばされたかな」
「何故だ。お前のように小器用な奴隷がいれば、重宝するだろう」
「怠け者でしたから」
 ひひ、と歯を剥いて笑った今は働き者の遊撃部隊長は、じじ、と音を立てて燃え尽き掛けた脇机の燭台へと足を向けた。揺れる橙の後ろ髪を見詰め、幸村は立ち上がる。
 何人目かの主へ引き渡される前に戦によってお家が潰れてしまったという佐助は、正に路頭に迷っているその時に、行軍帰りの信玄に拾われた。幸村が初陣を飾る、何年か前の事だ。
 信玄は敵方を捕らえれば人身売買もしたから、奴隷市の仕組みについてはよく知っていた。奴隷商が管理している訳でもなく主もない奴隷など、ただの野良だ。拾い上げても何の問題もない。
 未だ童であった佐助とその時共に居た数人の元奴隷仲間も、半数は遊軍に居る。今では全て幸村が貰い受けている形だが、しかし遊撃部隊の事は佐助に一任している為、密偵達の中で幸村直属の部下は佐助と才蔵と小助の、三人だけと言えた。
 あのままでは再び奴隷商に連れられて何処ぞへ売り飛ばされるか盗賊にでもなるしかなかっただろうから、こうして武田で身分を解放され丁重に扱われる事は奇跡のようなものなのだと時々佐助は心底嬉しそうにする。
 佐助は母親も奴隷のようで、父の事など欠片も知らぬというが、その所為か信玄を父とも思っているような節がある。今は幸村の部下であるとは言え、佐助がそうして信玄を立てる事は幸村には嬉しい事だ。
 だが、矢張り此れの主は己ではなく信玄ではないのかと、そう思いもする。口にすれば厭な顔をされるものだから普段は触れぬようにしてはいたが、しかしそれは真実ではないかと幸村は考えている。
「何にせよ、二年、宜しくお願いしますよ。思いっきり勝ち進んで、俺様を楽させてくれよ。晴れて解放されたら、大将は直ぐにあんたを呼んでくれるよ」
 引き出しから新たな蝋燭を取り出し火を移す佐助の背後に近付き腰に腕を絡め、僅かに身を屈めた幸村は、肩口に額を押し付けた。
「なあに、危ないよ、火」
「身分が解放されれば、おれは騎士であろう。それで構わぬ。爵位などは要らぬ」
「何でよ」
「………此の様な事態に陥ったのは、おれの不徳の致す所。捨て置かれても致し方ないというのに、お館様はお前を遣わして下さった。それで充分だ」
「あんたの席は、空のままなんですよ。大将はあんたが帰って来るのを、待ってるんだ」
 それにさあ、と癖のように軽く溜息を吐いて、佐助はぽん、と腹に絡む腕を叩いた。
「騎士ったって、俺の騎士になっちゃうじゃないの。あんた、お館様の騎士になりたいんだろう?」
「お前はお館様のものではないか。ならばお前のものはお館様のものと……痛!」
 ぎゅ、と腕を抓られ顔を上げると、眉根を寄せた佐助と目が合った。
「何をする」
「何をするじゃねえよ。何言うんだ、あんたは」
 機嫌の悪い口振りに、幸村は眉を寄せた。
「どうした、何を怒っておる」
「俺は武田の密偵ですけど、今はあんたのものだと思ってたんですけどね。そのあんたが俺様の家臣とか、意味判んないよ」
「しかし、お前は爵位を賜ったのだろう」
「あんたが無事武田へ帰る事が出来たら、さっさと返しますよ、こんな重たいもん」
「何故だ。賜っておけば良いではないか。大体にして、お前の働きならば此の様な事がなくとも、疾うに拝命していてもおかしくはないのだぞ。今までお館様がその事にお気付きになっておられぬ訳もないと黙っていたが、その態度、もしやお前」
「何も言ってないよ。俺なんかが大将の決定に口出しなんか出来ないでしょ。ただ、奴隷上がりが爵位なんて前例はないし、大将は俺の気持ちを汲んでくれてただけだ」
 判らぬと言う顔でいる幸村に今日で幾度めになるかも判らない溜息を吐き、佐助は燭台へと目を向けた。火種とするつもりでいた蝋燭は燃え尽きている。
「ま、何にせよ、此れはお仕事ですからね。お仕事引き受けた以上は、頑張ってお貴族様のふりでもするよ」
 燃え滓を取り除き、新しい蝋燭を立てて引き出しを開け火種を探していると、ぬうと伸びた腕が蝋燭の芯を摘んだ。そのままぐり、と指先で捻り放すと、ぼう、と音を立てて蝋が燃える。一瞬全体を包んだ炎は、直ぐに弱まり正しく芯を燃やし始めた。
「便利だね」
「………明智光秀に会った」
「え?」
 首筋に鼻先が擦り寄せられ、頸動脈に唇が触れる。
「少しばかりお前と似通って居るように思えたが、おれは彼れは、好かぬ」
「……ま、あんたが好む様な相手じゃないだろうよ。織田の中でも魔王の次に、冥府に近いお方だぜ」
「お前は、彼れにはなるな」
 いいな、と命じる口調で言い、本格的に衣服の上を這い回り始めた手を、佐助は軽い調子で叩いて咎めた。
「ちょっと、いきなり盛らないでくださいよ」
「命令か」
「………そうじゃないけど、主の言う事は命令でなくとも聞くものだよ、良い奴隷っていうのはさ」
「ならばおれは、良い奴隷ではないな。お前も無駄な金を使ったものだ」
「んもう、何その開き直り……」
「火傷はどうだ」
「治りました。大丈夫だよ」
 そうか、と囁き熱い手がつと合わせへと忍んだ。ゆっくりと鎖骨の辺りを這うがさがさとした肌に、佐助は身を竦める。
「すまなかった」
「え、何? 火傷の事?」
 首を巡らし怪訝な顔をした佐助に小さく笑い、幸村は答えずこめかみを噛んだ。片手で頬を押さえて首を捻り、唇へと食い付く。
 抗議の呻きを無視して口内を舐め上げながら、躯を這い回っていた右手で帯を外すとばし、と些か強く手を叩かれた。
「ちょっと、駄目だって、何にもないんだよ。油まで準備は出来てねえよ」
「遊軍は全て連れて参ったのか」
「帝都中に散らばってますよ。詳しく報告するから、兎に角離れて……」
「十勇士は、どうした。才蔵は。海野は生きて戻ったか?」
「みんな生きてます。才蔵は今、俺様の代わりに帝都の偵察に出てる遊軍の指揮取らせてるし、海野の旦那は怪我は酷かったけど、自力で本陣に帰ったよ。誰も捕虜には捕られてない。怪我が治り次第、海野の旦那もこっちに来る手筈だし、他はみんな帝都入りしてるから……小助は、あんたの代わりに剣闘士になるって無茶言って煩かったから、ちょっと別邸に離してある。後で説得して頂戴よ」
「小助では、二年は生き残るまい」
「そうそう……て、だから、もう、止してって言ってんのに」
「佐助」
 本気の伺えない制止に止まらぬ手を素肌に差し入れ、幸村は低く名を囁いた。耳を噛む。
「……久し振りだな」
 佐助は僅かに沈黙した。未だ消えない火傷の跡をざらりとささくれた指が掻き、僅かに背が震える。
「うん、そうだね」
「心配を掛けたであろうな」
「そりゃあ、心配しないわけないよ。飛び出してってあんたを助けに行こうとしたけどね、大将に止められちゃった」
「流石はお館様だ。織田と徳川の連合軍を前に、幾らお前が手練れでも、手負いの密偵一人で突破出来るものではない。礼をしたためねば」
「何の、お礼………」
「お前の命を救って頂いた」
 佐助は小さく俯いた。
「俺の命なんか、どうでも良いよ」
「そうか。だが、手の者を救って頂いて、おれが感謝をする事には、まさか文句はあるまいな」
「………今は、あんたが俺の手の者、なんだからね。俺様は、あんたのご主人様ですよ」
「そうだな。主を満足させてやらねばなるまい」
 軽口か本気かの区別の付かない声色に、勝手なことを、と眉を寄せた佐助に腕を巻き付け、幸村はぐいと持ち上げた。
「うわっ、ちょっと!」
 文句を聞かず、そのまま大股で寝台へと戻りどさりと俯せに押し倒す。佐助は身を捻り、のし掛かる幸村を慌てて押し退けた。
「もう、旦那ってば、人の話聞いてんの!?」
「聞いている。主の言葉を聞かぬわけはなかろう」
「何処が聞いてんだよ!」
「余り喚くと、剣闘士が主の意にそぐわぬ真似をしていると、誰かが来るぞ。さすればおれは縛り首だ」
「誰が来るってんだよ! 此の城に居るのは、みんな武田の者だって、言っただろう!」
「その主は、お前であろう。……いいか、佐助」
 肩に引っ掛かるだけの衣を丁寧に剥がしながら、幸村は顔を寄せて囁いた。
「お前の意にそぐわぬ様なら、遠慮なくおれを斬れ」
「────、」
 見開いた色の薄い目が大きく揺れる。幸村はその頬を撫でた。
「それが、お前の役目だ。お前は武田の臣であり、おれはただの奴隷だ。お館様の臣が、たかが奴隷の言いなりになるなどあってはならぬ事だ。……心しておけ」
「そんなの、お館様なら………」
「そうだ、お館様は奴隷を使わぬ。武田に拾われた奴隷は皆、身分を解放されておる。しかし剣闘士奴隷ともなれば、それは不可能。なればお前は、その分に応じた態度を貫かねばならぬ」
 無言で目を伏せ青ざめた額に口付け、幸村は痩身を掻き寄せる様に抱き、身を伏せた。主に縋ることを知らない密偵の腕は、だらりと敷布の上へと放られたままだ。
 幸村はゆっくりと、抱え込んだ肩をさすった。
「すまぬな、佐助。暫し、堪えよ」
 ふ、と、喉元で小さく佐助は笑う。
「大将と同じ事、言うんだもんな。厭になるね」
「……そうか」
「判ってますよ、任せておいて。俺様がちゃんと、あんたをお館様の所に、帰してあげるから」
 明るい声で言う佐助が、今此の時になっても未だ、幸村を剣闘士としてしまった事を悔いていることを知っている。佐助の責である事など何一つないと言うのに、火傷などするのではなかった、止められても戦へ出るのだったと、そう思っている事が、ありありと判る。
 しかし幸村はそうか、任せた、と囁いて、それ以上は言わず唇を合わせた。縋らない密偵は、今度は文句を言わずに、ただ目を閉じた。