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何、毒ではない、と握らされたそれは僅かに癖のある匂いが立ち上っていた。 相手を心地良く蕩し、良い夢を見せる事ができる上に滋養の薬にもなるのだ、想う相手が幸せならば嬉しかろうと企み顔で言う師に、曖昧に頷いて取り敢えず持って帰って来た、そこまでは良かった。 しかし想う相手と言われても、心当たりのない幸村である。想いを強く寄せると言えば信玄だが、当の本人に呑ませる訳にもいかぬ。 他に最も近しく親しい相手と言えば佐助であったが、なにがしかの効果のある薬だとして、あの忍びに効くとも思えぬ。 良い夢が見られるのだったか、ならば眠り薬のようなものであろうか、と旅の汚れを落とし食事を済ませ、今宵は未だ勤めから戻らぬ忍びを待たずに寝間で一人手酌で寝酒を楽しみながら、幸村は己の杯へとそれを落とした。 酒に混ぜれば成る程、確かに匂いは気にならなくなる。舐めてみても格別変わった味もない。 信玄が此の自分に悪い薬を持たせる訳もない、と頭から信じてけろりと飲み干し、幸村はそのまま銚子を数本一人で空にした。 おかしいと気付いたのは、さてそろそろ寝るか、と上げた腰がそのまますとんと再び床へと落ちた時だ。 何だ足が痺れたか、と足の指を動かしても不具合はない。 首を捻り、もう一度慎重に立ち上がろうとすれば、妙に退けたへっぴり腰を伸ばすことが出来なかった。 まさか此の程度で酔ったのか、とよろよろと壁伝いに歩き、幸村は水を呑もうと部屋を出た。 もう深夜だ。夜番の者は兎も角、他の者は皆寝静まっているだろう。家人を呼び付け水を持って来させるのも気が引けたし、何より気兼ねなくがぶがぶと冷たい水を呑みたかった。気を利かせた白湯が椀に一杯出て来た程度では、まるで足りぬは目に見えている。 そうして厨へやって来て、一口水を呑めば酷く喉が渇いている事に気が付いた。胃の腑に流れた水の冷たさに、躯が酷く熱を持っている事にも漸くに気付く。 今、槍を持てば、己でも押さえられぬ程に火を噴くような、そんな気がした。 幸村は震える息を吐いた。同時にううう、と唸る獣の様な呻きにぎくりとして、辺りを見回すも誰もいない。 大きく呼吸をし、ふう、と緩く噛み締めた歯の合間から息を洩らすと、今度は確実に己の喉が、うう、と呻いた。幸村は反射的に口を押さえる。 己は一体どうしたのだ、と瞬き、しかし師の寄越した薬だ、おかしな事にはならぬ筈だと幸村は目紛るしく考えた。呑んだ酒にまた別のなにかが混入していたものか、それとも自覚するより旅の疲れが深く、妙な酔い方をしたものか。 吹き出る汗が長風呂でもしたかのようにつるつると滑り落ちていく。脂汗のような不快なものではないが、飲んだ水がそのまま流れ出ていくような勢いに、幸村は己の躯ながらも若干呆れた。 その呆れは多分に戸惑いを含んでいて、幸村は柄杓を置き、うう、ううと唸る口を押さえたまま途方に暮れる。 忍びを誰か呼び付け妙な毒でも飲んだかも知れぬと訊くがいいのか、医者を呼ぶがいいのか。 「あれ? 旦那?」 ふいに掛けられた声に、幸村は口を押さえたままぎくりと竦んだ。それから何を竦む事がある、と思い直すががっちりと固まった躯は容易く振り向いてはくれない。 「どうしたの、疾っくに寝たもんだと思ってたのに。お水? まーた寝酒したんだろ。酒は口が渇くから、あんまり嗜むもんじゃねえよ」 若い身空で酒の害とか厭でしょうと軽い口調で小言を言いながら、佐助はとんと土間へと降りたようだった。そのまま歩んでくる足音も気配も、はっきりとではないが、少なくとも幸村に判る程度には、顕している。 態とであろうし希薄なものだが、しかし幸村は妙に鋭敏になった己の全神経がびりびりと震え、佐助の動きの全てを掴もうとそちらへ向くのを困惑と共に感じた。 振り向いてはならぬ、と肩を怒らせ口を押さえたまま、幸村は瓶の中の闇に黒々とした水を睨む。何故かは判らぬが、今、佐助を見てはならぬと、直感が告げている。 しかしそんな幸村を余所に、どうしたの、と訝しげな声を上げた佐助はお構いなしに近付いて来る。 「気分でも悪い? 部屋に戻ろうよ」 「だ、大丈夫だ、佐助!」 無理矢理に引き出した声がみっともなく裏返る。しかし繕う余裕もなく、幸村は慌てて捲し立てた。 「水を飲みたいだけだ! ほ、報告は明朝聞こう! お前も疲れたであろう、もう今日は部屋へ退いて、ゆっくりと休め!」 「………まあ、そう言うなら報告は明日にしますけど、でも旦那、なんか変だぜ?」 ついに背後に立った佐助が、肩越しに顔を覗き込もうと首を伸ばす。幸村はぐり、と顔を背けた。 「ちょっと、旦那」 「いいい、いいから、向こうへゆけ! 命令だ!」 「そんな訳判んねえ命令すんなよ。どうしたんだよ、ほんと、おかしいって」 「おかしくなど、ない! し、少々、呑み過ぎた、だけだ!」 「そりゃ、酒の匂いはしますけど………」 低い声が耳に流れ込む。それだけでぞわりとうなじの毛が立ち、幸村は唐突に下腹部の熱を意識した。ぽた、ぽたと汗が顎の先から落ちる。 「すっげえ、汗」 「あ、暑いだけだ!」 「気分は?」 「悪くない! も、もうおれも寝るから、お前も………」 「そうね、寝ますよ」 言って、ふと背後に迫っていた気配が離れた。幸村はほっと肩の力を抜く。 「その、妙な匂いの薬の正体、教えてもらってからね」 あ、と思った時にはくと肩を掴まれて、かと思えば意志に反してぐるりと回れ右をさせられた躯が、未だ忍び装束を着たままの佐助に向き直っていた。 |