本文サンプル>>> ラヴィナス
 
「誰か、おらぬか」
 しんとした部屋に、己の声だけが静かに響いた。
 無いと判っている返事を暫し待ち、幸村は小さく鼻を鳴らしてもう全て暗記してしまった信玄からの文の束を文箱から出した。
 此の古寺に隠れてから頂いたものではなく、退屈だろうと上田の自室から、佐助が持ち出して来たものだ。幾度も開き過ぎた為、持つだけでくたりと紙がへたる。
 此のような手紙の束ひとつで誤魔化せると思うな、とその時には焦燥のままに声を荒げたものだったが、実際、こうして信玄の手蹟を目にするだけで心の荒波が引いてしまうのだから、まったく憎たらしい忍びである。
「佐助は未だ戻らぬ様だな」
 独り言に返る言葉はない。しかしさわさわとした忍びの微かな気配は、壁の向こうや天井裏に在る。
 隠そうと思えば誰にも察せられる事のないだろう真田忍びの慣れた気配に、幸村は警戒をしない。いちいち下女を呼び付ける面倒を嫌って火鉢に鉄瓶を掛け、手ずから茶を淹れるのも昔からの習慣で、まるで上田でのんびりとくつろいでいる気分だ。
 
 ただし、一日二日の休暇の話であればだが。
 
 此の窓もなく縁側に面しているでもない部屋で日がな一日閉じ籠もり、厠も風呂も奥まった、外を見る機会と言えば風呂場から格子越しに覗く月だけという生活を始めて、半年にもなろうか。
 気配は感じるものの忍びは誰も姿を現さず、勿論他の者との接触もない。顔を合わせると言えば毎日必ず顔を出し、時には一日中幸村の話相手を務める佐助だけで、その佐助も昨夜早めに辞して以来、夜も更け始めたというのに今日は未だ顔を出さない。
 何か任務であろうか、今日は戻らぬであろうかと考えて、幸村は開き掛けた文を丁寧に畳み、文箱に戻した。
 文机に丁寧に箱を乗せ、それからさほど広くもない、如何にも隠し部屋と言った空間の真ん中に陣取って、鈍るばかりの躯を伸ばす。室内では流石に槍が振れぬ以上、どうしても躯は鈍る。そもそも、肝心の槍もない。
 此のままでは使い物にならなくなるが、と考えながら、幸村は黙々と屈伸を繰り返した。薄暗い部屋の空気が揺れ、文机の側に寄せた火が振れて壁に大きく影が動く。
「……腹が減ったな」
「そりゃ、申し訳なかったね」
 ぐ、と屈伸の途中の半ば屈んだままの姿勢で振り向けば、いつの間にかやって来ていた佐助が、珍しく少しばかり息を切らして立っていた。
 忍び装束のままの佐助は後ろ手に静かに板戸を立て、猫手の籠手を嵌めた片手にぶら下げた包みを振る。
「饅頭で悪いけど、いい?」
「明日の朝は、飯と肉が食いたい」
「はいはい、承知。燻し肉で良ければ、用意するわ。すみませんねえ、まさかこんなに遅くまで掛かるたあ、思ってなくてさ」
 飯の準備してけば良かったね、と言いながら、佐助は下座に座り包みを置いて、額当てを取った。ふう、と息を吐く仕種の通り、薄らと汗を掻くようだ。よっぽど懸命に駆けて戻ったのだろう。
 幸村はぎしぎしと幾らか躯を伸ばして息を整え、佐助の前へと座った。
「何処へ行っておった。何の任務だ」
 幸村が此処に居る以上、佐助の仕事は全て信玄に与えられたものだ。しかし佐助はいつもの通り、軽く肩を竦めただけでそれについては何も答えなかった。
 幸村は構わず、言葉を重ねる。
「お館様は、お元気か」
「勿論。こないだ報告した通り、織田と伊達が睨み合ってるからね。織田を引き付けておいてくれる太っ腹な独眼竜に感謝しつつ、体勢の立て直しを図ってるとこだもの。忙しくしておられますよ」
「おれも、何か手伝わねばならぬであろう」
「あんたの仕事は、此処で暫く隠れてる事だよ」
 籠手を脱ぎ、裸の指がちょいちょいと振られる。佐助の言葉は外連ばかりだが、よく聞けば中身はいかにも信玄の命だ。
 此処にやって来て間もない頃は、早く甲斐へ戻らねばとそればかり喚いたものだったが、佐助の言葉が信玄からの言葉であると気付いてから、幸村は駄々を捏ねる事をやめた。
 信玄の思惑であるのなら、幸村が動けば策の邪魔となるということだろう。ならばまさに、今は此処に留まる事が、信玄の為になるのだ。
「……上杉は、如何致しておる。独眼竜が織田と戦を起こすなら、奥州を攻める絶好の機会であろう。先を越されるのではないか」
「ところが、上杉は一揆衆の牽制に忙しくてね。一揆衆を上杉が引き受けてるからこそ、伊達は織田に焦点を絞ってられるわけだけど……うちとしちゃ、有難い事だね。織田も一揆衆もほっといて、上杉伊達連合軍、なんてやられちゃったら、今の武田は大打撃だよ。ほんと、大将も旦那も、運に恵まれてるよね」
 周りが勝手に避けてくれちゃうんだから、とにやにやと笑う忍びに、幸村はふんと鼻で嗤った。腕を組む。
「何某かの理由があろう。お館様の、策が功を奏したのだ」
「ありゃ、ばれちゃってるの」
「無論。どのような策であるかは若輩者のおれなどには判らぬが、しかし先の戦で負けた我らを攻める方が、勝った織田を攻めるよりも容易い筈だ。そうでなくとも、わざわざ遠く近江まで赴いて戦を仕掛けるのは、不自然だろう。何か理由がなくばな」
 ふうん、と僅かに顎を上げて呟き、佐助はぱちぱちと瞬いた。
「旦那も色々と考えてるもんだねえ」
「お前は、考えなさ過ぎだ」
「忍びなんてな、予断は禁物。上の決めた事に従うだけですから」
 頭は悪くも無い癖に、とちらと睨み、幸村は包みを拾って膝の上で開けた。
「冷めているぞ」
「仕方ないでしょ。戻る途中で、どうにか買って来たやつなんだから」
「腥い」
 がぶり、と固くなり始めた饅頭に噛み付き一言洩らせば、佐助はおやという顔で眉を上げ、胸元を引っ張り鼻を寄せてくんと鼻を鳴らした。
「そうかなあ」
「血は浴びておらぬ、と、そう言いたいのだろう」
「え、やだなあ。別に血腥いことはしてませんって」
「血を浴びずとも、血脂は臭うものだ」
 ふん、と鼻を鳴らし、幸村は一口で半分齧った饅頭をぽいと膝の包みへと放り、佐助の胸倉を掴んだ。そのまま力任せに引き寄せれば、忍びの痩躯がぐっと傾く。
「おっと、」
 慌てて床へ手を突き躯を支えた佐助の顔へと鼻先を寄せ、幸村はすんと鼻を蠢かした。忍びは首を後ろへ逸らし僅かばかり距離を取り、厭な顔をする。
「人の臭いなんか、嗅ぐもんじゃないよ」