本文サンプル>>> 金魚売り |
小十郎は滝から流れる小川へと歩み寄り、袖を捲って清水を掬った。濡れた岩場に太刀がぶつかり、がちゃ、と硬質な音を立てる。掌の清水を飲むと、喉を冷たい水が下る様がありありと判る。 ふう、と息を吐き、小十郎は片膝を落としたまま滝を見遣った。 きらきらと光る飛沫が小さな虹を作る。驚く程近くでほうほうと山鳩が鳴き、思わず振り向いた小十郎はふいに額に掛かった人影に、反射的に太刀へと手を掛けた。 「おっと、怖いなあ」 慌てて両手を上げて害意のない事を示した男は、細面に橙の髪をさらと掛けて目を丸くして見せた。意外過ぎる人物に、小十郎は剣呑に目を眇めた。 「手前……武田の忍びか」 伊達の黒脛巾組は戦よりも諜報が主流の為か皆目立たぬ風貌をしていたが、戦場で会う戦忍には変わった色合い者が稀にいる。染めているのか自前であるのかは判らなかったが、此の男の頭や瞳は、如何にもそれだ。 その明るい髪を陽の光に揺らめかせて、山間には酷く馴染む緑の装束に、今日は額当てを当てず前髪を下ろした男は、戯けた笑みをへらりと浮かべた。 小十郎は笑み返しなどせずに、警戒も露に低く声を落とし、恫喝めいた声を掛けた。 「こんな所で、何をしてやがる。まさか俺の命でも、狙いに来たか」 同盟とまではいかずとも、現在伊達と武田の間には停戦協定が敷かれている。 とはいえ親しく文を遣り取り等している訳でもなく、互いに内情を探る事も今の所してはいない為、此の男の主である武田の若虎の噂も、近頃まるで聞かぬ程だ。 無論政宗の好敵手だ、忘れる訳もないが、しかし小十郎にしてみれば未だ未だ小粒の一武士に過ぎない若者の事など、今此の時まで、頭の片隅にもなかった。 忍びはまさか、と頭を振って、僅かに腰が退けた風に後退った。 「んもう、そんなに怖い顔、しないでよ。あんたに用があった訳じゃないよ。たまたまだって」 「何の用があるってんだ? 此処は奥州、独眼竜の治める土地だぜ。武田の烏なんぞが、先遣りもなく彷徨いていい場所じゃあ、ねえ」 「ありゃ、面白い事言うねえ。忍びが先遣りを送るなんて、聞いた事がねえや」 肩を竦め、忍びはついと滝の方へと足を進めた。 「兎に角、あんたに用は無いんでね。俺様の事は、ほっといて頂戴よ」 「放っておける訳がねえだろう。他国の忍びなんざ」 忍びはちらちらと髪の影を落とす薄い色の目を細め、つと柔らかく苦笑した。 「ま、その言い分はごもっとも」 仕方ないなあ、と忍びの骨張った痩せた手が誘う様に閃いた。手甲の無い、生白い肌には薄い傷跡が幾つも見て取れる。 「じゃあ、来なよ。見せてあげるよ」 |