本文サンプル>>> Smile |
「旦那ぁ、いらっしゃい」 「息災か」 「はは、息災、息災。おようちゃんから、おっかさんの柏餅貰って、肴にしてたとこ」 そうか、と頷いて上がり框に腰を掛ければ、佐助はとろりと酔いに潤んだ目を戸口に向けた。 「蜂須賀の旦那も、今日はぁ。お日柄も宜しゅう」 「四日ぶり……ですかな」 「そうですねえ。毎日たあ言わないけど、二日にいっぺんくらい、此のお人を連れてきちゃあくれませんかねえ」 べったり、と背に貼り付いた躯から酒の匂いが上って、幸村は眉を顰めた。 「佐助」 「嗚呼、駄目駄目、旦那。弥五郎さんでしょお?」 「お前、また随分と呑んだな」 「良いじゃん、別にぃ。お仕事もないんだし」 「……此の小物は、売り物ですか」 土間に置かれた籠の中を覗いた蜂須賀に、負ぶさる様に幸村に懐いていた佐助が頷いた。 「そうですよー。俺様が作ったんだぜ」 「ほう、何処で仕入れるのかと思っていたのですが、そうですか。器用なものだ。此れを商売にしても、食っていけるのでは」 「ははあ、そうねえ、あんたんとこの関白さんからお許しでも出たら、旦那と一緒に商売でもしよっかなあ」 決して許される事などなさそうな夢物語を口にして笑う佐助の、胸元にだらりと回された腕を、幸村は軽く押さえてとんとんと幼子にする様に叩く。佐助は気持ち良さそうに首筋に懐いた。 申し訳ない、残酷な事を言った、と目だけで幸村へと謝罪して、蜂須賀は踵を返した。 「では、某は、此れで」 「あっれー、帰っちゃう? 一緒にお餅、食べてけば良いのに。柏餅も、未だあるよ」 首を巡らせて頬を付けていた顔を覗けば、佐助はにんまりと目を細めた。 「餅粉の匂いと、餡この匂いがするよ。今日の土産は、おせつさんが持たせてくれたお餅、そうだろ」 「餅は兎も角、何故おせつが持たせたと判る」 「その風呂敷包み、あんたんちのじゃないの。おせつさんが持たせてくれたんじゃなきゃ、店の風呂敷だろ」 ほう、と遣り取りを眺めていた蜂須賀が感嘆の声を上げた。 「流石の目利きで御座るな」 「俺様は特別、鼻が良いのよ。頭だって未だ未だ、耄碌しちゃあねえよ」 ふふん、と自慢げにするその仕種は子供じみて、蜂須賀は苦笑を浮かべて頷き外へ出た。 「では、幸村殿。また」 「お一人で大丈夫ですか」 「何、此れでも豊臣の武士。未だ明るい内から、一人歩きを心配される程落ちぶれては御座らぬ」 それでは、と板戸を立ててざくざくと規則正しい足音が去って行く。幸村は佐助を懐かせたまま、草履を脱いだ。 「ねえねえ、今日は? 未だ仕事、残ってるの? 帰る?」 「否、もう下城した。屋敷にも、今日は戻らぬやも知れぬと申して来たし、お前が良ければ、居るが」 「良いに決まってるだろ」 座敷に上がり込んだ幸村に、えへへと笑って四つん這いで寄って来た佐助は、そのままごろりと胡座に懐いた。猫の様な仕種に目を細め、幸村その橙の髪に指を差し込んで梳いた。 「飯は食っているのか」 「うーん、今日は面倒臭くって、柏餅と酒」 「馬鹿者。幾らお前でも、躯を壊すぞ」 「だって、自分で作って、自分で食うなんてのも、さあ。味気ないって」 「飯屋に行けば良かろう」 「お仕事に出た時なら、そうするけどさあ」 数日に一度だけ、手慰みに作った小物を持ってふらりと出る佐助を、周囲の者がどう思っているのかは幸村は知らない。ただ、不審に思われているだろう事だけは想像に難くない。 噂好きの町人達の事だ、好き放題の憶測が飛んでいるだろう。こうして訪ねて来る己の存在もまた、その憶測に拍車を掛けているに違いない。 「不自由は、無いか」 「はは、なんかそれ、お妾さんに言う言葉みてえだね」 「………大差なかろう」 そうだねえ、と笑って腹に擦り寄る躯を、幸村は腕に抱いた。食べる物が変わったとは言え、目方が増えた気はしない。相変わらずの細い身だ。 「囲われ者だもんねえ、俺様」 「……厭か。厭なら、」 「ばか。良いんだよ。こうして旦那も会いに来てくれるんだし、酒も旨いし、ぼうっとしてても不自由ない金も貰えるし、可愛い女の子は足繁く通ってくれるし」 「お前、まさか」 「まさかって何よ、まさかって。手なんか出しちゃあ、いませんよ。信用してよ、もう」 唇を尖らせた顔で見上げて、けれど文句を言う声は酷く甘えたものだ。 幸村は笑って、腕の下へと手を遣り、ぐいと持ち上げた。すかさずぺたりとしなだれ掛かった躯を抱き寄せる。佐助はごろごろと喉でも鳴らしかねない仕種で、肩口に甘えている。 その、酒の臭いの立ち上る耳許に唇を近付けて、幸村は囁いた。 「───去ったか」 「うん」 囁き返し、佐助は僅かに言葉を切った。今の今まで弛緩していた躯が、ぴり、と僅かな緊張を帯びる。 「……忍びも居ないね。少なくとも、俺様の判る範囲には、獣の一匹も無いよ」 隣家は空き家だ。更にその隣には、未だ豊臣が天下を獲る遙か前から大阪に忍ばせていた真田忍びが、今も町人夫婦を装って暮らしている。 他にも密やかに、ごく自然に、町に溶け込んでいる真田忍びは幾人も居た。その内の一人が甘味屋を営んでおり、其処が実質の忍び宿になっていたから、佐助は甘味好きの小間物屋の弥五郎として、暮らしている。 「お前が判らぬ程なら、誰にも判らぬだろう。……先程裏から覗いていた娘御は、時折来ている……」 「うん、おようちゃん」 「………間者か?」 「いや、どうだろうな。少なくとも最初に懐いて来た時は、何の意図も無かったと思うよ。毛色の珍しい男に、気を取られただけでさ」 「今は、どうだ」 「今もね、豊臣の──なんてのじゃ、ねえさ。見張られてもねえよ。……ただ、知らずに洩らしてるかもしんないけどね。何処ぞの甘味屋なり、古着屋なりさ。恋のご相談、なんつって」 気になって、覗きに来ちまうんだろ、と身を離して胡座を掻いた佐助の後頭部に手を回し、幸村はぐいと再び引き寄せると髪に鼻を寄せくんと鳴らした。 「臭いぞ、佐助」 「でしょ」 「何をした?」 「水で酒薄めて、それで頭洗ったの」 「呑んでは無いのか」 「そりゃ、口から臭わなきゃあ、嘘だろ。ちょっとは呑んでるけど、でも湯呑み一つくらいを、あんたと蜂須賀の旦那が来る頃見計らって、胃に流し込んだだけだよ」 酔いに濁っていた目は今はすっきりと、いつもの緑掛かる石の様な瞳に戻っている。幾らか充血した白目はそのままだが、此れもまた何かの細工であろうと見当を付けて、幸村はぐきりと首を回した。 「それにしても、旦那も演技が上手くなったもんだねえ。彼れが幸せならそれで良いのです、だって」 背後に回り、肩に手を掛けながらからかう言葉に、幸村は憮然とした。 「何処に誰を忍ばせておったのだ? 余り此の土地で無駄な聞き耳を立てるな。何処に間者がいるやも知れぬ」 はいはい、と軽いいらえを返しながら肩を揉む佐助に、眉間に皺を寄せたまま幸村は溜息を吐いた。 「騙し合いとて、上手くもなる。豊臣へ招聘されて、もう二年にもなるのだぞ。その間毎日、彼の蜂須賀殿や竹中殿と、化かし合いをしておるのだ。……竹中殿など、未だに信じてはおられぬようだぞ」 「ようだぞ、って、会えてないの」 「……近頃はな、離れから出ても来ぬ。もう、臥せって長い」 「そろそろかな」 「嗚呼、長くはあるまいと、城内でも噂だ」 「旦那の耳に入る様じゃ、よっぽどだね」 「どういう意味だ」 睨み付ければまあまあ、と笑って、佐助は首に指を掛けた。 「凝ってるねえ。随分窮屈なんだな、豊臣の城ってえのは」 「熱狂的……と、申そうか。皆、秀吉殿に心酔している」 「それだけ聞くと、武田と大して違わねえけど」 「大違いだ。何より、掲げる理想が違う。力無き者は容赦無く切り捨てる、その遣り口も気に入らぬ。入ったばかりの若い兵が、鍛錬と称して次々と潰されていくのだぞ」 「………ははあ」 「竹中殿の目が光っているうちはそれでもさほどの理不尽は無かった様に思うが、近頃は酷い。少し目を離すと、直ぐにちょっとばかり腕力のあるだけの者が、下の者を叩き伏せて半殺しにしてしまう。……力ばかりの軍など、思い上がった挙げ句に滅びる。竹中殿ほどの方が、何故豊臣などに与しているのか、おれには───」 「おっと、それ以上は言うんじゃないよ。竹中の旦那に失礼だ」 とんとん、と背を叩いて、佐助は再び幸村の前へと回って胡座を掻いた。 「俺様は、竹中の旦那が豊臣に付いてるのは、判る気がするな」 「そうか?」 「うん。俺様も、竹中の旦那と一緒だからね」 首を傾げれば、佐助は例えば、と指を振った。 |