本文サンプル>>> 南天の火を落とす
 
「佐助! 手合わせをしてくれ!」
 名を呼び乍らどたどたと荒い足音を立ててやって来たかと思えば、漸く完全に床を上げる事を許可されたばかりの主が槍を片手にそう言った。童のように目を綺羅綺羅とさせた満面の笑みに、忍具を磨いていた手を止めて、佐助はうんざりと半眼になった。
「勘弁して下さいよ。俺がお医者に怒られちゃうよ」
「躯なら、もうすっかりいいぞ」
「馬鹿言ってんじゃないっての。急に手合わせなんか、無理無理!」
 晒しの上に並べていた忍具をくるくると一纏めにして手早く道具箱に仕舞い、佐助は立ち上がり不満げな顔をして居る幸村に手を差し伸べた。
「ほら、槍貸して。もう、勝手に取って来るんじゃないよ」
「使ってやらねば槍も錆びよう」
「あんたの槍はそんな鈍じゃねえだろう。大体、ちゃんと手入れはさせてますから、心配しなくて大丈夫だよ」
「槍が錆びずとも、某が錆びるぞ」
「旦那はもっと業物ですよ。だけど今あんまり無理しちゃ、元も子もないんだからさ」
 しかし、と納得しかねた様子の幸村の手から、いいから渡しなさいと二槍を受け取り、佐助は唇を結んだ。それからにん、と笑みの形に顔を歪めて、幸村の左の袖をつんと突く。
 ひら、と、空の袖が揺れた。
「大体手合わせにしても、二本持って来たってしょうがないじゃないの、旦那」
「其れもそうだな」
 笑った顔に翳りは無い。佐助は眼を細めて、幸村の背を押し退室を促した。すっかりと肉の痩せた背が、それでも筋肉の筋を野良猫の様に蠢めかせて踵を返す。その颯爽とした躊躇いの無い動きに、片袖がまた揺れる。
「………まず、散歩からね、旦那。体力戻さないとさ」
「散歩なら、毎日お前としているではないか」
「城下や畦道じゃなくって、裏の山に登ってみよう。其れが楽に出来る様になってからですよ」
 覚悟しとけよ、息が切れるぜ、と言ってやれば、望む所だと幸村は笑う。
 頬が痩け、計らずしも精悍さを増した顔は以前よりもぐっと老けて見えたが、その目の輝きだけが童だ。曇りの無い、翳りの無い目をして居る。
 大股に歩く背はすっかりと片腕の軽さに慣れた様だ。最初、離れの庭を散歩しただけで、幸村は油断をすると右側に大きく傾いでしまう躯に唸っていたものだった。
「腕と言うのは、割に重いものなのだな」
 そう言った幸村に、佐助はそうだよぶっとい骨に肉がみっしり付いてるんだからねと頷いて、其れから機嫌を損ねたかと幸村を見たが、主はそうかと感心した様に頷いて佐助の腕を取り、しかしお前の腕は軽かろうと笑ったのだった。
 
 
 
 幸村が片腕を失って、もう半年になる。
 
 其の日の戦、佐助は幸村と離れ信玄の側で戦っていた。信玄の守りが、其の日佐助に与えられた戦場だった。
 其処へ飛び込んで来た幸村の行方不明の報せに、顔色を無くしたのは佐助でも信玄でもなくその周囲の武将や真田隊の者等で、騒然とする家臣を一喝して静めた信玄に、幸村を探し危地にあるなら手助けせよと命じられ、佐助は其れから陣幕を飛び出した。
 後から聞いた話に寄れば、その後信玄も騎馬にて幸村を助けに自ら出陣したと言うのだから、平静な顔をして、甘い大将であると言わざるを得ない。しかし人の事は言えまいとは、自覚はしている。
 部下の手前取り乱す事は出来なかったし、乱れれば乱れるだけ能力の低下を招く事は重々承知していたから、佐助は始終冷静だった。取り乱すのは、もう間に合わぬと判ったその時で良いと思って居た。
 駆け乍ら、さっと近付く部下に幸村を見失った大まかな位置を聞き、其方へ向けて走り、またその辺りを見張って居た部下から位置を聞く。其れから飛んだ。ある程度まで位置を絞ってしまえば、空から探した方が早い。
 すっかりと乱戦となった真昼間の戦場で飛んだ事が幸村の耳に入れば、狙い撃ちでもされたらどうすると目くじらを立てられるのだろうし、普段ならば佐助も飛びはしない。だが、人を───幸村や信玄を探すのであれば、この方が遙かに手っ取り早かった。空から見れば、二人の炎は否応なく目に付く。
 案の定、ちかりと目の端に、真昼の炎が陽炎の様に揺らめいた。ごうと現れ消えた其れをしっかりと五感で捉え、佐助は地へと飛び降りその場に居た敵兵を一薙ぎして、炎を目指して駆けた。
 其の陽炎の、何時になく弱々しい揺らめきが、酷く胸を騒がせた。
 後になって、普段ならば二槍に宿るべき炎が一本の槍のみにまとわった為だと判ったが、その時にはまるで幸村の命が消え失せようとして居る様な、そんな錯覚を覚えたのだった。
 実際死に掛けて居たと言っても過言では無かったが、しかし幸村は結局、側に辿り着く前に自ら包囲を崩し突破して、駆け寄った佐助の姿を認め、其れから、倒れた。
 片腕となっても鬼気を纏い一本のみの槍を振るい吼える赤鬼に恐れをなして逃げ惑って居た敵兵の、一瞬の士気の昂揚は、佐助の得物に一舐めされた。
 佐助は物陰に担ぎ込んだ幸村の傷の止血だけをして、戦場から外れた藪を主を背負って駆け、敵の忍びを薙ぎ伏せ乍ら武田の本陣へと戻った。
 
 
 腕を失っただけなら、此処まで養生に掛かることは無かったかも知れない。完全に体力が戻らないまでも、もう少し早く起き上がり平常の生活が営めただろう。
 だが、戦場で負った傷は、応急処置以上の手当てを直ぐにはしてやれなかった事と、呆れた事に片腕で槍を振るい死地を自ら切り抜けた其の無茶で、一時はあわや命を落とすかと言う所まで悪化した。
 血が足りず、意識を失ったまま幾日も目覚めぬ日が続き、漸く目覚めたかと思えば今度は傷口が腐った。お陰で肘から下を失うだけで済んでいたものが、膿んだ傷の毒から命を守る為に更に落とされて、今は肩から下が綺麗に無い。
 二の腕が有ろうが無かろうが大して違いはないと幸村は言うが、短くとも指が無くとも、腕が有るか否かは重要な事だと佐助は思う。今の状態では支えになる肉が無いから、義手を付けてやることもままならない。
「ああ、良い天気だね」
 縁側から庭を見乍ら言えば、幸村はうむ、と頷いた。