見ない方がいい、とホークアイ中尉は言った。 でもボクは見たかった。 ニーナとアレキサンダーの姿。どんなにぼろぼろだっていい。あのときの母さんほど酷い姿じゃないはずだ。 否、もしあのときの母さんより酷い姿だったとしても、それでもボクは見たかった。 見て、触って、その硬くて冷たいふたりでひとつの身体を抱き潰してしまうくらい強く抱いて、血と死の臭いに噎せ返りながら大声で泣きたかった。 もちろん、そんなことはできないけど。 ボクに出来ることは抱き潰してしまうことだけだけど。 ごん、ごん、ごん、と微かに床が振動している。遠くから微かに聞こえた汽笛の音に、ボクは耳を澄ませてその間思考を止めた。深夜の汽車が通り過ぎて行く。貨物列車だろうか。深夜のせいか街中のせいか、とてもゆっくり走っているようだ。 やがて静寂が戻り、兄さんの微かな寝息を聞きながらボクは再び思いを巡らせる。 今日はたくさんのことがあった。 ニーナ。アレキサンダー。タッカーさん。 傷の男。 命を捨て掛けた兄さん。 壊れた兄さんの機械鎧。 壊れたボク。 雨。 明日にはリゼンブールに向かうことになっている。兄さんの右腕を直さなきゃ。それまでボクはちっとも動けない。 ああ、散歩に行きたいなあ。 こんな夜は散歩に行きたい。 もう雨音はしないけど、まだ雨はすっかりは止んでいないのが窓越しに見えている。霧のような雨だ。ボクの眼球のない眼は真っ暗闇でもこの糸のような雨を見る。 こんな中でうろついたら、後で兄さんに叱られるんだろうけど。だれが錆を落すんだ、って言って。 ちゃんと拭けば大丈夫、と、それが決まりのようにボクは答える。 ニーナとアレキサンダーを見たら、ボクは悲しいと思うだろう。がらんどうの身体には張り裂けそうになる心臓もないけれど、それでもどこかが血を噴くほどに痛むだろう。昨日、ふたりでひとつになったニーナたちを見たときみたいに。 それが決まりみたいに。 ああ、だけど、その痛みが欲しい。 今日は凄く怒鳴ってしまった。兄さんが馬鹿を言うからだ。 それで傷める喉はないけど、でもあのとき、ない身体の、ない精神のどこかが裂けるように痛んだ。死んでしまうと思った。焼け付くように熱かった。 あれは心だろうか。心が焼けたのだろうか。あのまま兄さんが死んでしまっていたら、ボクの心は焼き切れてしまっていたのだろうか。 壊れ病む精神もないのに。 そこまで考えて、ふいにボクは悲鳴を上げそうになった。 ああ、そうか。 ボクは狂わない。ボクは壊れない。 ボクの精神はどこかここではない世界に肉体と共に保管されていて、いつか兄さんがこちら側へ引っ張り出してくれるのを待ってる。 心とはなんだ。 それを確認したくて。 それで、ニーナに会いたかったんだ。 悲しみで心が潰れてしまう様を確認したくて。 肉の身体を持っていた頃の昔のボクは、こんなことを考えるヤツだったろうか。 もう忘れてしまった。 心とはなんだ。 魂の側のものか。 精神の側のものか。 肉体の側のものか。 それともそれら全ての繋がりの合間にあるものか。 魂は命そのものだ。 命無きものと命有るものを区別する、それが魂だ。 精神は意志だ。 本能や理性を持つ身体と、そうではない身体を区別する、それが精神だ。 肉体は器だ。 ボクに大きく欠けたもの。遺伝子を乗せる船。 精神のない生き物は植物。 魂のない生き物は屍。 肉体のない生き物はこの世のものではないもの。 そして魂だけのボク。 ボクはこの世のものではないのだろうか。 ボクが心だと思っているものは記憶に依るただの反射なのだろうか。 悲しんでみたくて。 自分よりちいさな子が死んでしまった、そんな知らない悲しみを味わってみたくて。 だからニーナを。 見たいと。 また悲鳴が絞り出されそうになった。駄目だ、騒いだら出したら兄さんが起きちゃう。せっかくよく眠っているのに。 ボクはぐっと悲鳴を呑む。 ああ、あの子を生き返らせてあげられたらいいのに。 でもそんなことは出来ない。みんなが苦しくなるだけだ。 ボクらが人体錬成を行って、ピナコばっちゃんがあの不敵に笑う顔の裏側で苦しんでいたのを知っている。 父さんと親しかったというばっちゃんは母さんとも仲が良かった。その母さんのあんな酷い身体を、ばっちゃんはボクらの目に触れないようにと埋めてくれた。あんなのはあんたたちの母さんじゃないよ、母さんは天国にいるんだと、ボクらを慰めてくれた。 女のひとなのに。もう絶対、何がどうあっても、親しいひとのぐずぐずの死体なんて見たくもなかったはずなのに。 ウィンリィのお父さんとお母さんの、戦いに巻き込まれてぼろぼろになった遺体を確認したのはばっちゃんだ。ウィンリィにもボクらにも見せてはくれなかった。リゼンブールに帰って来たウィンリィのお父さんとお母さんは、ちいさな壺に納まった白い骨だったから。 ばっちゃんとウィンリィの家には写真がたくさん飾ってある。ロックベル家と、エルリック家の、みんながちゃんと生きていた頃の幸せな写真が、今のボクらの写真と混ぜこぜに、昔も今も変わらないのだとそう主張するように。 ウィンリィは泣いた。ボクらのしたことを聞いてボクをぶん殴り、兄さんをぶん殴って泣いた。ボクを殴った手は真っ赤になってて痛そうだったけど、死ぬとこだったのよ馬鹿! と叫んでわんわんと泣いた彼女は一言も痛いとは言わなかった。 そうだ、ボクらは死ぬところだったのだ。ボクに至っては一度死んだようなものだ。 ボクらが死んでも世界は何も変わらない。ちっぽけな虫と同じ、ボクら。 けれどボクらが死ねば、ばっちゃんもウィンリィも泣くだろう。 会うたび兄さんの鋼の手足とボクの鎧の身体を見て、ほんの少しだけその黒い眼に同情のような哀れみのような静かな色を浮かべるマスタング大佐も悲しんでくれるかもしれないし、いつも静かだけどとても優しくボクらを見てくれるホークアイ中尉も悲しむと思う。 大佐の部下のひとたちもこんなボクにも仲良くしてくれるひとたちだし、やっぱり悲しんでくれるかもしれない。子供好きだと言ってボクらを構ってくれるヒューズ中佐は泣いてしまうかも。 知り合ったばかりだけど、ボクらに妙に同情してくれるあの変なオジサン、アームストロング少佐は凄く泣くような気がする。まだ子供なのに、と言って。 それから、師匠は───怒るかな。怒るかも。殴られるかもしれない。死んじゃってるのに殴られるのはちょと嫌だけど、ボクらが馬鹿で、そのせいで死ぬんだったらしょうがないかな。シグさんやメイスンさんは泣いてくれるかな。 そんな大事なひとたちを、ボクらはまた泣かせてしまうのかもしれない。この身体を取り戻す、と決めたから、振り向かずに前へ進もう、と決めたから、その途中で命を落してしまう可能性は低くはない。 実際、一度目はほとんど命を落したようなものなのだ。 ああでも、そう覚悟することと命に頓着しないことは別だ。 (兄さんのバカ) なんだかまた腹が立って来た。もう二、三発殴ってやるべきだったのかも知れない。でも残念なことにここからじゃ手が届かない。頭外してぶつけてみようかな。 あ、またお腹出してる。明日お腹が痛くなってもしらないよ。ボク、今日はふとん、直してあげられないんだから。 ボクはぎしぎしと音を立てて軋む首を巡らせて、窓の外を見た。音のない雨はまだ糸のように落ちている。窓ガラスにボクの赤い目が映っていて、これ、外から見たひとがいたらおばけだって吃驚するかも、と考えて少しおかしくなった。声を出さずに鎧の中で笑う。呼吸をしていないのに、息を吐いたように鎧の中の空気が震えほんのちょっと渦巻いた。 じっと蹲って夜明けを待つのは久し振りだ。たくさん考えごとをしてしまう。ぐるりと考えごとが一周して、またニーナの顔が浮かぶ。 たくさん遊んだよね、ニーナ。 アレキサンダーが一緒だからきっと寂しくないよね、ニーナ。 ごめんね。助けてあげられなくて。 ごめんね。ボクだけこっち側に戻って来てしまって。 ああ、あのとき兄さんが引き戻さずにいてくれたら、今ボクはどこにいたのだろう。 ニーナが逝くところへいたのだろうか。母さんの待つところへ逝けたのだろうか。 けれどそれは、ボクの身体と兄さんの手足の呑まれた場所とは違うのだろう。 ならきっと、ボクは母さんの待つ場所へは逝けなかったのだろう。 今ボクが死んだら、ボクはどこへ逝くのだろう。 いつかボクは身体を取り戻す。いつか兄さんは手足を取り戻す。 そのとき、きっと人体錬成理論は完成しているのだろう。 そのとき、ボクは可哀相なちいさなニーナを造らずにいられるんだろうか。 得られなかった悲しみを、救えなかった罪悪感に代えて。 罪が連鎖する。 生きるための欲望とは無縁のこの身体に、黒々と渦巻く昏い望みがべっとりと沈んでいる。 ああ、駄目だ。それはしてはいけないことだ。 ボクは兄さんを見た。それからもう一度窓を見た。 早く朝が来ればいい。兄さんが目を覚まし、またぎゃあぎゃあと騒いでひと騒動起こしながら大佐たちに別れを告げて、共に懐かしい故郷へ帰るのだ。 ああそうすれば、こんなことは考えない。 ごめんね、ニーナ。 君のことは忘れない。 けど、少しの間だけ忘れたふりをすることをゆるして。 身体を取り戻したら、君とアレキサンダーと君のお父さんの分、いくらでも、どれだけでも泣くから。 跪いて祈るから。 神様にでも何にでも、君のしあわせを祈るから。 ああ、早く朝が来ればいいのに。 |
■2004/4/24
わたしの書く話は「ああ」っつーのが多いですね。読み返すたびに削るんですがそれでもしつこい。
アルはニーナと仲良くしていたので、訃報を聞いた直後にごたごたしてうやむやになってたけど純粋に失って悲しい、という気持ちならエドより強かっただろうなあ、と思ったので書いた。はずが。ただの暗い話に。こ、こんなはずでは。
相変わらずタイトルセンスないです。
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