「い……ッたたたたた! 痛い!」 初めてのときですら『痛い』の『い』の字も洩らさなかった男の悲鳴に、エドワードは首筋に埋めていた顔を弾かれたように上げた。 「な、え? ど、どこ?」 「左足ッ! 退け!!」 「あ」 この可愛くない大人が逃げたことなど一度もないというのに、つい逃がさないようにと見た目よりもずっと鍛えられた腹へ乗り上げていた機械鎧の左足を、エドワードは慌てて退ける。ロイは大きく息を吐き、額へ掛かる黒髪を掻き上げた。 「どうも君は自分の手足がどういうものなのかよく解っていないようだな」 「いや、その、ごめん」 「手入れも全然してくれなくて困るとアルフォンス君もぼやいていたし」 「それは今関係ないし」 「大事な手足だろうに。生身の手足なら意識せずにできることが何故出来ないんだね、鋼の」 「だから今は関係ねェっつってんだろ。気を付けるよ、悪かった」 まったく、とぶつぶつとぼやきながらむくりと身体を起こしたロイを、エドワードはその腿に跨がり座り込んだままきょとんと見上げた。 「な、なに? どういう趣向?」 「趣向って」 呆れたような半眼で見下ろし、ロイはエドワードを追い払うように片手を振った。 「気が削がれた。やめだやめ」 「はぁ!? そりゃねェだろ!?」 「知るか」 「謝ったじゃんかちゃんとーッ!! やらせろーッ!」 「喚くなうるさい。ていうかやらせろとか言うな。振られるぞ」 「誰に」 「今後君が付き合う女性ことごとくにだ」 す、と切れ上がった金の瞳が鋭く見上げる。 「大佐」 「なんだ」 「なめんな」 呻くように押さえた声は変声期途中の子供の高さで、視線や言葉の剣呑さとは裏腹に腿の上にちょこんと座る姿はプライマリの生徒かと思うほど微笑ましい。 そのアンバランスな子供に思わず笑って、ロイは両手をエドワードの脇の下へと差し込みひょいと持ち上げシーツの上へと転がした。ころん、と音がしそうなほど可愛らしく転がったエドワードはバネ仕掛けの玩具のように飛び起きる。 「あのなあ!」 「いいから諦めて寝ろ、もう」 「寝れねー」 「そうか、寝ないならベッドから降りろ。私は寝る。書斎は好きに覗いていいがその奥の部屋は覗くな、研究室だ」 「そう言う意味じゃねェ!」 はいはい、といい加減に返事を返してベッドへと潜り掛けたロイは、ぬっと伸びて来た生身の左手に先程のし掛かられた脇腹をやんわりと掴まれ、眉を顰めた。 「なんだ。今日はもう寝ると言っているのにしつこいな」 「そうじゃなくて」 左手をロイの身体に添えたまま右腕を伸ばしてサイドテーブルの明るさの搾られたランプを調節し、エドワードは炎の下で露になった恋人の顔を覗き込む。 「顔色悪ィよ、大佐。ここ、怪我してんじゃねェ?」 やれやれ目敏い子供だ、と溜息を吐き、ロイはとんとんとエドワードの肩を叩いて退くように意思表示する。 「怪我という程じゃない。先日ちょっと捕り物があってね、その時の打ち身がまだ治り切らないだけだ」 上から見下ろしたまま退かないエドワードは情けなく顔を歪めた。 「ごめん。……痛かっただろ」 「だから痛いと言っただろうに。もう大丈夫だから退け、寝る。連日の激務でくたくたなんだ」 「………うん、ごめん」 素直に退き、そのままベッドから降りて上着を拾ったエドワードにロイは眼を瞬かせる。 「君が素直だと気持ちが悪いな」 「ッさいわ! いいから寝ろよ無能大佐ッ」 疲れてんだろ、とふてくされた声で続けたエドワードは上着を羽織り、椅子の背に掛かっていた赤いコートを手に取った。 「鋼の? 今日はアルフォンス君には泊まると言って来たから宿には帰れないとか言っていなかったか」 「………適当に夜明かしして帰る」 「風邪を引くぞ」 「そしたらアンタのせいだから」 「ひとのせいにするな。帰れとは言っていないだろう。一晩寝床を貸してやるくらいはするぞ」 エドワードは苦々しく頬を引き攣らせて振り向いた。解いたまま編んでいない髪が流れる。 「アンタってさあ、ほんとオレのことなめてるよね」 「そんなこともないさ、青少年」 嘯き、喉を鳴らして笑ったロイは腕を伸ばしてランプを搾り、薄暗がりの中でシーツを捲って見せた。 「おいで」 「────勘弁してくれマジで! 寝れねェって!!」 「いいからおいで」 よくない、と口の中で呟きむくれながら、それでも素直にコートを椅子の背に戻し着たばかりの上着を脱いで、体温の移るベッドへ潜り込んでしまう自分にムカつく。身を寄せたエドワードをシーツごと包むように抱き寄せたロイが、ぽんぽん、と背を叩いた。 「子供扱い」 「子供だろう?」 「子供はコンナコトしねェよ、オッサン」 眠気のせいかいつもよりも温かい身体に手を回し抱き寄せて鼻先にある鎖骨に唇を寄せる。膚の震えは快感ではなくくすくすと声を伴う笑いによるものだ。本当に腹が立つ。 「………子供を寝かし付けるのはこんな感じなのかな」 「ボタン外されながら言うセリフじゃねェぞ、大佐」 「最近エリシアに会ったかい、鋼の」 ぴたり、とシャツを開き掛けていたエドワードの手が止まる。 「………会ってねェよ」 「そうか。……大きくなったんだろうな」 「半年も経ってないんだからいくら子供でもそんなにでかくはならねェだろ。気になるなら自分で見に行けよ」 ゆるゆると金髪を梳いていた手が頭を抱き寄せた。石鹸の香りの残る膚に頬が密着する。 「………そのうちな」 「早めに行かねーと忘れられるぞ」 「近いうちに」 「一緒に行ってやろうか?」 くく、と喉が笑みに震えた。 「ではそのときにはお願いしようか」 バカ大佐、と口の中で呟く。 こんなときに他の男のことを考えるなとかなんでオレを見てあの小さく可愛らしい幼児を連想するんだとか色々と言える文句はあったのだけれど、エドワードは実のところそれが嫌ではない。 だって仕方のないことだ。 たとえば今こんなときだって、自分はアルフォンスのことを片時も忘れてはいられない。14も歳の離れたこの男を抱きながら、弟のことを狂おしく考えていることだって少なくはない。 縋るようにこの男を抱き締めて、そうしてこの胸の奥の焦燥感を押し込めることも珍しくはないのだ。 それは性欲とは違うものではあるのだけど、恋愛感情などよりずっと根深く、大切で、絶対に捨ててはしまえない、胸に深く楔を打つ愛しくて息の苦しい感情だ。エドワードの大半を形作るものだ。それなくしてエドワードはエドワードでいられない。 程度の差はあれ、この男の今はもう亡い親友や、部下に対する感情もそれと同じものなのだ、と思う。 エドワードはこの男が好きだが、この男が一番大切なわけでも、この世の何よりも愛しているわけでもないのだ。 さらさらと乾いた膚に唇を寄せ、エドワードはなあ、と囁いた。 「眠い?」 「………眠いよ」 いかにも眠そうな、寝惚けた声が返される。エドワードはゆっくりとロイの背を撫でた。 「寝る?」 「君は眠れないんだろう……」 「いいよ、寝て。オレ、寝顔見てるから」 深く吐かれた息がつむじをくすぐる。 「まじまじと見られていると思うと落ち着いて眠れない」 「なんだよ、我侭だな」 「どっちが」 伸び上がり、軽口を叩き掛けた口に軽く唇を触れる。 「………シていい?」 「途中で寝てもいいのなら」 「終わるまで頑張れよ。明日非番だろ」 「………誰に聞いた?」 「中尉」 ロイは苦々しく口許を歪めて笑った。 「なんとも有能な副官で嬉しいよ」 「ほんとアンタにゃもったいないくらいだね」 「何、私だからこそ彼女はついて来てくれるんだ」 堂々と自惚れにも聞こえるセリフを吐くロイに、エドワードはひひひ、と笑って身体を持ち上げ、のそ、と鍛えられてはいるものの大して厚くもない胸に組んだ腕を乗せた。勿論怪我をしているという腹は避ける。 「鋼の、重い」 「しっかり鍛えてるくせに何軟弱ぶってんだよ。するよ」 「止めろと言っても聞かない顔だ」 「ほんとにやめて欲しかったらアンタもっとちゃんと止めろって言うし」 やれやれ、と軽く肩を竦めて金色の睫に包まれた目許を優しく撫でるその指は硬く、当然ながら大人の男の手をしている。 「子供扱い」 もう一度先程と同じ文句を吐いたエドワードに、ロイは眠たげな眼を細めた。 「嫌かね?」 「………別に。どうせ今だけだからな、アンタがオレを子供扱い出来るのも。すぐオトナになるし。今のうちに堪能しとけよ」 「大人になる頃には君の横には可愛い彼女がいるさ」 言葉の途中でエドワードは喉仏に噛み付く。突然圧迫された喉にロイは息を詰めた。 「なめんなっつったろ、バカ大佐」 「………なめてなんかいない」 「じゃあほんとにバカなんだ。無能でバカなんて救いようがねーぞ、放火魔」 「鋼の」 宥めるような声が癪に触る。 もう一度首筋へと噛み付こうとしたエドワードは、ぐいと顎を掴まれ引き上げられてぱちぱちと眼を瞬いた。唇が塞がれる。 ああコイツほんとにキスは上手い。 それもまた腹が立つ、と眉を寄せたエドワードの唇を解放しながら、ロイは低く囁いた。 「悪かった」 それが、まだ若くひとの心の移り変わりを知らない子供への取り繕う言葉なのだとしても。 「………いいよ、仕方ねェもんな、今は」 愛の言葉が社交辞令の、恋愛に重きを置けない男が一途な恋を信じないことなんて。 「5年後に後悔させるから」 「それは怖いな。5年も君に付き纏われるなんて」 軽口を叩いて笑うロイに言ってろ、と笑い返し、エドワードは黒髪を抱いた。 「オレを走らせたのはアンタなんだから、付き纏われるくらいは覚悟しろよ。責任のうちだ」 「………私に見返りは?」 「何。等価交換?」 「錬金術師なら当然だ」 ふん、とエドワードは鼻を鳴らす。 「オレはアンタがブレーキ掛けなきゃならないところで代わりに走って見せるし、アンタの庇護欲を満たしてやってるし、アンタの独善と自己満足に付き合ってやってるだろ? 充分過ぎねェ?」 腕の中でロイが瞬くのが触れる睫の動きで解る。 「………独善か。辛辣だな」 「オレはそんなこと思っちゃいねェけどさ、アンタはそう思ってるんだろ、大佐。だったら責任くらいとらせてやるよ」 笑みを含む息が膚をくすぐる。 「それはそれは、有難いことだ」 「そう思うならさせて」 「それとこれとは話が別の気もするが」 ロイはエドワードのシャツの裾をズボンから引き抜き背中へと熱い手を滑り込ませた。 「これも庇護欲を満たしてくれている、と言うことかな、鋼の」 エドワードは薄く笑う。 「そういうことにしといてやってもいい」 ああ、本当に馬鹿な大人だ。 しみじみと胸のうちで呟いて、エドワードは大人の手に緩く背を撫でられながら深く口付け舌を絡めた。 今は負けに甘んじていたとしても、子供の本気を軽んじたことを必ず後悔させてやる、と心のうちに決めながら。 |
■2004/6/1 どこまで書いても終わらなくて困りました。おかげでえらくだらだらな話に。エドロイが気楽なのは兄にも大佐にもアルほど愛がないせいかなあと思います(おい)。何げに原作無視っぽいのでパラレル…で……。……パラレルが免罪符だと思っているんですか。>わたし
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