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「カルピスってさー……」
 耐熱ガラスのグラスに差されたマドラーでくるくるとお湯割りカルピスを掻き混ぜながら、妙にしみじみと兄が呟いた。それになによ、と雑誌を捲りながら気のない返事の幼馴染みの少女の声を、アルフォンスは彼女の分のカルピスを作りながら背中で聞く。
「精液っぽくねえ?」
 どぼ、とそっと注いでいたカルピスを大量にグラスに注ぎ、アルフォンスは慌ててパックを立てる。背後で「はあ?」とウィンリィが酷く怪訝な(当然だ)声を上げた。
「いや、だから」
 極力これから続くであろう兄の詭弁を耳から排除すべくアルフォンスはもう一つのグラスに注ぎ過ぎたカルピスを移す作業に集中するが、嫌に通りのいいその声はお構いなしに鼓膜を叩く。
「溜まってると白いとことかさ、でも水滴だとちょっと透明なとことか、原液だと味濃くて癖があるとことか」
「って、あんた精液飲んだことあるわけ?」
「そりゃあ」
 妙に意味ありげに切られた言葉に背中に注がれる視線を錯覚して、アルフォンスはうわこのエロ兄! と肩を竦ませた。心臓がばくばくと馬鹿になったかのように鳴っている。
「自分のくらい舐めてみるだろ、普通」
「……それって男だと普通なわけ?」
「普通だろ? つか観察するだろ、自分の身体から出たもんだぞ。なあアル」
「しっ、しないよ!」
 アルフォンスはくるりと振り向き兄を睨み付けた。
「するわけないだろ、そんなの兄さんだけだよ! この変態!」
「へ、変態って」
「ほらみなさいよ、しないじゃないのよ。この変態」
「お前まで言うか!? 女はしねえの?」
「するか馬鹿!」
 べし、と投げつけられた雑誌を顔面で受けて、兄はソファに転げる。
「なにすんだこの凶暴女!」
「スパナじゃないだけマシだと思いなさいよセクハラ大王!!」
「い、今の話のどこがセクハラだー!?」
「自覚がないのが悪いのよ!! 存在自体がセクハラだわあんた!!」
「そりゃマスタングの野郎のこったろ!?」
「あんたそれがっこで言ってみなさいよ。学校中の女子に袋叩きよ」
「………オメーはあんま興味なさそうだよな?」
「んーまあ、かっこいいかなーとは思うけど、でもあたしホークアイ先生のほうが凛々しくて好きだなー」
「……あ、そう」
 えへ、と笑った幼馴染みに肩を竦めて、むくりと起き上がった兄は先程精液だと称した飲み物に口を付ける。アルフォンスはげんなりとしつつ、ウィンリィへと作りたてのホットカルピスを差し出した。
「バカの話の後だけど、いい? 嫌ならココア作るけど」
「ん、大丈夫。ありがと、アル」
 にこ、と笑った年上の少女に微笑み返し、アルフォンスは自分の分のホットカルピスを手にその隣に腰掛けた。けれど結局その手の中のカルピスは一口も飲まれることはなくて、帰り際、アルってけっこー潔癖だよねと笑った幼馴染みに強張った笑みを返すことになった。
 
 
 
 
 
「兄さんのアホ」
「はい? なに?」
 いそいそとベッドに潜り込んでくる馬鹿に背中を向けたまま大きなピンク色のブタのぬいぐるみを両腕で締め上げ、アルフォンスはそのタオル地の頭に顎を埋めた。
「ウィンリィの前でなに言い出すのかと思って、すっごいびっくりしたじゃんか」
「あ、なに、昼の話? だから別に、お前の飲んだことあるとか言ってねえじゃん」
「そんなこと言ってたら兄さん、今ここに無事でいるわけないだろ」
「………アルフォンス君。声がマジです」
 引き上げた毛布をアルフォンスと自分に絡めてぼふ、と枕に頭を預け、ぺとりと背後に寄った兄が肩越しに覗き込んでくる。
「お前ウィンリィに知られんの、やなの?」
「あったりまえだろ!? どこの世界に初恋の相手に兄とホモだなんてバレて嬉しい17歳がいるんだよ!!」
「やだなーアルフォンス君ホモだなんて。究極の家族愛ですよー恋人とか通り越して最初っから家族なんですよー素晴らしいじゃないか。愛し合ってる家族はセックスするんだぞ」
「それふつう夫婦だけだから。拡大解釈し過ぎだから」
「お前の初恋ってあいつだったのか」
「意図的に話前後させるのやめてくれる、テンションについて行きづらいから」
 はあ、と溜息を吐いて、アルフォンス億劫そうに寝返りを打った。立っていれば幾分か目線の低い兄だが、こうして並べた枕にそれぞれ頭を預けていれば真っ直ぐに金眼が見つめ合う。
「ボク結構好きな女の子いたけどさ」
「うん、知ってるけど」
「今はランファンがかわいいなあって」
「あいつリンと付き合ってんじゃん」
「付き合ってないみたいだよ。好きは好きらしいけど、なんか複雑みたいだね、リンのうちって」
「好きなら好きでいいのにな」
「兄さんみたく好きなら他はどうでも構わないってひとは少ないんだよ、凄くね。ウィンリィもどっちかっていうと兄さんタイプだとは思うけど」
「うん?」
「でもアルって弟みたいなもんだし、弟とは恋人にはなれないなあってさ」
「って告白してたのか!?」
 いつの間に!? と目を剥く兄に、子供の頃だよ、とアルフォンスは肩を竦めた。
「ウィンリィ、今はリザちゃん先生が好きだもん」
「リザちゃん先生って」
「2年の間ではそう呼ばれてんの。かっこいいけど、たまに可愛いんだよ、あのひと」
「っつか、女じゃん」
「兄弟でホモの兄さんが言うセリフかよ、それ」
「兄弟でホモのアルフォンス君が言うセリフでもねえな」
「二重苦なんて辛すぎる……」
 はあ、とわざとらしく溜息を吐いた弟の頬を、兄はむにむにとつついた。
「アルー、あのさ、こうは考えられないか」
「んー?」
「たとえばオレかお前のどっちかが女で近親相姦ならそれはヤバいよ」
「………うん」
「妊娠とかしちゃったらほんとヤバいよな?」
「先天性の障害が出たりしたら可哀想だからね」
「うん、無責任に命を造り出しちゃいかんってのは何も人体錬成に限らんわけだ」
 ぎち、と鳴った鋼は右腕か、左脚か。
 アルフォンスは無言で、今は兄の身体の下敷きになっている右腕に指を伸ばし、毛布の下で手を繋いだ。
「宗教とかやってるヤツとかだとさ、避妊はイカンとか言うヤツもいるけど、オレはむやみやたらに産めよ増やせよってのはどうかと思うわけ。バースコントロールっつーのは地球上で唯一理性を持ち得た人間ならではの正しい抑制だと思うわけだ」
「うん、それはボクも賛成する。例外はもちろんあるけど、でも基本はそれでいいと思うよ」
 うん、だからな、と兄は鋭い眼を細めた。そうすることで強過ぎる光を乗せていたその双眸は、酷く優しく和らぐ。
「オレたちは同性だからこそ、兄弟でも心置きなく愛し合えるわけだ。近親相姦だけだと問題があるし、同性愛だけでも問題は残るけど、両方合わさることで倫理的問題なんかが相殺されんだよ。どうだ?」
「いやどうだって言われても」
 うう、と呻き、アルフォンスは繋いでいた手を離して顔を覆った。
「なんで兄さんてそんなにバカなんだろう……」
「この天才を捕まえて何を言う」
「ナントカと紙一重ってヤツかなあ……」
「酷いなーアルフォンス君」
「近親相姦も同性愛もそれぞれ別だって」
「んーじゃ、なによ、やなの?」
 オレと付き合うの、と顔を覆っていた白い手を掴み退けて覗き込んだ眼に、アルフォンスは眉を顰めたままうう、ともう一度唸った。
「………嫌ならこんなに悩んでないって」
「悩んでんのか」
「……嘘。あんまり悩んでない」
 でもわだかまりは残るから。
「あんま、おおっぴらにしないで。ボク、兄さんのことは愛してるし誰より大事だけど、もし周りにバレて後ろ指差されて暮らしにくくなったりしたら、平然としてられる自信ない」
 それで、他の、誰も知らない土地へと移り住むことに躊躇いなどはないけれど。
「ボク、みんなが好きだからさ、気味悪がられたり嫌われたり離れなくちゃならなかったりするの、イヤだ」
 兄はじっとアルフォンスの瞳の奥を覗き込み、それからふっと微笑みぎゅうと痩せた肩を抱き締めた。
「解った、アル。内緒にしよう」
「……解ってくれて嬉しいよ」
 ふ、と溜息を吐いて、アルフォンスは今日は黙ってそのまま眠ってくれるらしい兄に口の端で小さく笑う。身体の調子はもうほぼ健康体に近いもののまだまだ痩せぎすな身体は見た目には酷く貧弱で、そのせいで、この兄はアルフォンスの体調を必要以上に気遣う。
 
 二年ほど前に、ようやく取り戻した身体を。
 ようやく取り戻した愛しい弟の肉体を。
 
 その存在を全身で確かめるように、兄はアルフォンスを愛撫しその手によって変化していく様に愛しげに眼を細め、深く繋がろうと、抱く。それは恋人同士の性交渉とは形は同じでも意味が酷く違うのだ、とアルフォンスは思う。
 兄は、それを恋だと錯覚しているようだけれど。
 
 いつかこの身体がすっかりと健康になってこのひとが心から安堵することが出来たなら、きっと置いて行かれてしまうのだろうなあ、と考えて、アルフォンスには少しばかり、それが寂しい。
 ウィンリィを昔好きだったことも、女の子たちを可愛いと思うことも本当だけれど。
 無機でいた時代に、幾人かのひとに恋をしたり親しい感情を抱いたりもしたものだったけれど。
 
 けれどそれはすべて過去の『アルフォンス』の記憶だ。
 兄はそれを知らない。
 
 この痩せぎすの身体と昔の魂の記憶を受け継いで今ここに在るまだたった二年しか生きてはいないこの自分、の、存在を。
 兄はきっと、知らない。
 
 ボクは誰なんだろう、と静かに思う。それからアルフォンスで間違いはないのだ、とそう自答する。
 過去のない、アルフォンス・エルリック。
 
 いつかこのひとが離れて行くときそれを教えてやったなら、このひとは昔のアルフォンスを探しに行くのだろうか、とアルフォンスは温かな腕に微睡む瞼を素直に下ろしながら考えた。
 そのとき自分は偽物になってしまうのだろうか、と。
 このひとが今愛していると囁いて抱く、この自分は。
 
 このひとのその愛もなにもかも、偽物になってしまうのか、と。
 
 そのときはまだ遠いと、二年前、この世に生まれ落ちたそのときは思ったものだった。
 今は、そうは思えない。
 このひとのにおいに、その体温に、鋼の腕に抱かれたいと、痛いほどに願ってしまう回復したこの身体が、そうは思わせてはくれない。
 
(………キミはボクの魂じゃないから)
 
 彼に強く惹かれれば惹かれるほどに、離別の時は近くなる。
 彼が自分自身であったなら、きっとこれほどまでに痛く焦がれることはなかったのだろうけれど。
 
「………兄さん」
「んー?」
 囁くと、寝惚けた欠片もない声が、深刻さの欠片もないいつもの調子で返してくれた。時折深く考え込んでいるアルフォンスに気付きながらも、無機でいた頃にはぎりぎりと全てを尖らせて眦を吊り上げていた兄は、こうしてどこか惚けた、調子のいい男のふりをする。そうしてアルフォンスの気持ちを掬い上げてしまう。
 アルフォンスは小さく笑い、兄の頬に掌を滑らせて、長い前髪をそっと耳に掛けた。瞼が上がり、鋭い金眼が痩せた顔を捉えた。
「セックスしようか」
「………けど、お前」
「しよう」
 繰り返すと、少しばかり眉間に皺を寄せて、エドワードは解った、と低く承諾した。生身の手が頬に掛けられた骨張った手を掴み、その関節に口付ける。その間も観察するようにじっと見詰める鋭い眼に、アルフォンスは小さく微笑む。
 
 いつか、このひとが去ってしまうそのときに、ボクはあなたが幼い頃から共にいたアルフォンスではないのだとそう教えてあげたなら。
(………罵るだろうか)
 その鋭く激しい魂で叫びで、弟を返せと、いつかのように。
 
 いつかのように。
 
 
 
 兄はいつものように決して眼を閉じてはくれなくて、だからアルフォンスは抱き合っている間ずっと、ただ幸せそうに微笑み啼いた。

 
 
 
 
 
 
 
 

■2006/2/27

つれもなき人の心は空蝉の虚しき恋に身をやかへてむ

空蝉→現し身。

て…天使と鎧で脳味噌ぐるぐるゆえ…!
なんか細かいとこの事情で現代パラレルになってたりしてるのでJUNKに持ってこうかどうか悩んだんですが(ていうか今も悩んでるんですが)ちょうどよく入れられるとこがごみばこしかなくてでもごみばこの分量とするにはちょっと長いなあと思ったのでこっちに。そのうちごみばこにいくかも。

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