その日の宿は酷かった。
 
 大雨の深夜で食堂が閉まっていたのは仕方がないとして、パンのひとつも出すことは出来ずまた急な飛び込みの客のため朝食も用意はないと宣言され、仕方がなくどことなく錆臭い水だけを水差しいっぱいに注いでもらって(でもそれは真水に錬成し直したから問題はなかった)階段を上ればぎしぎしと揺れぱらぱらと埃は落ち、廊下は釘が出ていて床板が剥がれ掛け、扉の鍵は真っ直ぐに入らず蝶番は酷く軋みドアノブはがたがたで内側から施錠してもいつノブごととれてしまうか解らないと言った様子。当然扉の枠も窓枠も歪んでいて隙間風はひゅうひゅう入るし毛布はなんとなく湿っていて黴臭い。
 ベッドはぎしぎし鳴るし階上の足音はダイレクトにどかどか響くし外を行く酔っぱらいの声はうるさいししかしそんなことはどうでもいいというかその程度なら兄弟は慣れっこで大した問題でもないのだが、薄い壁一枚隔てた隣室の物音が。
 
 否、物音と衣擦れと声が。
 
「………教育上よくねぇよな、お前の」
「兄さんだって子供のくせに」
 小さな小さなサイドテーブルを挟んで並べられていた小さなベッドにそれぞれ膝を抱えて座りながら、兄弟は小声で会話を交わしつつ隣室の壁をじっと上目遣いに見つめて揃って溜息を吐いた。
 まあ睦言やらそれに伴う声や物音というものには慣れているとは言わないが珍しいものでもなかったので、アルフォンスはいつもならばさほど気にはしない。
 安宿では稀にあることではあるし、その色っぽい物音に刺激される欲も肉体もないものだから、ちょっとばつが悪くて困ったなあ、と思う程度で耐えられなければ散歩に出てしまうし、耐えられる場合は本を開く。
 兄もそういう面では淡泊なのか子供なのか大して気にする素振りもなく、さっさと研究に没頭してしまうかベッドに潜り込んでいびきを掻き始めてしまうから、兄弟がこうやって二人揃って溜息を吐いているのは非常に珍しい事態だと言えた。
 アルフォンスは何度目かの溜息を模した声を洩らして、かしゃ、と首を傾げて兄を見た。エドワードは酷く眉を顰めた渋面で、気味悪げに首筋を擦っている。
「………兄さん、気にしなきゃいいのに」
「気にしたくなくても気になるだろ、気持ち悪ィし」
「でも慣れてるんじゃないの」
「は?」
 怪訝そうに弟を見、みるみるうちに眉間の皺を深くしたエドワードは慣れてねーよ、と唇を尖らせた。
「男にアンアン言われたって気持ち悪ィだけだろ。なんでオレが慣れてんだよ、こんなのに」
「いや、だって」
 
 あなたの恋人は男のひとなんじゃ。
 
 続く言葉を察したのか、エドワードはぽりぽりとこめかみを掻く。
「や、アイツはこーゆーんじゃないっつーか……あんま声出さないし。ていうか全然出さないし」
「でもちょっとは聞いたことあるんでしょ? 気持ち悪かったの?」
 発言の直後、さらっとこんなことが訊けるようになってしまった自分に思わず肩を落としたアルフォンスに気付かず、俯き加減で鼻の頭を掻きながら「うーん」と唸ったエドワードは首を捻った。
「たまに声聞けるときは凄ェ嬉しいけど……」
「でも大佐って結構声低いよね。いかにも男のひとっていうか」
「あ、うん。してるときも低いけど」
「……まあ、お隣さん聞いてる限りじゃそうみたいだね」
「だからこれと比べんなって。もっとさ、なんつーのかなあ……控えめでほとんど息みたいでそれが凄い色っぽ」
「いやごめん訊いたボクがバカでした。いいから説明しなくて」
「なんだよ、聞けよ。お前が言い出したんだろ」
「うん、ごめん。でももういいから」
「話したいんだって。こんなのと一緒にされちゃオレの立場が」
 
 いやボクにとってはおんなじだから兄さん。
 
 ふいに高く響いた隣室の声に、アルフォンスはびくりと肩を竦めた。エドワードは顰め面を余計に顰めて口をへの字に曲げた。
「うっせぇなあ……」
「………なんかさー、悲鳴みたいだよね。泣き声? ていうか」
「気分悪ィよな」
「ていうか、痛々しくてなんかヤだ」
「………外に避難するにももう夜中だし大雨だし」
 雨音にも負けない隣室の色っぽさとはほど遠い喘ぎ声に、兄弟は幾度目かの溜息を揃って吐いた。
「あー、なんかボク汚れた気分……」
「女の声なら聞いたことあんだろ」
「女の人のと違うじゃん」
 兄は半眼で弟を眺める。
「………お前充分汚れてると思うぞ」
「兄さんほどじゃないし」
「オレのどこが汚れてんだ。潔癖だ潔癖」
「大佐に会うたびに逐一なにがあったか報告するひとがよく言うよ……」
「いいだろ別に」
「よくない」
 ぶつぶつと会話を交わし、ふいに身を起こした兄がベッドを跨いでやって来たのを弟は眼窩の赤光を小さく瞬かせながら見た。
「………なに?」
「寝ちまおう」
「いや、ボク寝れないし」
「子守歌を歌え」
 言いながら毛布を剥ぎ身体へ巻き付けアルフォンスの傍らへとごろりと丸まった兄に、弟は深く深く嘆息した。
「なんでボクが兄さんに子守歌歌ってやんなきゃないの……」
「隣に聞こえるくらい大声でやれ」
「いやそれじゃ子守歌にならないし」
「隣も寝るかもしんねーぞ。お前歌上手いからな」
「寝ないでしょ……」
「いいから、ほら」
 しょうがないなあ、と溜息を吐いて、アルフォンスはやけくそのような陽気な声で子守歌を歌い出した。途端ちょっと変わり者のカップルのいるであろう向かい側の壁ではなく、背中を預けている側の壁がどんと殴られ何事か怒鳴られる。
 しかしアルフォンスは構わずに、笑い声に震える歌をより音量を上げて歌った。足下で兄がくつくつと笑い震えている。
「バッカお前、そんなん子守歌じゃねーって!」
「大声で歌えって言ったの兄さんじゃん。Ding ding dong!」
「Are You Sleeping?」
「Are You Sleeping?」
「Brother John、」
「兄さん音痴」
「るせェ」
「Solomon Grundy Born on a Monday」
 転調した曲にエドワードがげらげら笑いながら続く。
「Christened on Tuesday」
「Married on Wednesday」
「Took ill on Thurs…」
 どか、と壁が殴られた。はっきりと「うるせぇぞ!」と怒鳴り声が響いて、飛び起きた兄が負けじと壁を蹴り付けた。ばらばらと落ちた埃にアルフォンスは首を竦める。
「ッせェ!! あと悪化して死んで墓に入って終わりだ!!」
「って兄さん、ソロモン・グランディってお墓入るんだっけ」
「あ? 入るだろ」
「埋められて終わりでしょ」
「同じだろ」
「違うって」
「いいよどっちでも。似たよーなもんだろ」
「えー」
「What are little boys made of? What are little boys made of?」
「Frogs and snails And puppy-dog's tails…」
「That's what little boys are made of」
「What are little girls made……」
 歌う間に背中の向こうの部屋をどかどかと横切る足音と反対側の壁の向こうのいよいよクライマックスらしい物音と声は聞こえ続けていて、やがて外れるのではないかと思うほどの勢いで扉が殴られた。続く怒鳴り声に兄の大笑いが被る。
 
 雨音はますます激しく、怒鳴り声はヒートアップし、男の喘ぎはひっきりなしで、兄はげらげらと笑い続けている。
 
 アルフォンスはほとんどやけくそで声を張り上げ歌を歌い続けた。
 殴られ続けている扉が嫌な音を立てて軋み、廊下のランプの明かりが僅かに差し込む。
 
 この扉と窓の隙間と天板が外れてずれちゃってたフロントのカウンターを明日直してあれば文句は言われずに済むかなあ、と、アルフォンスは指を鳴らしながら凄い笑顔で扉へ向かった兄を見、そっと溜息を吐いた。

 
 
 
 
 

■2004/11/5
やけくその兄とやけくその弟。

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