信じられない、とリザは呟いた。
 上官の部屋を訪れたのは初めてだった。決して色っぽい理由があるわけではなく、第一に今ここにいるのはリザだけで当の家主は執務室で書類と格闘している最中ではあるし、訪れなかったのも単に機会がなかったとそれだけで、やはり色気のある理由での躊躇いがあったからではない。
 しかし喩え機会があったとして、上官はリザを自宅へと招いてくれることはなかっただろうと思う。リザだけではない、他の誰もだ。付き合っている女性も可愛がっている部下も、それこそ遠慮も何もない、あの親友も。
 道理で鍵を出してくださいと言ったとき、あれほど躊躇ったわけだ、とリザは溜息を吐いた。
 上官が持ち帰り目を通してまんまと忘れてきた本日提出の書類はすぐに見つかった。テーブルの上にきちとん封筒に収められたまま放置されていた。けれど他に置く場所などないのだから、何らかの事情があってクローゼットの中にでも仕舞ってあったとでも言わない限りはテーブルの上か、ソファの上で発見するしかなかっただろう。
 高給であるはずの上官殿の自宅は1DKで、家具がそれしかないのだった。あとは床なのだった。
 
 つまり、寝室と呼べるものもそれどころか寝床と呼べるものさえ、この部屋には影も形もないのだった。
 
 リザはダイニングキッチンを覗いてみた。シンクは乾いてコンロには蓋がしてありもちろんキッチンテーブルなどなく備え付けの棚の中には酒しかなかった。ワインはなかった。あったとしても杜撰な管理ではきっと今頃はただの酢だったろうが。
 これで生活など出来るわけがない。安宿のほうがまだ設備が整っていそうだ。
 居間へと戻り、片側へと毛布が丸められているソファを眺める。普通のソファだ。戦場の簡易ベッドなどよりはましかもしれないが、大の大人が横になり、充分に疲れを癒すためには少々物足りない代物だ。
 こんな部屋で、とリザは小さく溜息を吐いた。
 こんな生活で、もしかして、何年も。
 なんにしても書類提出の時間は迫っている。
 リザは踵を返し、かつかつと規則正しい足音を響かせて部屋を出た。施錠を確認し、停めていた軍用車に乗り込む。青い眼の少尉は見張りにおいてきてしまったから、勿論自分で運転をすることになる。
 車を発進させながら、リザは先日東部を訪れた上官の親友を思い出した。
 テロリストが不穏な動きを見せている時期で、少々街が騒然としているにも拘わらず堂々と佐官二人で深夜に呑みに出てしまおうとしていた上官たちの護衛を買って出て、リザは彼らから少し離れたテーブルにいた。店内は雑然としていて、彼らのプライベートな会話は当然聞こえなかった。
 親友殿はリザを同じテーブルに呼んだけれどリザは断って、麗しの上官殿は一瞥もくれなかった。それが常だった。彼がリザを特に無視をしているというわけではない。ある意味、自分たちは上官とその親友よりも、遠慮のない関係であったからだ。
 だから上官はプライベートにも拘わらず護衛につくと言った自分を拒まなかったし、もしリザがあの日護衛ではなく彼か彼の親友から誘いを受けて共に出掛けた同行者であったのなら、微笑み語り掛け当然のように隣の椅子を引いて席を勧めただろう。
 慣れない者には理解しがたく思われがちではあったが、リザにとって、上官のその線引きは有難いものだった。勿論いつだって彼の背を守る立場であることには変わりがないしそれを忘れたこともないが、それでも仕事の合間にふいに甘い微笑を向けられては困る。
 プライベートなのだから大目に見ましょうと、そう嘆息する理由が必要なのはリザのほうだった。
 だからその日、リザは護衛に徹していた。仕事だった。だからその間に見聞きした彼らの行動も会話も、今も一人胸の裡に納めていた。
 上官の親友は実はさほど酒には強くない。弱くはないし酒量で言えば立派なものだが、ごくごくたまに、あの日のように、思い掛けず帰宅が遅れて東部に足止めになった夜などは───そして上官の前だけでは、羽目を外して泥酔してしまうことがあった。酒に強い人間のする酔い方ではなかった。酒に呑まれる、それがぴったり合うようなそんな呑み方をして潰れてしまう。
 リザは何度か上官を手伝って彼をホテルの部屋へと連れて行ったことがあった。上官も酒には強いほうではない。こちらは正真正銘強くないのだ。部下たちと楽しく酒代を賭けて飲み比べなどすれば、必ず一番最初に潰れてぶつぶつと文句を言いながらリザへと財布を差し出すハメになっていた。そして翌日は酷い二日酔いに悩まされる。
 そんな彼が、親友が潰れてしまうその夜には、いつでも素面でいるのだった。
 だからあの日も彼は素面で、リザの手を借りて長身の親友をベッドへと寝かせ大の字でいびきを掻いている男の上へとぶつぶつと文句を言いながら毛布を掛けて、そうしてリザを退室するよう促して───去り際。
 身を屈め、眠る親友の耳許に囁いた言葉を、リザは聞き取ってしまった。
 
 ───家に帰って眠れよ、ヒューズ。
 
 上官は直ぐに扉を開きながら待っていたリザの元へコートの襟を直しながらやって来て、待たせたね、行こう、と促した。酔っ払いの世話など手伝わせて悪かったね、と苦笑する上官にいいえ仕事ですから、と生真面目に返して、リザは結局、囁きの意味を訊かなかった。
 その囁きだけではなかった。リザは大抵の場合、彼になにも訊かなかった。訊かずとも理解が出来た。理解出来ているような気になっているだけかもしれなかったが、それでも今のところ問題は生じていないのだから、それでいいのだと思っていた。彼の目的は理解出来ていたし、彼はリザの目的を理解してはいなかったがリザがすべきことを的確に指示をしていた。
 目的が違っても、彼がリザに下した命令とリザの思惑とは、過程は同じなのだった。
 
 家は、安らぐ場所だ。
 勿論上官の親友にとっての家とは家族のいる場所のことだ。尋常でなく家族思いのあの親友殿が、愛する家族を支えと、癒しとしていることは想像に難くない。だから、上官のあの夜の囁きの意味は、私物が納められている箱へと帰り馴染みのベッドで寝ろと言うことではなかっただろう。
 リザには見せない何かを、多分彼らは抱えているのだ。それは彼らだけではないだろう。呑気そうにしている部下たちも、いつも明るい友人も、そしてリザ自身さえ、誰にも言えない、また誰にでも見せることのできるわけではない自分を抱える。
 リザにとって長い長い付き合いである上官に見せることの出来ないものも、女友達とは共有している、そういうことはたくさんある。
 だから、上官と上官の親友の共有するものを詮索しようとは思わなかった。だが、上官のあの自宅は問題だ。
 家は家族の住む場所ではあるものの、それとは別にテリトリーでもあるのだ。誰にも侵されない、安らぎの、巣。
 そう言えばあのひとはよく司令部に泊まり込んでいるのだった、とリザは小さく眉を顰めた。
 仕事を溜め込んで部下を帰して残業をして、そのまま仮眠室に泊まり込みシャワー室を使ってクリーニングから戻った制服に着替えて食堂で食事をする。下着や歯ブラシや剃刀は申請すれば支給されるし、医務室には軍医がいつでも詰めている。
 衣食は(望めば住も)完璧に整っているのだ。それが軍部だ。やろうと思えば軍部内で生活をすることは可能なのだ。
 実際、多忙の際にはリザも何日も泊まり込むことはあるが、休憩時すらプライベートの保持が難しいという点を除けば仕事をする上では特に問題はない。
 だがそれでも、安らぎは得られない。常に仕事の延長と言った精神状態では疲れは完全には癒えない。
 それとも自分はまだまだ決心が甘いのだろうか、とリザは自問する。目的を果たすまでは、ただひた走るその間は、安らぎなど一瞬たりともいらないと───それでも耐えていける強靭な精神力を供えているのだと、そういうことなのだろうか。
 けれどその割にはあの上官はよく息抜きと称して市街へと出て行く。そうでなくとも隠れて昼寝をしていることもあるし、サボタージュはお手の物だ。引き締めなくてはならないときには瞬時に仕事の顔に戻ることの出来る、けれど普段は少しばかりゆるいあの切り替えの早さもまた、彼の能力だろう。
 いつでもぎりぎりと弓を引き絞っているような、そんな危うさはリザは上官に感じない。またそうであっては困るのだ。幾人もの人間の命をその手に握り上を目指す以上、目的半ばに倒れることがあってはならない。
 精神力も体力も、彼はさほど強靭な人間ではない。軍人としてごくごく当たり前の範囲の、当たり前の人間だ。それを充分に理解した上で己をコントロールしていける、いざという時のために余裕を残していける、それが部下たちの信頼へと繋がっているのだろう。
 
 けれど───ならば、何故。
 あの、他に寝床が確保出来なかったときにだけ寄ってでもいるような、生活臭がないどころかろくに生活そのものが出来そうもない、殺風景な部屋は。
 
 家に、帰れと。
 ───家族の元で眠れと。
 
 リザはハンドルを切り、少しばかり寄り道をするために脇道へと入った。
 
 
 
 
 
 
「ただいま戻りました」
「ああ、すまなかったね。ご苦労」
 書類から顔を上げた上官は、差し出された鍵を受け取ろうと手を出し掛けて少しばかり奇妙な顔をした。リザは構わず、その中途半端に差し出された手に鍵を乗せる。
「………中尉。その包みは?」
 片腕に抱えるくらいの包みを差して瞬いた上官に、リザはにこりともせずに両手で持ち直したそれを差し出した。
「差し入れです。どうぞ」
「差し入れ? 誰かから預かってでも……」
「わたしからです」
「君から?」
 がさ、と受け取り、思ったよりも軽かったのかがさがさとその感触を確かめて、上官は首を傾げてリザを見た。
「なんだろう、クッションのような感触だが。開けても?」
「駄目です」
「即答だな」
「ご帰宅なされてから開けてください。ご自宅以外では開けないようにお願いします」
「………私は今日は仮眠を済ませてそのまま夜勤なんだが」
「ご帰宅するときにお持ち下さい」
「……………」
 
 リザの差し入れは丸二日上官のロッカーを大幅に占領し、三日目の深夜になってから(恐らくは主にその嵩張る差し入れを置くために)上官の自宅へと持ち帰られた。
 
 ひと好きなのも結構ですが、と、翌日勤務開始前に上官に不思議そうな顔で礼を言われてリザは少しばかり笑った。
「人間だけでなく、少しは家も愛してあげてください」
「………家を、かね?」
「自らを映す鏡だと言います」
 
 上官は相変わらず司令部によく寝泊まりし、遊びに出ては水商売の女性と高級なホテルに泊まり、部下の家に泊まり、自宅へ戻るのはごくごく稀だ。
 ベッドを購入したという話は聞かない。
 
 
 けれどあの日リザの財布の中身をほとんど空にしてくれた上等な枕は使い心地が抜群だと、自宅使い限定を使用条件にされてしまった上官は機嫌良く笑った。

 

 
 
 

■2006/9/5

ひゅったんがわたしの中でまだ受け受けしててどうにも始末が悪いです。ロイアイっていうか、むしろロイヒュじゃ。

ひとりのおうちに帰ってもつまらないのでみんながいる司令部に寝泊まりする大佐。…とかだと気持ちが悪いのでまったく男ってどうしようもないのね。みたいな話でもいい。

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