出会ったとき彼は既に成績優秀な士官学校生だったので、わたしは必然的に軍人の妻となった。

 
 

 
 
 

 わたしの父は厳格な軍人で、わたしが4歳のときに戦場で亡くなった。だからわたしにはあまり彼に対する感情はなく、また思い出も希薄だ。
 母は儚いひとで、父の亡くなった3年後に父の元上司の勧めで再婚をした。
 しかしその彼もわたしが13歳のときに軍内部の派閥争いに巻き込まれ命を落とし、それを機に儚さを決定的なものにした母は一人娘のわたしには決して軍人とは結婚をさせまいと心に決めてしまっていたらしい。
 だから初めてあのひとを紹介したときにも彼女は酷く悲しい顔をして、あのひとに微笑むことすらしてやらなかったから、マースは始終困った微笑を浮かべていた。
 何度か会ううちマースの朗らかさと陽の気質に癒されたのか、母は彼を気に入ってはくれたようだったのだけれど、それでも(結婚して、娘が産まれてからも)たびたびマースに退役を勧め、家業を継ぐよう諭した(彼の実家は小さな雑貨店を営んでいる)。
 そんなときマースは困ったように微笑して、ただ母の言葉をやんわりと受けた。
 
 彼はとてもやわらかで大きなスポンジなのだ、とわたしはずっと思ってきたし、これからもそう思っている。
 
 出会った頃からのマースとの話をするのなら、もう一人、どうしても語っておかねばならないひとがいる。マースが誰よりも心傾け、全身全霊で受け止めようとしていた、彼の親友のことを。
 
 彼はマースと同期ではあったのだけれどマースよりも年下で、わたしのひとつ年上だった。出会ったときには17歳で、もう二十歳になろうとしていたマースは彼をまるで弟のように可愛がっていて、それを迷惑顔で受けながらも彼もまんざらではないようだった。
 わたしがマースと出会ったとき、ロイは既に彼の親友だった。
 
 かけがえのない、という言葉をロイはあまり好きではないようだったけれど、それでも彼はマースとわたしを、かけがえのない友、と呼んだ。
 そしてわたしはそんな彼を、かけがえのない愛しい友、と呼んだ。
 
 マースとわたしの運命的で雷に打たれたかのような出会いについてはまた次の機会に回そうと思う。これは本当にとっておきの話だから、大切に大切に秘めておいて、エリシアが年頃の乙女になった頃、ゆっくりと話して聞かせたい。
 この出会いを知っているのはマースとわたしとロイの、三人だけだ。三人だけの秘密だ。
 わたしたちは恋人で、親友で、友人だった。密やかな秘密の共有を楽しむ親しく愛しい、友だった。
 
 あなたが死んだら悲しいわ。
 
 いつだったろうか。確か、マースが後方部隊としてイシュヴァールに参戦する前日に、その数日後には前線部隊として参戦する予定のロイとわたしとの三人でお酒を呑んだときだったと思う。
 
「ヒューズは死なせないよ、グレイシア。安心してくれ」
 冗談めかした口調で言って、いくら呑んでも顔色の変わらないロイがわたしに微笑んで見せたその目が真っ暗で、わたしはとても怖かった。
 ロイが怖かったのではない。
 彼の怯えの下に敷かれる戦場の激しさが、彼やマースや彼らの味方やまたは敵の、あらゆる人間の命と尊厳を奪う戦争の力が怖かった。
 だから言ったのだ。
「マースは大丈夫よ、ロイ。後方なのだし、第一彼はとても器用で運が強いの」
「俺には女神が付いているからな」
 背中からわたしを緩く抱き締めて言うマースに首を竦めて笑い、苦笑してその様子を眺めていたロイを、わたしは見つめた。
「ロイ。……あなたが死んだら悲しいわ」
「縁起でもないことを言うなあ、グレイシア」
「あなたが傷付いても悲しいわ。あなたが絶望しても悲しいわ。あなたがあなたを見失ってしまったら、わたしはとても悲しいわ」
「グレイシア」
 虚を突かれたようにきょとんとあどけない顔を晒して(彼が本当に無防備な顔を晒すのはとても珍しいことだ)、ロイはグラスを置いた。
「俺は何もかも納得した上で戦いに行く」
「ええ、あなたは立派に軍人よ。わたしの父は二人とも軍人だったもの、それはよく解っているわ」
「………なら、絶望などしようもないし、俺は俺を貫ける」
 わたしはかぶりを振った。
「あなたが弱いだなんて思わない。けれどお願い、これ以上強くあろうとしないで。マースも、力は及ばないけれどわたしも、いつでもあなたの心の側にいるから」
 ロイが少し困ったような顔をして、わたしを抱き締めているマースを見上げた。マースがどんな顔をしているのかは解らなかったけれど、ロイの困惑顔がゆるりと綻び、微笑に変わる。
 
 マースが、わたしの髪に口付けた。
 
「俺にも祝福をくれよ、グレイシア。そもそも明日発つのは俺のほうなんだぜ」
「もちろんよ、マース」
 わたしは胸の前で交差している彼の腕へと手を置いた。
「あなたに降る祝福にわたしの受けた祝福分も合わせて、あなたの無事を祈っているわ。……どうか無事で帰って来て、二人とも。わたしの愛しい軍人さんたち」
 
 ロイの錬金術はとても美しい、といつかマースが話してくれたのだけれど、ロイはついにわたしにその焔を見せてくれることはなかった。
 マースも彼もどこかでわたしをお姫様だと思っているようで、ロイは血生臭い戦場の風を呼ぶ焔をわたしに見せたくはなかったのだとマースは言った。
 わたしは美しい技をそんな風に感じてしまう彼が可哀想だったけれど、こればかりはどう出来ることでもない。戦場を見たことのないわたしには、その光景を想像することなど到底出来ない。
 
 そしてそれは、マースとて同様だ。
 
 マースは、わたしやエリシアの前で銃を取り出すことは決してなかった。
 わたしはマースとロイのすぐ側にいた、恐らく彼ら自身の他では最も近しい人間ではあったけれど、軍人の顔をした彼らからは相当遠く、また踏み込むことは容易ではなく、踏み込むために彼らの心を傷だらけにしてしまうと知っていたから、いつまでも遠巻きに、本当にお姫様のようにただ待った。傷付き疲れた彼らが手を伸ばすのを、ただ。
 
 それを後悔したことはない。
 
 たとえば恋人としてのマースとわたしの顔をロイが知らないように、軍人としての二人の顔をわたしが知らないように、マースの噂をして笑い合う友人としてのわたしとロイの顔をマースが知らないように、わたしたちは近しく愛しい関係を築いてはいたけれど、お互いをすべて把握しているわけではなかったのだし、それでいいと思っていた。
 マースもロイも独占欲は人並みに持ってはいるひとたちだったけれど、それでもお互いのすべての顔を欲しがるほど愚かではなかったし、わたしにそれを晒けるよう求めるほど野暮でもなかった。だからわたしも不安に胸を潰すこともなく、焦燥感を噛みながらも、穏やかに微笑して傷だらけの青年たちの手が、守られ傷のないわたしの弱い手を求めるのを待った。
 
 不変の、帰る場所があることが彼らの救いになるのだと、わたしは知っていた。
 
 彼らはわたしに友であることを、母であることを、妻であることを、家庭であることを、戦場からかけ離れた安らぎであることを求め、わたしはそれに応えた。
 
 
 
 イシュヴァールでの戦争が取り敢えずの集結を見せたのはマースが出立して3週間後、ロイが出立して2週間と2日後のことで、新聞にも載ることはなくマースもロイも話してはくれなかったのだけれど、恐らくは国家錬金術師が作戦を開始してすぐの、季節外れの猛暑が中央を襲った日だった。
 気違いじみた暑さはその年の最高気温を記録して、それから今まであの日ほどの暑さを、わたしは体験したことがない。
 
 まるで遠い子供の日の真夏の一時のような、霞掛かる暑さ。
 
 ゆめのような。
 
 
 
 終戦してからも残党の攻撃は絶えず、その処理に追われた彼らが帰還したのは戦争が終結してから2ヶ月後で、それでも帰還の第一陣に紛れ込めたのだから運が良かった。最終的にイシュヴァールから前線に出ていた兵が全員帰還したのは実に半年も後のことで、アメストリス軍がイシュヴァールから完全に撤退したのは2年も後のことだったのだから。
 
 その日、わたしは駅でマースとロイを出迎えた。
 
 駅舎は帰還兵と彼らの迎えでごった返していて、わたしたちが出会えたのはほとんど奇跡だとひびの入った眼鏡を掛けたマースは笑い、ロイはこの2ヶ月半でげっそりと痩けた頬に僅かに微笑を浮かべてわたしたちを見ていた。
 そんなロイの肩をマースは戦争へ行く前と微塵も変わらぬ明るさで抱き、英雄殿のご帰還だ、とわたしに笑い、わたしはと言えば毎日神様に二人の無事を祈り待つことは平気だったくせに顔を見た途端胸が潰れそうになって、思わず、
 
 ───二人を抱き締めた。
 
 二人は驚いて交互にわたしの背を撫で、グレイシア、服が汚れるよ、泥だらけなんだよ俺たち、と囁いた。
 それでも離れないわたしを二人は抱き締めてくれたのだけれど、次第にその腕には力が籠もり、わたしたちはしばらく、そうやって強く強く抱き合ったまま人波の中、立ち尽くした。
 
 本当は───
 
 慰めなくてはならないのはわたしのほうだったのに、抱き締めたのはわたしのつもりだったのに、すっかりわたしは二人に抱き締められて、少し泣いて、それから顔を上げてようやくおかえりなさいと二人の頬にキスをした。
 
 マースとロイの軍服からは硝煙も血も煤も臭わず、ただ乾いた汗と埃のにおいがした。
 
 帰還兵たちは皆疲弊していた。
 わたしは何人かの彼らの戦友を紹介されたけれど皆一様に憔悴し、ぎこちない笑顔と少ない口数で、そうかと思えば桁の違った大声で、わたしにお世辞を言ってマースに笑った。
 マースはと言えばただひとり本当にいつも通りの笑顔で、膚は日に焼け荒れてはいたけれど、戦友を励まし、再会を誓い、手を振り、微笑を張り付かせることすら止めてしまったロイにまとわりついては嫌がる顔を引き出して、そうしてひとり道化を買って出て、車を呼ぶから待っていろ、と人波を縫ってあっという間に去ってしまった。
 取り残されたわたしとロイは苦笑を交わし、しばらくぼんやりと立っていたのだけれど、駅舎の入り口で背の高いマースが手を振ったのを見てそちらへと足を向けた。
 
 そのとき、ふわりと。
 耳元に熱が近付いた。
 
「ヒューズを頼む」
 
 掠れた声で囁いたロイは、振り向いたときにはもう二歩も私から離れてそ知らぬ顔で立っていた。その横顔を見つめると、ちらりと私を見下ろした黒い眼が、僅かに細まり微笑んだ。
 
 俺では無理だから、と。
 
 その眼が言っているようで。
 
 マース・ヒューズはとてもやわらかで大きなスポンジだ、とわたしはずっと思っていた。
 友人たちの心の苦汁を吸い上げ包み込み、それでも明るく笑うマースを、ロイはとても愛している。わたしを愛してくれるように、ロイはマースを愛している。
 そしてわたしはそんなロイを愛しく思い、そんなマースを愛しく思う。
 
 ロイはマースに救われる。
 マースはロイや戦友たちを救うけれど、マース自身を救うのは。
 
 それは、わたし。
 のちの、グレイシア・ヒューズ。
 彼の恋人で、彼の妻で、彼の娘の母であるわたし。
 
 自惚れでも構わない。
 だってロイは、それをわたしに求めたのだ。
 
 マース・ヒューズを救って欲しい、と。
 
 わたしはわたし自身の心と友人の願いに背を押され、マースの手を柔らかく、けれど逃げられない狡猾さで掴む。
 わたしはマースを愛している。
 マースはわたしを愛している。
 
 マースは戦場で死んだ上司の代わりに暫定的に中尉の地位を預かっていて、そのまま正式に中尉となり、すぐに大尉となった。
 同時にロイは中佐となって、彼らの異例の昇進に周囲は沸いたのだけれど、二人はわたしにおめでとうとは言わせてくれなかった。
 その頃のマースとロイは、昇進の話をするときに、笑顔の欠片すらわたしに見せてはくれなかった。
 
 
 
 その夜、マースと寝た。
 マースはわたしのあまりふくよかとも言えない胸の上で少し泣いた。
 わたしは子供のように肩を震わせる彼を抱き締め、やがて彼が、仲間の死に、敵の死に膝を落とすことのない強靱な精神を築いていくその第一の変化の軋み伸びていく音を、じっと胸の上で聴いた。
 
「俺はロイを押し上げる」
 
 頬に涙の跡を残したまま、低く少し甘ったるい独特の声で、マースは囁いた。
「あいつを大総統にする」
 わたしは瞬きせずにマースを見つめた。マースは酷く真剣に、だから、グレイシア、とわたしを呼んだ。
「俺と結婚しよう」
 ロイを支え背を押すマースを癒す手と笑顔に、彼はわたしを選んだのだ。
 
 否のあるはずもなかった。
 
 わたしは1年後、大勢に祝福されて軍服のマースと結婚した。
 
 
 
 あれから6年。
 
 わたしはマースとの間にエリシアという娘を授かり、まるで新婚のままだ、とからかわれながら彼の愛に包まれ生きた。マースの愛は尽きることはなくて、わたしは少しずつ毅くなっていく彼を見ながら、わたし自身もまた毅く覚悟を固めていった。
 
 軍人の妻である、覚悟。
 愛されていたからこそ出来た、弱いわたしのなけなしの勇気。
 
 そしてその日は唐突にやって来る。
 
 訃報を受けたとき、わたしの脳裏にあったのはああロイは泣くかしら、頭に血が昇って熱くならなければいいのだけど、エリシアになんと説明すればいいのかしら、パパは星になったのよ、なんて陳腐な子供だましでは彼女の悲しみはきっと癒えないと、そんなことばかりで、電話の向こうでマースの上司が大丈夫ですか、と問う声に、至極冷静にはい、と答えることが出来た。
 だからわたしはその電話を受けたときも、血の気を失って真っ白な顔をしたマースと対面したときも、一度も泣かずに彼にキスをし、戸惑うエリシアを抱き締めた。
 
 こんなときでも現実は現実なのだと、微塵も霞まない情景を淡々と見ながら、わたしは思った。
 娘時代であったのなら、泣き崩れていたのだろうか。
 けれど今のわたしには毅さがある。
 母である毅さ。妻である毅さ。
 
 マースから貰った、わたしの誇り。
 
 葬儀の日は空が高かった。
 
 まるで秋空のよう、と考えながら、わたしは喪服と軍服に混じり少し離れた場所で彼の棺に土が掛けられて行く様を見つめていた。
 ひたり、と、エリシアがわたしの手を握る。その湿った小さな手に視線を下げると、エリシアは酷く困惑した顔で、どうしてパパ埋めちゃうの、と、尋ねた。
 
 温かく湿った高い体温。まだ赤ん坊から脱しきらない命の温度。
 
 鍛えた筋肉から熱を発するマースの高い体温。
 
 エリシアの舌足らずに震える声。
 
 マースの低く甘ったるい少し舌足らずな声。
 
 嫌だよう、パパ、と、呼ぶ、わたしの、わたしたちの愛しい、
 
 
 
 ────ああ。
 
 決して、泣かないでいようと。
 涙を見せずに凛と立ち、わたしは大丈夫、と、マースに、ロイに、毅く微笑んで見せようと、そう、
 
 決めていたのに。
 
 決めて、いたのに。
 
 
 
 その後、幾度かロイはわたしたちを訪ねて来た。
 けれど最後に彼の声を聞いたのは電話越しで、わたしの愛しい友人は、これからはあまり会わないし、連絡もしない、と告げた。
 ロイは中央に赴任するのだと言う。わたしとエリシアのとても近くに、彼はやって来る。
 
『万が一にも君とエリシアを巻き込むわけには行かない』
 
 そう言ったロイは真意を明かすことはなかったのだけれど、わたしはただ彼に、待っているから、無茶をしないで、と言った。
 決して死なないで、なんて言えない。
 彼の決意を覆すことも出来ない。
 
 マースが支えようとした彼の、足下を挫くことなどわたしには出来ない。
 
 だから遠くから、ただひたすら穏やかに微笑して傷だらけの友人の手が、守られ傷のないわたしの弱い手を求めるのを待つ。
 マースの手を握っていたように、ロイの手もまた柔らかく、けれど逃げられない狡猾さで掴む。
 
 ───本当は、ロイが目的を果たせるかどうかなんて、わたしには重要ではないのだけれど。
 
 ただ誇り高い愛しい友人が、わたしの愛する夫の親友が、マースの遺志を支えに天に拳を振り上げあがくその様は、本当に美しいと思うから。
 決して見せてはくれない彼の焔そのままの、美しい姿をわたしに見せたくないのであれば、わたしはそれを求めない。
 
 わたしは彼らのお姫様。
 求められこそすれ、求めることは決してなく。
 
 こぼしてしまった涙はもう取り戻すことはできないのだけれど、求められるものは涙ではなく笑顔だと思うから、わたしは穏やかに微笑み伸びる手に傷のない掌を重ね、癒す。
 抱き締める。
 わたしの愛しいマース。
 わたしの愛しいエリシア。
 わたしの愛しいロイ。
 
 わたしの愛しい、わたしを取り巻くものすべて。
 
 許しを請う者に許しを、癒しを求める者に癒しを、愛を求める者に愛を。
 
 ───ああ、こんな傲慢なわたしを許し癒し愛すのは、やわらかなスポンジであるマースだけだったのだけれど。
 
 今はもう、彼は神様の御元へ。
 
 だからわたしを赦すのは、天に坐す神様ばかり。
 
 
 
 
 
 わたしの神は、マース・ヒューズの顔をしている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


■2004/8/18
グレイシアさんは割に理想化された女性だと思うのですよ。なので男二人に理想化させてみました(おい)。理想化され、理想であることを自分に課した女性の機微。が出せてればいいなあ…。
ところでなんか二次創作のくせに文芸くさくてすみません。萌えとかなくてほんとすみません…。

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