今日は散々だった、とは兄さん曰く。
 
 確かに今日は散々だった。
 定時連絡というわけでは全然ないのだけど、ボクらは数ヶ月に一度、報告書を届けるときや特になんの情報もなかったりしたときなんかに一端イーストシティの東方司令部に戻る(と言うのもなんだか変な話だけど、兄さんの機械鎧の調整にリゼンブールに行くついでに寄ったりもするからなんとなく『戻る』になっちゃう)ことにしている。
 だから今日も様々な情報を取り置きしておいてくれる大佐に話を聞きに司令部に来て執務室でお茶をいただいていた(のは兄さんだけだけど)んだけど、ちょうどそのときに警報がじりりりと鳴って、扉の向こうの司令室がにわかに騒がしくなってそれでも呑気にコーヒーを飲んでいる大佐にいいんですかとボクが訊いて、大佐がうちの部下は優秀だからと言った瞬間に響いたノックと同時に血相を変えて飛び込んで来たハボック少尉が「なに呑気に茶ァ飲んでんですかアンタも働いてくださいよ」と怒鳴りついでに「手伝ってくれ」と兄さんをさらいぽかんとしていたボクの肩をにっこり笑って叩いた大佐にボクまで引っ張られ、連れて行かれた先は東方司令部内の旧棟で、どうも占拠したテロリスト(司令部の敷地の端っこで練兵場の向こう側ではあるとはいえどんな警備体制なんだろう、と不思議に思ったんだけど後で確認したらテロリストの一人が錬金術師で、壁に穴を開けて侵入したって言うんだから、「錬金術師よ大衆のためにあれ」という不文律は伊達じゃないのだなあと思った。だってそうしておけば大衆の目が厳しくて、少しでも馬鹿なことをしそうな錬金術師はそれだけで冷たい目で見られて信用をなくしてしまうから悪いことはできない。軍の狗、が嫌われる理由のひとつだとボクは思う。私欲で錬金術を使うことを一般のひとは許してくれない。錬金術師たるもの、相当な人格者であることを求められるんだ)によって爆弾が仕掛けられたらしいと言う話になってそれじゃ焔で燻り出せないなあ爆発してしまうなどと物騒なことを言う大佐は部下のひとたちの冷たい視線を一斉に浴びて一気に無能に成り下がり、結局ブレダ少尉の立てた作戦(戦略家って凄いなあと思うんだけど、結局兄さんが作戦をぶち壊してしまってほんとごめんなさい少尉)をあっさり無能から復活した大佐の指揮の元(こういうのを目の当たりにするとこのひとの『大佐』と『司令官』という肩書きは伊達じゃない)兄さんとボクまで何故か作戦に加えられて、壁にばんばん穴を開けてがんがん銃を撃ってくるテロリストを薙ぎ倒してなんとか鎮圧したのが翌朝遅くで(その途中で結局爆弾は爆発しちゃったんだけど、間一髪で兄さんがかなり威力を押さえたものに錬成し直してボクが抱えてダッシュしたから被害はそれほど甚大ではなかった。ただ旧棟はだいぶ壊れて、兄さんの眉毛は焦げて、何人かの軍人さんが怪我をして、ボクの鎧がすごくヘコんだ)、その後も後始末で大わらわで兄さんもボクも手伝ってみんな疲労困憊で(大佐は全然手伝ってくれなかったけど報告書を書いていたみたいだから仕方がないのだと思う。んだけど兄さんは大変ご立腹)、そして今はもう深夜。
 仮眠室はどろどろに汚れた軍人さんたちでいっぱいで(兄さんはなんとかベッドを確保出来たんだけど)ちょっとベッドの数が足りず、廊下の長椅子や娯楽室にはやっぱりどろどろに汚れた軍人さんたちが伸びていて、それはここ司令室でも同じことで、だから最後まで働き続けていたこのひとがベッドを確保できなかったのは至極当然のことだとは思うんだけど。士官だからって特別扱いはないのかもしれないんだけど。士官用の仮眠室もいっぱいなのかもしれないけど。
 
 軍人さんだと、女性だから優遇される、なんてことはないんだろうけどさ、ホークアイ中尉。
 
 ボクはそっと溜息を吐いた。ボクの視線の先では、司令室の隅の堅い長椅子に毛布にくるまって横になっている綺麗なひとがいる。
 明かりが半分以上落とされた司令室では、何人かの軍人さんが床や別の長椅子に横になって眠っているし、三人ほど机に座って仕事をしているひともいる。廊下はときどき誰かがこつこつと歩いて行くし、軍司令部というのは何時であっても完全に眠ることはないのだな、とボクはつくづく思いはしたけど、それはつまりこの綺麗な女の人の寝顔を覗こうと思えば覗けるということで、それってちょっとどうかと思うんだ。
 ボクは兄さんを叩き起こして中尉にベッドを譲ってあげたい気になったのだけど、仮眠室だって床にまで軍人さん(もちちん男性)が溢れていることを思い出してやめた。
 そりゃあ何か間違いがあるなんてことはないんだろうけど、だけどやっぱりそれってなんだか嫌だなあ、と思ってしまうのは、ボクが軍人という職業をあまり理解していないせいなのだろうか。
 本当は起こして家まで送ってあげられればいいのだけど、くたくたに疲れてこうやって僅かに動くだけでがしゃがしゃと音のするボクが近くに来ても気付かないほど熟睡しているこのひとの眠りを妨げるのも申し訳なくて、しばらく逡巡してからボクはそうっと長椅子の横の床に、壁に寄り掛かって座った。首を巡らせて見ると、中尉の頭が直ぐ側にある。
 顔を半分以上毛布に潜らせて、見えているのは長い睫の瞼と綺麗なおでこと髪の毛だけだけど、それでもやっぱり凄く綺麗な寝顔だった。
 
 膝を抱えてぼんやりと司令室を眺める。ひそひそと話をして書類を抱えて去って行く人、がしゃがしゃとタイプライターを打っているファルマン准尉、ガラス張りの壁の向こうの廊下を歩いて行くひとの影、机の向こう側で通路に大の字になって寝ているハボック少尉のいびき、机に突っ伏して眠っているフュリー曹長。
 ああ夜だなあ、と傍らの女の人の静かな寝息を聞きながらボクは思う。この密やかで空気の密度の濃い感じは夜の特権だ。ボクの時間の特権だ。
 この特権の時間に、この建物は完全には眠らない。
 
「………番犬かね、アルフォンス君」
 気配のなかったその声に、ボクは飛び上がりそうになるのをすんでのところで堪えて顔を向けた。
「マスタング大佐……おやすみじゃなかったんですか」
「今から休むよ。仮眠室がすべて埋まっているのを確認してきたところだ」
「……廊下で寝ているひともいるくらいなんだから空いてるはずはないと思うんですけど……」
「誰か起きて帰ったかもしれないじゃないか」
「無理ですよ。皆さん凄く疲れてましたから」
「まあ、それもそうだ」
 言って、じゃあおやすみと去るのかと思っていたら、大佐はふー、と疲れた溜息を吐いてボクの隣によっこらせと座った。軍服の襟を開けてシャツのボタンもふたつ外して、しかも床に直座りの、いつものこのひとからはちょっと考えられない行儀の悪さだ。兄さんみたいだなあ、と思いながらボクは大佐を見た。
「あー……疲れた」
「お疲れ様です」
「君もね。申し訳なかったね、鋼のはともかく、君は一般人なのに」
 中尉を起こさないよう小声で話しながら、ボクはあは、と小さく笑った。
「気にしないでください。兄さんがやめろやめろって言うからやめてますけど、ボクも国家錬金術師資格、取ろうかなって思ったこともあるし、兄さんと一心同体みたいなものですし、みなさんにはいつもお世話になってますし、ボクは疲れないですし」
 ちょっと首を傾げた大佐が、まだ完全には直してもらえていない(あちこち修復するのに兄さんは引っ張りだこだったから、ボクの細かい修理は後回しになってる)ボクのヘコんだ腕を撫でた。
「鋼ののように錬成陣なしで錬成できるなら、すぐ直してやるんだがな」
「あー……多分無理です。下手をするとボクこの世にいられなくなっちゃうので、兄さん以外のひとには直してもらわないようにしてますし」
 大佐は目を丸くした。
「じゃあ、鋼のがいないときに壊れたら大変だろう」
「ええ、大変ですね」
「………他に誰かに教えてはいないのか? 君の直し方を」
 ボクは小さく肩を竦めた。
「魂の錬成方法や定着の方法なんて、そう軽々しく他人には洩らせません」
「信用できないのか?」
「逆です。大切なひとであればあるほど教えることは出来ません」
 ボクは声を落とした。
「……そんなことを教えて、大切なひとが道を外して失われてしまったら、悔やんでも悔やみ切れない」
「………なるほどね」
 ふむ、と頷いて、大佐はもう一度ボクの腕を撫でて立ち上がった。
「では、中尉の丈夫で疲れ知らずの番犬には、どんな礼をすればいいのかな」
「え?」
 大佐は目を細めて中尉の寝顔を見下ろして、それから再びボクを見た。
「彼女が目覚めるか、ここにひとが増えて来て彼女を起こすまで番犬をしているつもりなのだろう?」
「えっと……そうですけど」
「テロ鎮圧に協力いただいた分と、私の副官の護衛分、何か礼をしなくてはな、司令官として」
「そんな、気にしなくていいです。さっきも言ったけど、ボクは兄さんと一心同体みたいなものだし兄さんは軍属だし、中尉の……護衛、は、ボクが勝手にやっていることなので」
 大佐は首を傾げてちょっと片方の眉毛を上げて、何か言いたそうに口を開き掛けたのだけど、ぱくんと閉じ、結局また開いた。
「………君は中尉が好きなんだな」
「好きですけど」
 大佐の眉間にちらっと一瞬だけ皺が寄る。
「まあいいけど」
 いいならそんな顔しないで欲しいんですけど。
「……大佐も中尉が好きなんでしょう?」
「まあ、大事な部下だからね」
 そういう言い訳をする理由がボクにはよく解らない。恋人みたいに好きなんじゃないのかなあ、と思うのだけど、でも大人の『好き』は多分複雑なのだ、と納得して、ボクはちょっと首を傾げた。
「心配しなくても相思相愛を邪魔はしませんよ」
「………相思相愛って」
「今のボクじゃ勝負になりませんし」
 時間はたっぷりありますし。
「ボク、まだ若いので。気も長いし」
「……………」
 大佐は物凄く複雑な顔をして、もう一度中尉の寝顔に視線を落とし、それから軽く顎を引いた。ボクは大佐の視線を追って、ぱちりと目を開いた中尉にかしゃんと首を傾げる。
「すみません、うるさかったですか?」
「………いいえ、目が覚めただけよ」
 ホークアイ中尉は今まで眠っていたとは思えないはっきりした声で言って、むくりと起き上がった。髪はすっかり弛んでいるけど顔には眠気の欠片もなくて、兄さんと同じくらい寝起きのいいひとなんだなとボクは思った。
「大佐、ここをお使いになりますか? 執務室のソファのほうがまだ寝心地はいいと思いますが」
「いや、執務室で休むよ」
「そうですか。では早くお休みください。明日もまだ仕事は山積みですので」
「………そうしよう。君はもう一度休むか帰るかしたまえ」
 はー、と溜息を吐いた大佐を横目に、ボクは毛布をたたんでいる、もうここで休む気はないらしい中尉を見た。
「お帰りになるなら送って行きますよ」
 中尉がボクを見つめた。視界の端で大佐の眉が跳ね上がったのをボクは見ていた。
「こんな夜中に子供が出歩いては駄目よ」
「大丈夫です。ボク、夜中にはいつも散歩しているし、ボクを見て子供だと思うひとはいませんよ。変な人かおばけだと思って吃驚するひとはいますけど」
 冗談めかして言うと中尉は軽く目を細めて笑ってくれた。ボクはちょっと嬉しくなって肩を竦める。
「送ってもらいたまえ」
 口を挟んだ大佐をボクは見上げた。腕を組んだ大佐はにこりと笑って、ボクと中尉を交互に見る。
「彼が一緒にいれば不埒な考えを起こす者などそうはいないだろう」
「大抵のトラブルは一人で解決出来ますが」
「それでもトラブルに巻き込まれる時間が惜しい。君も午後からとはいえ明日も出勤だろう。睡眠時間は少しでも長いほうがいい」
 中尉はしばらく大佐を見てその笑った目から真意を見出そうとしているようだったけど、結局小さく嘆息してボクを見、ひとつ頷いた。
「じゃあ、お願いしようかしら」
 
 上官命令じゃ言うこと聞かないわけにはいかないよね。
 
 それがちょっと不満だったけど、大佐の意図はボクには伝わっていたし、その気持ちが嬉しくないわけではなかったから、ボクは素直に頷いて立ち上がった。
「じゃあ、大佐、おやすみなさい」
「失礼します。大佐もゆっくりお休みください」
「ああ、おやすみ」
 軽く手を上げて踵を返し、執務室の扉の向こうへ消えた背中を見送りながら、ああなんて不器用なひとなんだろう、とボクは思った。
 
 これでお礼のつもりなんだから。
 
 ボクのライバルは意外に純情で義理堅い、と胸のうちで笑って、ボクは毛布を抱えて歩き出した中尉に続いて司令室を出た。

 

 
 
 

■2006/2/28

04/7/19〜12/1までの拍手御礼SS。ごみばこにずっとあったんですが、NOVELに置きたいなあと前々から思っていたのでサルベージ。アイアル大好きです。

初出:2004.07.19

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