砂漠の夜は冷える。
濃紺の空を見上げると、満天の星が圧迫感を伴って降ってくるようだ。
エドワードはごろりと砂地に転がり、目の回るような空を見上げた。地平のある地上と違って天はあまりに広く、ちっぽけな人間ごときが心易く眺めることもできない。
しかし地上もまた地平によって視界から切り離されているだけで、どこまでも見通す目さえ持っていたのだとしたらその広さに眩暈を起こして立っていることもままならないだろう。
地球が丸いのは自然の摂理だな、とどうでもいいことを考えて、エドワードは目を閉じた。表皮の冷えた砂と岩の地面の底に、ざく、ざくと踏み締める音が響くのを後頭部で聞く。
「おい、エド。寝てんのか?」
風邪引くぞ、と覗き込んだ気配に、エドワードは目を開けた。先程まで一杯に満天の星空を広げていた視界に、少し眠そうな軍人の顔が入り込んでいる。
「寝てねえよ。ちょっと考えごと」
「ふん?」
軽く片眉を上げ傍らへと腰を下ろしたブレダに倣い、エドワードはよいせ、と起き上がった。膝に腕を凭れ、天を見上げる。ぐるりと視界が回るように錯覚する。
「寒くねえか?」
「んー、まだ大丈夫」
「少佐がコーヒー淹れてたぞ」
エドワードはにやりと笑った。
「アームストロング少佐でも、砂漠じゃ紅茶じゃないんだな」
「茶葉が切れたんだろ」
肩を竦め、ブレダはごそりと胸ポケットを漁り煙草の箱を取り出した。
「………なあ、ブレダ少尉」
「あん?」
煙草を咥え、フィルタを噛んだままごそごそとマッチを探しているらしいブレダは顔も上げない。エドワードは頬杖を突いて、ポケットというポケットを叩いているブレダを眺めた。
「叩いても入ってねえもんは増えねえと思うよ」
「入ってたら増えんのかよ」
「物による」
へ、とブレダはまだポケットを探しながら煙草を咥えた唇の片端を上げて笑った。
「錬金術師サマってか」
「ま、な」
「エド、火」
「オレは大佐じゃねえぞ」
唇を尖らせ、エドワードはブレダの口から煙草を抜いた。
「おい」
「火のない煙草に意味なんかねえだろ」
ぐい、とコートのポケットへと突っ込むと、ブレダは不満げに鼻を鳴らす。その様子に笑い、エドワードは足を伸ばして後ろ手を突いた。
「どうした」
「何が」
「さっき、何か言い掛けただろう」
「ああ、」
エドワードはふい、と砂漠の端へと目を向けた。空が低く低く、地平のすぐそばにまで降りている。地上と繋がりそうな場所に、星が瞬く。
「イシュヴァールも寒いのかなって」
「ま、この辺ほどじゃねえだろうけどな。リゼンブールに入る前に近く通るだろ。一晩明かしてみるか?」
「じょーだん。駐屯してる兵隊さんにぶっ殺されるわ」
「誰彼構わず撃ったりしねえよ」
「そりゃ、アンタはね」
「で?」
そっけなく促す言葉に、エドワードは軽口に流れていた口を閉じた。
「……ほんとに撃つつもりだったのか?」
「ああ?」
「ロス少尉」
「撃ってねえだろ」
「もし、犯人だとしたら」
ブレダは片眉を上げ、唇の端を引き下げ軽く肩を竦めた。
「言っただろうが。デモンストレーションが過ぎるってよ」
「けど、大佐は疑ってたんだろ」
「逃がしたのはあの人だぞ」
「犯人だったら殺せって言われてたんだろ」
「犯人だと思ってたらあんな訊き方しねえだろうが」
ふん、と鼻を鳴らし、ブレダは少しばかり沈黙した。向いた視線を暫し眺め、それからエドワードと入れ替わるようにふい、と地平へと目を向ける。
「……まあ、万が一、俺の目から見て怪しいようなら問い詰めて吐かせろとは、な」
「………そっか。信用されてんだ、ブレダ少尉」
「なんだそりゃ」
エドワードは頬杖を深く突き直した。半分瞼を被せた金眼で、ぼんやりと足元の岩と砂ばかりの大地を見る。
「ヒューズ中佐って」
「准将だ」
「……准将ってさ、大佐とどのくらい親しかったんだ? イシュヴァールの戦友?」
「士官学校も一緒だと聞いてたけどな。俺達より随分と長い付き合いのはずだぜ。十年にはなるんじゃねえか」
ふーん、とエドワードは呟いた。手袋を嵌めた右手の指で地を擦ると、ざり、と硬い震動が神経を僅かに圧迫する。岩場の砂が、指の跡を残した。
「………よっぽど大事だったんだな」
「なんだ、親友の仇を恨んで何か悪いってのか」
「復讐は何も生まない」
「大佐が、復讐を目論んでるってのか?」
く、と上目に上げた目で見詰めると、地平を眺めていたブレダは視線に気付いたかこちらを向いた。その目が僅かに瞬き、顎が引かれる。
「ブレダ少尉はハボック少尉と仲良いよな」
「……なんだよ、急に」
「もし、ハボック少尉が襲われて、その犯人が目の前に現れたとしたら、少尉はどうする」
ブレダは唇を曲げ、ぼりぼりとこめかみを掻いた。
「相手に寄るかな」
「仇は討たねえの?」
「もしもこうだったら、なんて話は好きじゃねえんだよ」
「そういう話をしてんじゃねえ、」
「戦場じゃ、復讐なんて日常茶飯事だ」
エドワードは言葉を詰めた。ブレダはつまらなそうにちらと視線をくれ、それから憂鬱に溜息を吐く。
「ガキに聞かせるような話じゃないが、そういうことを言って欲しいんだろ」
「そ……ういう、わけじゃ」
「生きるか死ぬかの極限状態、頭に血が上ったとこに、さっき戦友を撃ち殺した敵が転がり出て来たとする。撃鉄上げた銃を持ってりゃ、そりゃ、撃つわな」
「……撃鉄が」
「落ちてたら、か? ま、俺は……撃つべき状況じゃねえなら撃たんが、モノに寄るだろう」
「大佐は」
「あの人の『銃』はいつだって、引き金引くだけだろうが」
指を擦る仕種を見せて、ブレダは立ち上がった。尻をはたく。
「大将。お前ガキのくせに勘はいいな」
「え、」
ブレダは苦笑のような笑みを浮かべた。
「ロス少尉が犯人じゃなくて安心したよ。大佐もそう言うだろう。が、俺としては彼女が犯人であったほうが良かったとも、ちょっとは思う」
「何言ってんだ、アンタ」
「お前は大佐に引き金引かせたいのか?」
エドワードは口を噤んだ。
「……ま、もしもの時は止めるだけだがな。ハボックも俺も、ホークアイ中尉もいるしな」
ブレダは肩を竦め、冷える前に戻れよ、と言い置いてテントへと向かった。
その背を見送り、エドワードは小さく息を吐いて胡座を掻いた。背を丸め、だらりと両腕を落とす。
そういえば腕の修理をしなくてはならなかった、と考えて、エドワードは砂を見詰めた。かさかさと、小さな黒い甲虫が岩と砂の合間を歩く。こんな場所にも、生き物はいる。
空を見上げる。
満天の星空だ。降るような、昔アルフォンスと共にあの無人島で見たような、人知の及ばぬ真の夜の向こうにある、暗闇でこそ目にすることのできる、あえかな星の瞬きだ。
背を向けた、その少しも俯かない耳許の尖った骨が、通りを舐めたヘッドライトに光ったのを妙に覚えている。
大佐、と口の中で呟く。それから声に出してロイ、と囁き、エドワードは顔を顰めた。
まるでマース・ヒューズのようだ。
コートを羽織る背を思う。彼は躊躇わず、敵を撃つだろう。
その戦場へと飛び込みそれを止める権利は己にはなく、居合わせてやれるかどうかすら解らない。
合わせた両手に、額を付ける。睨め付けた先は、地平の星だ。
それをさせるな、と、ヒューズに祈ることはしない。神などない。死者はなにも出来はしない。
ただ、見守っていてほしい、と、それを。
彼は敵を撃つ。それは間違いがない。
ただ、引き金を引くその目に映る暗がりのふちを。
「………覗くなよ」
ロイ、ともう一度囁いて、エドワードは再び苦く顔を顰めた。