「……怖いよう、兄ちゃん」
「怖くねぇよ! どうせなんにもいねーんだから!」
「………でも、おばけが出るって」
「出るわけねーだろ!」
 弟の弱々しい抗議を大声で封じた兄の、繋いだ手は震えている。弟はこっそりとため息をついて、ぐいぐいと引っ張る兄に嫌々ながらついて歩いた。
 
 ことの起こりは今日の昼。幼馴染みの女の子が、花屋のリックから聞いて来た話を披露したのが始まりだ。
 
 この黒い森に、おばけが出るという噂。
 
 昼間でも大人と一緒でなくては入ってはいけないこの森は、けれどまだ浅い部分はクワガタやカブトムシがたくさんで、兄弟も兄弟の友達もこっそりと忍び込んでは泥だらけになって虫を追いかけ夏中遊ぶ、そういう森だ。
 だから、そんな噂が立っては困るのだ。夏はこれからだ。今年もここでたくさん遊ぶのだ。
 
 おばけが出るなんて言いふらされたら、誰もここで遊んでくれなくなっちゃうじゃないか。
 
 そう言って迂闊な幼馴染みの女の子を怒鳴った兄に、リックは嘘なんか吐かないもん! と彼女が怒鳴り返したのがまたまずかった。
 彼女は今年二十歳になる十以上も年の離れた花屋のリックに密かに憧れていて、兄がそれを目を吊り上げ睨んでいたのを弟は知っている。兄は彼女が好きなのだ。
 もちろん弟も彼女のことは好きなのだけど、リックだっていい人だ。いつだってにこにこ優しくて、ときどき脅かすようなことを言うけれど、弟が怯えて母の陰に隠れてしまうとごめんごめんと笑ってエプロンのポケットから取り出した飴玉と、綺麗に咲き切ったマーガレットを一本くれる。もらってくれないとあとは散るばかりだから、と恐縮する母にリックは言うけれど、それが彼のポケットから出されたお金で渡されている花なのだと弟は知っていた。リックは兄弟の母が好きなのだ。
 何しろ素敵なボクらのおかあさんだから、それは当然のことだよね、と弟は年に似合わぬませたことを考える。
 そんな呑気なことを考えていた弟は、いよいよ黒い森の入り口をくぐってしまったことに気づいてびくびくと兄へと擦り寄った。兄はぎゅっと繋いだ手に力を込めて、きっと黒い森を睨む。
「何でもないって! ここでおばけなんか見たことないだろッ」
 そんな経緯で売り言葉に買い言葉、オレが何もいないって証明してみせる、と怒鳴った兄は、当然のように隣のベッドでまどろんでいた弟を清潔なシーツの中から引っ張り出して、こっそり窓から忍び出て今こうしてここにいる、というわけだ。
「でも……ほんとに何かいたらどうするの? 大人と一緒でも、夜は絶対に入っちゃいけないって言われてるのに。見つかったら凄く怒られる」
「お前はオレが連れ出したんだから、怒られるのはオレだけだ」
「……………」
 そんなわけないよ、と思いはするものの、兄のその自信満々な態度に弟は少し困ってきょろきょろと周囲に目を馳せた。
「ねえ、兄ちゃん…どこまで行くの?」
「モースの杉んとこ」
「あんな奥まで!?」
「しょーがねーだろ。あそこまで行って杉のはっぱとってこなきゃ信じねぇって言うんだから」
 どうやら弟の知らないうちに兄と幼馴染みの間には軽率な契約が結ばれてしまっていたらしい。
 
 モースの杉と呼ばれる大木のある場所は、無謀な子供たちでも自分たちだけで向かうことは決しない、森の奥だ。虫はもっと浅い場所でも捕れるから、子供だけで行く必要はないし一応道らしきものは通ってはいるが枝道が多く、またモースの杉を越えると道らしき道はなくなってしまうから迷いやすくもあり、大人にも絶対に行っては行けないと口を酸っぱくして言われている場所だ。
 
 そんなところに行こうだなんて。
 
「ボクやだよう! 帰ろうよ兄ちゃん!」
「今更なに言ってんだ」
「そんな奥まで行くなんて聞いてないよう」
「言ったらお前、かあさんに言いつけただろ」
 ああ本当に、そうできたらどんなによかったか。
 弟は半べそを掻きながら、それでも兄の手を離してひとりで帰るにはもう随分と奥まで来てしまっていたから、結局兄の手にすがってびくびくとついて歩くことしか出来ない。
 そんな弟に申し訳なく思ったのか、兄は今度は弟が擦り寄ってもなにも怒鳴ることはしなかった。
 もしかしたら、兄も怖かったのかもしれない。
 
 兄弟二人身を寄せ合って兄の手にあるランタンを頼りに暗い森をきょろきょろと見渡しながら、二人は無言で足を進めた。時折ばさばさ、と何かが木々を鳴らす音が二人を驚かせたが、それは多分夜行性の鳥で、この世のものなら大して怖くはない弟と、まったく怖くはない兄は他の平均的な子供たちよりはずっとしっかりした心持ちではいられた。
 だから、おばけが出るなんて噂さえ払拭すれば兄弟にはこの森で怖いものは何もなかったし、友達だって怖いことはなかろうと、そう信じて疑わない兄はぐんぐんと足を進める。
 それでも怖がる子は怖がるんだよねえ、と怖がりな幼馴染みを思う弟の足は兄よりも遅く、兄に手を引かれて嫌々ながらに歩く。
 
「もうちょっとだぞ」
 くるりと振り向き微笑んだ兄に、うんと頷いた弟はふと視線を前方へと向けた。
 がさがさ、と音がする。───否、がしゃ、がしゃ、と。
 
 藪を掻き分ける音と、まるで足音のような。
 鉄の長靴を履いた、ような。
 
 兄弟はそろって音のする藪へと視線を向けた。瞬きを忘れた二対の瞳が零れんばかりに見開かれる。
 
 兄弟はこの世のものなら大抵のものは何も怖くはなかったが、人間──お酒が頭に回ったおじさんや、様子のおかしい帰還兵は怖かった。
 兄弟の住む土地からそう離れていない国境で今も昔も戦争は頻繁に起こっていたから、服役していた元軍人がうろつき回り女の人や子供が襲われた、などと言う話はなくはないのだ。
 兄弟にはその意味はよくは解らなかったけれど、ただとても恐ろしいことだと、本能的に知っていた。
 
 動物よりも何よりも、もっとも恐ろしいのは大人の男だ。
 
 だから、その明らかに二本の足で歩いている足音を聞いて兄弟がすくみ上がったとしても無理はないことなのだった。いつも兄弟の母は知らない大人について行ってはいけないと話して聞かせていたのだし、幼馴染みの両親の友人の娘は、戦場から帰った自称英雄に酷い目に遭わされて自殺をしてしまったのだと、大人たちが話しているのを聞いてしまったこともある。
 
 自殺をするほどの酷いこと、って、何だろう。
 
 それは兄弟にはまだとても想像のつかない、とても恐ろしいことだったのだろう。
 だから、兄弟は知らない大人の男が怖い。軍服が怖い。銃が怖い。音高く足音響く、軍靴が怖い。
 
 がさり、と、藪を夜の闇に黒く映る大きな手が掻き分けた。
 ひ、と弟の喉が鳴る。兄はそれを合図にしたように激しく瞬きをし、目を吊り上げて藪を睨み弟を背後に庇った。
 
 ぬ、と現れた巨大な影。兄弟には一瞬それが熊に見えた。兄はこんな時のためのかんしゃく玉を投げつけようと弟の手を握ったままの手をとっさにポケットに差し込もうとし、ランタンの明かりにぎらりと光った鈍い銀色のそれにぴたりと動きを止めた。
 ゆっくりと姿を現したそれを、兄弟はぽかんと口を開けてゆっくりと見上げた。首が人間を見ているとは思えない角度まで曲がる。それの肩から、はらはらとはっぱが落ちた。
 がしゃり、と音がして、それが兄弟を見下ろす。
 
 爛々と光る、真っ赤な目。
 
 それは巨大な鈍色の鎧なのだった。
 兄弟は声もなく竦み、ぶるぶるっと震えると手を取り合いくるりと踵を返して駆け出した。
 
 
 
 
 
 
 
 がしゃん、がしゃん、と背後から足音が聞こえる。追われているのだ、とそう思うと兄弟の頭は余計に混乱した。
「兄ちゃん! あれ、あれ何!?」
「知るかよ!」
「お……おぱけだよね!?」
「あんなでっかい人間なんか見たことねーよ! つーか変だろ明らかに!! 目が真っ赤だったぞッ!!」
「やっぱりリックの言った通りじゃんかーッ!!」
「しょーがねーだろー!?」
「ボク帰りたいよーッ!!」
「オレだって帰りてーよ!!」
 ああはやく家へ逃げ帰って、清潔なシーツのベッドへ潜り込んでしまいたい。
 しかし兄弟の思惑とは裏腹に、どうも道を外れたらしい足は黒い森を彷徨うばかりだ。ランタンがまるで酔いそうなほど激しく揺れ、その不安定な明かりに兄弟はときどき足下の木の根や蔦やなんだかわからないものにつまずき転んだ。
 何度目かの転倒からむくりと弟が起きあがるのを助けた兄は、ふと背後の足音が消えたことに気付く。
「………いなくなったかな」
「ていうか兄ちゃん、ここ、どこ」
「………さあ」
 息を弾ませた兄弟は、泥だらけの衣服を握り顔を見合わせ、ざらざらと汚れた手をどちらともなく差し出してぎゅうと手を繋いだ。
「……ちょ、ちょっと歩けば、森のはじっこに着くよね?」
「た、多分な」
「だって、来た方に走ったもんね」
「う、うん」
 兄弟はがちがちと鳴る歯の音をお互いに聞き、泣き笑いの顔で頬を引きつらせた。
「い……行こう。また追っかけて来るかも」
「う、うん」
 空を見上げ、森の合間から星は見えるものの月はなく、方角も計れず兄弟はとぼとぼと歩き出した。
 とにかくまっすぐ。森の端まで。
 藪が酷い。ランタンに虫が纏わり、兄は苛々と手を振った。明かりが揺れる。足の下で折れた枝や土に還り掛けている葉がぱきぱきかさかさと音を立てた。
 深い土の匂い。
 夜の木々の香りは昼とは違う。どこか熱い緑の呼吸は兄弟を息苦しくさせた。
 は、は、と大きく息をしながら、兄弟はまっすぐのつもりでただ歩いた。
 
 気付いたのは弟だった。
 
「……に、兄ちゃん」
 がたがたと震え出した弟の、その声も酷く震えて語尾など聞き取れないほどだ。
 兄は弟の見る先に目を向け、繋いだ手から伝染したかのようにじわじわと震えを大きくした。
「わ、わ……あ」
 のそり、とその影が動く。
 赤い光が眼窩から覗く。
 兄弟はがちがちと震えながらなんとか足を動かし、おばけ鎧が一歩を出すよりも先にくるりと方向を変えて走り出した。必死で走っているはずなのに、何故かまったく進まない。
 歩くよりもゆっくりと走る兄弟を、がしゃり…、がしゃり、とこちらもゆっくりとした足音が追い掛ける。
 すっかり顎が壊れたかのようにがちがちと歯を鳴らしながら、それでも兄弟は繋いだ手を痛いほど握ったままただがむしゃらに足を出した。
「あ、ああッ!!」
 ふいに兄が絶望的な声を上げる。前方がよく見えていなかった弟は、その声を聞きながら進路を塞ぐ藪にがさがさとぶつかり、半袖の腕に擦り傷を作った。
「い、行き止まり……!?」
 藪の向こうには町の灯りが見えている。森の端だ。
 
 だが、通れない。
 
 背後を顧みる間でもなく、ゆっくりと、しかし確実に足音は迫っている。兄弟は忙しなく振り向き、無駄なあがきだと解っていつつ藪を掻いたが、絡む低い木々の細い枝は生半には解けない。
「ど、どうしよう兄ちゃん…!」
「どうしようったって……」
 勝ち気な兄も今ばかりは半泣きだ。生き物相手ならまだどうにかなるとしても、化け物に何ができるというのだ。
 ああ真剣に日曜学校に通っておくんだった、と兄は思った。お祈りのひとつでも唱えれば退散したかもしれないのに。
 
 もし逃げることが出来たら、ちゃんと食事の前と寝る前にお祈りをしますから。
 だから、オレたちを助けてください。
 家に帰して。
 
「神様……!」
 
 ぎゅ、と目を瞑った兄を真似るように、こちらは目を瞠り闇の向こうからやってくる鉄の鎧を見据えながら、弟の歯の根の合わない声も呟く。
「いい子になりますから、神様…!」
「助けて!」
 
 ばしん。と。
 
 音がした。
 
 途端ばきばきと音を立てて目の前の藪が、まるでトンネルのように開いた。
 兄弟は目を丸くしてそれを見つめ、逸早く正気に返った兄が慌てて弟の手を引く。
「行くぞ、ダニー!」
「う、うん!」
 がしゃん、がしゃんと音がする。
 兄弟は手を繋ぎ子供が屈まずに走れる程度の、けれどあの鎧は決して追っては来れないだろう狭い藪のトンネルを抜けた。
 再びばきん、と音がして、藪のトンネルが閉じて行く。
 弟は兄に手を引かれ道を走りながら振り向いた。
 
 トンネルの向こうで、あの鎧が。
 小さく手を振って、いたような。
 
 多分、気のせいだ。
 
 兄弟はもう追っては来ない鎧に怯え、家までの道のりを一度も休まず駆け抜けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
    † † † † † †
 
 
 
 
 
 
「なんでお前声掛けなかったんだよ。すっげー転んでたぞあいつら」
「だってあんなに吃驚してたら、声掛けたら余計脅かすかなあって思って」
「あー、まあ、すげぇ顔してたもんな」
「……………」
「…………。……ま、あんだけ脅かしとけばもう夜に子供だけで肝試ししようなんて考えはしねーだろーな」
「うん。この辺、治安が悪いんだって食堂のおばさんも言ってたしね」
「戦地が近いのにあんま軍の手が回ってねェみてーだな。一応町なんだし、もちっとまともな官憲の数増やしたほうがいい気がすっけどなあ。キッタネー軍服の連中ばっか徘徊してて、言われるまでもなく治安悪そうだもんな」
「じゃあそう報告してあげなよ」
「あー……面倒臭ェなー。この町の連中がなんにもしてねーんならいいんじゃねーの」
「町のひとが訴えても司令部まで話が行かないのかもしれないじゃない。兄さんなら直接話通せるんだから知らせてあげなよ」
「お前お人好しだよな」
「兄さんがひねてるだけじゃないの」
「何言ってんだ。お前も相当ひねてるっつーの」
「どこがだよー」
「だってさっきのガキども、絶対今日は一人でトイレ行けねーぞ。お前脅かしすぎ」
「あはは、今夜は揃っておねしょだね」
「………………」
「……どうしたの」
「……ちょっとデジャヴ」
「ああ、そういえばボクらも子供のとき肝試ししたっけ」
「あんときのおばけは何だったんだろうなあ」
「さあ………でも、ボクらが逃げ帰るの見て、多分笑ってたんじゃないかなあ」
「今みたいに?」
「今みたいに」
 
 くすくすくすくす。
 
「ん……と、あ、列車! 時間!」
「あ、大変! 急ごう兄さん!」
「ッたく、お前が余計なことするから」
「兄さんだってノリノリだったじゃないかー!」
「お前が楽しそうだから付き合ってやったんだよッ」
「人のせいにしないでよもーッ」
 
 
 ばたばたばた。
 がしゃがしゃがしゃ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

■2004/6/21
「藪の中」が読みたい。大まかな筋しか知らないんです。読みたい。
…どうしてこんなコメントかというと、この話の仮タイトルが「藪の中(贋作)」だったからです。全然違うものになっちゃいましたが。
あ、「シュヴァルツヴァルト」はドイツの地名ですが、ここでは「黒い森」の意で使ってます。

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