真昼の火事に野次馬が群がっている。
 その野次馬の頭の上から見上げると、あとは全焼を待つばかりと言った様相の二階建ての家屋が火を吹いていた。物凄い形相でバケツリレーをしているのはこの家の主人だろうか。だとすれば隣で諦め顔で眺めている女が妻だろう。
 ロイ・マスタングは「ちょっとどいてくれ」と野次馬を掻き分け、もう突入することも出来ずに家屋の周囲で水を噴くホースを操っている消防士のひとりに近付いた。
「中にはひとはいないのか?」
「おい、危ないから下がって!」
「誰もいないのかと聞いているんだが。いないのならお前が下がれ」
 あからさまに機嫌を損ねた顔でロイを見た消防士は軍服に眉を顰めたが、すぐにホースを抱え直した。
「いないよ! いないからさっさと下がってくれ! 軍人さんに怪我させたとなっちゃ上に怒られちまう!」
「そうか」
 喚く消防士に頷き、ロイは一歩前へ出た。舞う火の粉と熱風が軽く前髪を焦がす。
「おいっ! 危ない!!」
「私は錬金術師だ」
 ポケットから取り出した発火布を右手へ嵌め、ロイは続けた。
「類焼する前に消したほうがいいだろう」
 バチッと音を立てて火花と稲妻が飛び散る。
 燃える家屋へと引き込まれるように走った火花に、消防士がぽかんと口を開いたのをあれでは煤を飲み込んでしまうだろうに、と思いながらロイは視界の端で見た。
 どん、と地を揺るがすような爆発音が響き、一瞬巨大な火柱が立つ。何が楽しいのか興奮した面持ちでざわめいていた野次馬がしん、と静まり返った。
 一気に冷えた風に煤が舞う。
「……………へ?」
「ほら、水を止めなくては道が水浸しだ」
「は?」
 手袋を外した手でびしゃびしゃと石畳を濡らしていたホースを指差し、ロイは爆発に火を飲み尽された黒焦げの家屋に背を向けてさっさと歩き出した。
 
 余計な道草を喰った。また中尉に叱られる。
 
「な、な……え、あの、ちょ、お名前は! ちょっと軍人さん!」
 群集が呆然としている間にさっさと路地へと消えてしまった男に消防士が叫ぶ。すぐに追おうとし掛けるが、まだ水を噴いているホースが暴れ慌てて抱え込み盛大に舌打ちをした。
「お礼も言ってないってのに……!」
「東方司令部のマスタング大佐だよ」
 少年の声がそう言った。
 え、と呟き顔を上げると、赤いコートの端と黒いブーツの足が路地へと駆け込んで行くところだった。
 
 
 
 
「名前も告げずに立ち去るなんて、かぁっこいいじゃん、大佐」
 背後から揶揄を込めた声が響いた。半年ほど前に国家錬金術師資格を取ったばかりの子供の声だ。
 ロイは眉間に皺を刻んだ不機嫌な顔でちらりと振り返ったが、足は止めない。
「うるさい。どうせ名乗ったところで感謝されるのは一瞬だけだ。しばらくすればまた軍はふがいないだの横暴だのと文句を言われるんだ。名乗って何の得になる」
「………なに八つ当たりしてんだよ」
「そのくせ軍が一般市民を守るのは当たり前だと思っているのだあいつらは。軍人を見れば石でも投げたそうなツラをするくせにいい気なものだ。まったく群集というのはどうしてああも自分のことしか考えんのだ」
「それが軍人の仕事だろ」
「ああ出たよ、か弱い群集の代表意見だ。まあ批難されるのもこき下ろされるのも仕事のうちだ。精々愚民様の役に立つさ」
「………おいこら」
「ああ、たまにはまともに感謝されたいものだ。麗しい女性から感謝のキスのひとつでももらえてもいいと思うのだがね、こんなに働いているんだから」
「こっち見ろって馬鹿大佐」
 がす、と足を蹴るとようやくロイは足を止めて振り返る。不機嫌な顔に疲れの色がある。
 エドワードは眉を顰めた。
「疲れてんの? 忙しいのか、最近」
「そうでもないさ。ちょっと一月ばかり家に帰っていないだけだ。ご婦人方とのデートも全てキャンセル。仮眠室が我家。ナントカの旅団とかいうテロリストが大活躍中でね」
「忙しいんだな」
 はあ、と溜息を付き、エドワードは労るように表情を緩めた。
「さっきの消防士さん、あんたに感謝してたよ。お礼言いたかったってさ」
「オヤジに礼を言われても嬉しくない」
「素直じゃねぇなあ」
「なに、君ほどじゃない」
「るっさい」
 唇を尖らせた子供がちょいちょい、と手袋に包まれた小さな手を呼び寄せるように振った。なんだ、と首を捻ると頭を下げろ、と言う。
「………何をする気だ」
「何もしねーよ。いいから屈めって」
 不審な眼で眺めるが、子供はしつこく手を振っている。
 仕方なく屈んで顔を近付けると、小さな硬い右手が頭をよしよし、と撫でた。ああ確かこの右手は機械鎧なのだ、と関係のないことを考えながら子供の顔を見つめると、エドワードはにひゃ、と口を開けて笑った。
「頑張ってるみたいだからご褒美」
「………子供じゃないんだからこんなことで」
「やっぱ嬉しくないか」
 はは、とどことなく大人びた顔で笑ったエドワードに、ロイはわずかに沈黙する。
 
 結構、嬉しいかもしれない。
 
 頭を撫でられたなんていつぶりだろう。子供の時以来だ。
 大人でもいいものかもしれない。
 
 そんなことを考えながらじっと見つめていると、エドワードはすぐに居心地悪そうになんだよ、と眉を顰めた。
 その顔に悪戯心か沸き上がる。
「そうだな、では代わりに君に礼を貰おうか」
「え? なんでオレが」
 言い掛けた言葉はぐい、と襟を捕まれ持ち上げられて圧迫された喉で詰まる。
 何すんだ、と文句を言う間もなく、押し付けられた唇の感触にエドワードはぱちくりと瞬いた。
 
 三秒。
 
 とん、と優しく下ろされ足が石畳を踏む。ぽかんと見上げた先でぺろりと唇を舐めたロイが、ふむ、と呟いた。
「ミートソースかな。食事の後は口を拭くくらいしたまえ、鋼の」
「な、な、な…………」
 ぶるぶると震え出した子供に、ロイはおや、と意地の悪い笑顔を向けた。
「なにを震えているんだ。まさか初めてだったわけでもあるまい?」
「初めてなわけねーだろッ! じゃなくてッ! な、なに、アンタ、男と」
「麗しいお嬢さんからのキスの代わりだよ。私も格別男とキスをする趣味があるわけじゃない」
「そんな代わりがあるかーッ! 嫌がらせだ!!」
「勿論嫌がらせに決まっている。しかし君が男とキスをする趣味がないとなると、君のファーストキスはあの幼馴染みの子かな」
 青くなったり赤くなったりと忙しい子供をわざとらしく笑いながら揶揄すると、子供は何やら極まったようでふらふらとよろけて壁へと手を突いた。
「な、なんでウィンリィ………アルに決まってんだろーッ!?」
「…………アルフォンス君は男の子だと聞いたが?」
「いいんだよ! あいつは別なの!」
 もう自分でも何を言っているのか解っていないらしいエドワードはぎゃんぎゃんと喚いている。あとで失言に気付いて青くなることだろう。
 そう考えながらロイはにこやかに笑った。
「では今はキス出来なくて寂しいなあ、鋼の」
「うっさい! 鎧でもキスくらいできるわ!」
 この場にアルフォンスがいたら殴り飛ばされそうなセリフだ。あの鎧の少年は優しげな声や礼儀正しい態度に似合わず兄には辛辣であることをロイは最近知った。
 後で告げ口してやろう、と腹の中で考えながら、そうかそれはよかったなあ、と笑ってロイは落ちたファイルを拾った。
「では、私は戻るよ。君たちも後で司令部へ顔を出したまえ」
「誰が出すかこの変態大佐!」
「上官命令だよ、鋼の。私もアルフォンス君にも会いたいからね」
「あ………」
 エドワードが青ざめる。
「アルに変なことしたらただじゃおかないからな!?」
「いやなに、鎧とのキスの味はどんなものかなどと考えては……」
 すかさず繰り出された蹴りを慌てて避け、ロイはふう、と息を吐いた。
「考えてはいない、と言おうとしたんだ、最後まで聞け」
「信用出来るか!」
「信用したまえよ。大体口付けたところでアルフォンス君には感触が解らないのだろう。それじゃ彼はつまらないだろうに」
「そ、そりゃ………で、でもそんなのは気持ちの問題で……」
 ごにょごにょと言い訳をする子供に、ロイはにこにこと曇りのない善意の笑顔を見せた。
「元の肉体を取り戻したら、存分に楽しませてやろうかな」
 再びかあっと頬に血を昇らせた人間湯沸かし器から、ロイは慌てて離れて手を振った。
「ではな、鋼の! また会おう!」
「オレは会いたくねぇッ!! さっさと帰って仕事しろこのクソ大佐ーッ!!」
 喚き過ぎて酸欠に嗄れる子供の声にあっはっは、と声を上げて笑い、ささやかなストレス解消を終えたロイは足取り軽く司令部へと向かった。
 
 今日も徹夜仕事が待っている。

 
 
 
 
 

■2004/5/17
へびはなにサイトなんだろう………初のキスネタがロイエドとは。
しかしロイさん率が高くなってきた気がします。なんか使いやすいんだこのひと……。
今度はエドロイもやってみたいです。(ええっ!?)

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