星空がとても綺麗な夜だった。
 にゃあんわあんと路地で鳴く猫の声を聞きながら、アルフォンスはがしゃんがしゃんと鎧を鳴らして眠る街を歩いた。夜空に僅かに掛かる薄い雲はちらとも動かず、兜の房飾りが一歩歩くたびにぴょこぴょこと揺れるがそれだけだ。無風なのだろう、とアルフォンスは思う。
 ひらひらと蛾が纏わり付いている街灯の明かりが自分に反射してやんわりと光る。
 磨いておいてよかったなあ、とそのやさしい輝きに満足して、アルフォンスはかしん、かしんと音を変えた自分の足音に気付き足を止めた。右足の裏を見るとちょっと大きめの石が挟まっている。触感がないから歩き難いとは感じられなかったが、放っておけば大きく傷が付いてしまうだろう。
 もともと足の裏はすぐに傷だらけにはなるのだけど、へこんだりひしゃげたりしたら嫌だなとひとり頷き、アルフォンスはよいしょと壁に片手を突いて改めて足の裏を見、小石を摘み取ろうとした。
「…………ん?」
 ふと路地の向こうが騒がしくなる。
 ばたばたといくつもの足音が響き、聞こえる声は怒鳴り声だ。待て、とかそっちだ、とか言うその言葉の意味から連想するに、どうも誰かが誰かを追っているらしい。
 そしてその誰かはこちらへ向かっているらしい。
 案の定。
「!?」
 背後を気にしながら路地へと飛び込んで来た男は、アルフォンスに気付きぎょっと立ち竦んだ。それはこれだけ大きな全身鎧がぬっと立っていたわけだから驚くのも当然だ。
 どうしようかなあ、このひと悪いひとなんだろうか、と決めかねて、アルフォンスはじっと動かず男を見下ろした。男はアルフォンスがただの置き物なのかそれとも人間なのかと判断が付かないのか、じりじりと距離を詰めながらも緊張した面持ちを崩さない。
「待て!」
 男がはっと振り向いた。聞き覚えのある冷徹なメゾソプラノに、アルフォンスも視線を上げる。まるで映画に出て来るひとのように素晴らしく隙のない構えで銃を構えたそのひとは、かっこいいなあ、と呑気に惚れ惚れとしたアルフォンスを見て僅かに目を瞠った。
「その子から離れなさい!」
 間髪入れぬタイミングで凛と命じたリザ・ホークアイ中尉が、はっと口を噤んだのをアルフォンスは見た。ほとんど崩れない表情の中、ほんの一瞬だけ失言を悔やむように唇が強く引かれるのを確かに視界へ納め、アルフォンスはリザの言葉を皮切りに銃を突き付け突進して来た男の襟首を掴み、慣性のままに己の影へと引き込んで、足を払い高い位置から思い切り地面へとその背を落した。鎧の背にがんッと銃弾が弾けた音と響きを感じたが頓着はしない。今の音なら真後ろに跳弾はしていないはずだ。
「アルフォンス君!」
 きゅうと目を回している男をそれでも用心のため地面に押し付けたまま、男の手から銃を奪ったアルフォンスは駆けて来たリザを見た。
「こんばんは、中尉」
「大丈夫!? ごめんなさい、背中に」
「いいんです。中尉が撃とうとしたのが解ったからわざと背中向けたので」
 リザは僅かに目を瞬かせた。その背後からばたばたと何人かの憲兵と軍人がやってくる。中にハボック少尉を見つけて、アルフォンスはあ、と顔を上げた。
「お? なんでお前がここにいるんだ、アル」
「こんばんは、少尉。ちょうどこっちに来てたんです。明日ご挨拶に伺う予定だったんですけど」
「んじゃなくて、こんな夜中にお前、子供が何してるんだ」
「散歩です。暇なので」
「………とりあえず」
 鎧? とか子供? とか囁いている部下に気絶したままの男を渡し、リザが立ち上がった。
「アルフォンス君はこちらへ。ハボック少尉、指揮をお願い」
「アイマム」
 ぴ、と軽い仕種で額へと右手を付け部下に指示を出し始めたハボックに背を向け、リザはアルフォンスを促して路地を出た。
「本当にごめんなさい」
「え?」
「背中。あなたがあの男を庇うとは思わなくて」
 憲兵がどこかからか引っぱり出して来た木箱へと腰を掛けながら、アルフォンスは首を傾げた。
「庇った、ように見えました?」
「ええ。……どうして庇ったの? 知っている男なの?」
「いえ、全然知らないひとですけど……ただ」
 アルフォンスは表情の無いリザの顔を見つめる。いつもは一筋の乱れもなく纏められている薄い色の金髪がわずかに弛んでいた。
 きれいなひとだなあ、と呑気に考えながら、アルフォンスは照れを示すように少しだけ肩を縮めた。
「中尉がひとを撃つところを見たくないような気がして」
 リザが僅かに目を丸くした。こういう顔をするとちょっと若くなるなあと考えながら、いつもは見られない表情を引き出せたことにアルフォンスは満足する。
「それより、ありがとうございました」
「え?」
「ボクを助けようとしてくれたんでしょ?」
「ああ……」
 リザは瞳だけで苦笑する。
「失言だったわね。言わなければあなたが子供だなんて解らないのに」
「言っても信じてくれませんよ、多分。けど」
 咄嗟に「その子」と呼んでくれたことがとても嬉しかったのだ、とアルフォンスは無邪気に笑った。
「だけどボク、鎧ですから、あまり気にしないでください。……その、色々」
「……………」
 リザは暫しアルフォンスを見つめていたが、やがて薄く微笑んで、そうね、と答えた。そして背と、男を投げたときに汚れたらしい腕を取り出したハンカチで磨いてくれる。
 ああやっぱりきれいなひとだなあ、とアルフォンスは思う。
 凛々しくて、格好良くて、綺麗で、優しい。
 大人の女のひとだ。
 大佐がこのひとを好きなのも解るなあ、と考えながら、ふとそういえば彼女は大佐が好きなのだろうか、と疑問に思った。
 いつでも上司の横にいて彼のフォローとお守をしているリザだが、恋人はいないのだろうか。まあいたとしたらあの大佐に焼き殺されてしまいそうな気もしなくはないが、リザに嫌われてしまうのが怖くて手が出せないような気もする。
 こんなに優しいひとなのに、マスタング大佐とその部下は、みんな彼女を恐れているのだ。
「あの、中尉って恋人はいらっしゃるんですか?」
 唐突な問いに、リザはぱちぱちと瞬いた。
「いいえ、いないわ」
「あ、じゃあ好きなひとがいるとか」
 やっぱり大佐が好きなのか、と納得し掛けたアルフォンスに、リザは首を左右に振った。
「今はいないわ」
「昔はいたんですか?」
「まあ、人並みには恋人はいたわね。……それがどうかした?」
「え、いえ、どうってことではないんですけど……中尉みたいな綺麗なひとに恋人がいないなんて、ちょっと信じられないなって」
 リザはくす、と笑った。
「それはどうもありがとう。……仕事があるから、私は恋人とはあまり長続きしないのよ。付き合ったり別れたり、そういうことに時間を取られるのがもう面倒になってしまって」
「……お仕事してても恋はできるんじゃないですか?」
「恋は出来ても結婚はできないから。……さ、送って行くわ」
 ハンカチをしまい、リザはアルフォンスを促した。遠慮しようかと思いはしたが、この綺麗なひとともう少し話をしたくてアルフォンスは素直にその申し出を受けた。
「………さっきの話なんですけど」
 アルフォンスは黙って歩くリザと歩調を合わせながら言った。リザはいつもはきびきびと歩くこのひとにしてはゆったりと歩いているようだ。
「お仕事していると結婚ってできないんですか?」
「夫の世話を焼く暇も子供を産む暇もないのよ。そんな女と結婚しても相手も困るだろうし、私も気詰まりだわ」
「でも、家のことをやってくれる男のひとならいいんじゃないですか?」
 リザはアルフォンスを見上げた。その顔に苦笑が浮いている。
「主婦業は男性でもできるかもしれないけれど、子供を産むことは女性にしかできないもの」
「お仕事が大切なんですか……?」
「そうね………」
 リザはわずかに考えて、つ、と前を向いた。
「………大切ね。今の仕事が」
 
 男に産まれて来たかった、と、時折思うことがある。
 私の道は女であるより男の身であったほうが、遂行することは容易かったのではないか、と。
 
「でも、男性だったなら今ここにはいなかったかもしれないわね」
 大佐が女性好きだからですか、と間の抜けたことを聞きそうになって、アルフォンスは思わず口の辺りを押さえた。多分、そういうことではないのだ。
 凛々しくて格好良くて芯の強いこのひとの、手の掛かる男達を纏めているあの手腕は、多分女性としての資質による部分が大きいのだ。
 もしこのひとが男性だったなら、恐らくマスタング大佐の下になどいない、とアルフォンスは思った。
 権力欲や征服欲のようなものは正直アルフォンスにはよく解らない。
 誰よりも上に立ちたいとか誰かを屈服させたいとか、そう言った男性的な志向は田舎育ちの素朴な少年には備わらないせいだ、とアルフォンスは自己分析をしてみる。
 けれどこの女のひとは、きっと男であったなら、自らの能力を自らのために使うことを選ぶのだろう。誰かのためにその命を使うことを由とはせずに、自己のために命を燃やすのだろう。
 凛々しい、独りで立つひとだから。
 寄り添うものを必要としない、そんな強いひとだから。
 
 ああやっぱり大佐が好きなんじゃないか、と考え、アルフォンスはわずかに肩を落した。
 なんだ、相思相愛か。つまらない。
 
「アルフォンス君?」
 黙り込んでしまったアルフォンスをリザが伺うように見上げる。アルフォンスは慌てて何でもないですと首を振った。
「すみません、変なこと聞いちゃって」
「それは構わないけど……理由があるなら聞かせて欲しいわ」
「え、っと」
 大佐があなたを好きだから恋人がいるのか気になったのだけど、別に大佐のために聞きたかったわけじゃなくて、えーと。
 などと正直に言えるわけもなく、アルフォンスはあ、そうそう、と指を立てた。
「きれいなひとに恋人がいるかどうか気になるのなんて、当たり前のことでしょう?」
 リザは驚いたようにアルフォンスを見上げた。
「………プレイボーイのようなことを言うのね」
「え?」
「そういう言い方で女性を口説くのはまだちょっと早いわよ、アルフォンス君」
「口説く、って、え!? や、別にそういうわけじゃ」
「違うの?」
 くす、と笑ったリザの目が悪戯っぽく細められていたものだから、アルフォンスは思わず首を横に振ってしまった。
「ち、違いません。ごめんなさい」
「謝る必要はないわ」
 嫌ではないから、とまた微笑んだその横顔にない心臓がどきどきする気がした。嫌ではない、と言ったその言葉の意味を問い質したい気がした。
 しかし時間切れだった。
「ありがとうございました」
 宿の入り口で足を止め、アルフォンスは深々とお辞儀をした。リザはこちらこそ、と頭を下げる。
「犯人確保に協力してもらえて助かったわ。けれど、書類には残さないほうがいいのよね?」
「あ、はい、すみません」
 軍の記録になどできるだけ残らないに越したことはない。アルフォンスの存在はそれ自体が禁忌に触れる可能性があり、また軍内部の研究機関からすれば酷く興味深いものなのだ。
「明日は大佐はなにもなければずっと執務室に詰めているはずだから」
「えと……中尉は?」
 今この時間に仕事をしているのだから非番か明日も夜勤なのだろうけれど。
「私は午後からの出勤です。今日はあの男を捕らえるのに駆り出されてしまったから。思ったより早く片付いてよかったわ」
「あ、じゃあ、午後にお伺いします」
 ぱちぱち、と目を瞬かせて、リザはまた微笑んだ。
「アルフォンス君は立派なプレイボーイになるわね」
「た、大佐みたいな、ですか?」
 戸惑った声が可笑しかったのか、リザはふふ、と肩を揺らして笑った。
「いいえ、大佐よりもずっとタチの悪い男性になるわ」
「え!?」
「それじゃ、おやすみなさい、アルフォンス君」
「あ、あの、中尉」
「あまりエドワード君に心配を掛けてはダメよ。今日は本当にありがとう。じゃ、また明日」
 くるりと踵を返し、送って来たときとは裏腹にきびきびとした歩調で去って行く姿を眺め、アルフォンスはほ、と肩を落した。
「………ボクがプレイボーイ?」
 どうしてそうなるんだろう、と呟いた14歳には、いまひとつ自覚がないままだ。
 リザに真意を問い質したかったが、彼女もまだ仕事が残っている。今日は後は兄の寝顔を眺めて過ごすしかなさそうだ。
 兄さんの寝顔より中尉が仕事をしているところを眺めていたほうが楽しそうだなあ、と少し思いはしたけれど、彼女の邪魔になるのも嫌だったから、アルフォンスは大人しくそっと宿の扉を開き、兄の眠る部屋へとゆっくりと向かった。
 無自覚の少年の無い心臓は、今もまだ少しどきどきと速く打っている。

 
 
 
 
 

■2004/6/17

多分「美酒」とリンク。
リザさんは母性のひとだとは思うのですが家庭のひとではないですよねえ。リザさんとグレイシアさんが同い年とかで実は仲が良かったりしても嬉しい(妄想)。命を育むひとと奪うひと。女友達も萌えます。
ところで自分で書いておいてなんですがこのアルはリザさんが好きなんでしょうか。わたしアルはきれいな女のひとはみんな好きなんじゃないかと思っているんですが。しかも正直に誉める。自覚のない女ったらし。

あ、「アイマム」は「アイサー」の女性向けバージョンだそうです(マムは「mom」ではなく「ma'am」)。最初「イエッサ」にしてたんですが。「サー」って「旦那」だ、と気付いたので(笑)。「イエス・マム」はなんか語呂が悪かったので、行動を伴う了承、「(アイ)アイサー」から「アイマム」に。内容には関係ないことですが。

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