きれいに空になった部屋の、カーテンを取り去った剥き出しの窓から差し込んだ午後の光に足下を攫わせて、その軍服の男は背を向けて立っていた。斜め後ろから覗く耳に黒髪が掛かり(エドワードはその黒髪の細さを知っている)、片腕に黒いコートを無造作に抱え、もう片手をポケットに突っ込んだ姿勢のいい立ち姿。
微かに呑んだ息に気付いたのか、ふ、と男が顧みた。
写真を──と、差し出された一葉すら断って、敢えて記憶の中にだけ止めていたその顔が、些かの記憶違いも起こしていないことにエドワードは驚いた。自らの記憶力には自信があるが、それでも記憶というものは、時と共に改竄されてしまうものだというのに。
男は切れ長の眼を丸く瞠らせ(酷く年若く見える表情だ)、それからどこか酷く嬉しげに、破顔した。
「───鋼の?」
くしゃりと歪めた顔が笑みに見えていればいい、と思いながら男を見つめ、ああこれほどに小さなひとだったのかと溜息を吐いて瞼を伏せる。
「うん、オレ。……凄いね、解るんだ。こんなでっかくなったのに」
「変わらないよ、君は。………元気か?」
「うん。……アンタは?」
「見ての通りだ。中央への赴任が決まってね、もう荷物は片付けた」
「うん、それは知ってる」
「そうか」
「うん」
男の視線が右手に落ちた。エドワードは薬剤に荒れた指を男の視線の前に翳し、小さく笑う。
「アルも戻った」
「いつ?」
「アンタが……いなくなって、1年くらい、後かな」
「そうか、良かった」
男は小さく微笑んだ。エドワードは右手を伸ばしてその頬に触れる。視線の位置が近い。
「アンタ小さかったんだな」
「普通だよ。君が小さかったから大きく見えていただけだろう」
「ちっさい言うな!」
くつくつと男は喉を鳴らす。
「変わらないな、やはり。───嬉しいよ」
「いつかまたそう言って。オレがジジイになっても」
「勿論。君こそ私がジジイになってもちゃんと解るんだろうな」
「アンタ童顔だから変わらないし、間違えようがないだろ」
額を付き合わせてくつくつと笑い合い、エドワードはふいに外で響いたクラクションに視線を揺らした男の顔を両手で挟んで固定した。押し付けるように唇を重ねる。
「……大佐、気を付けて。ほんとに気を付けて。中央の、」
ふ、と、寄せ合っていた唇の合間に節榑立った指が差し込まれた。
「気持ちだけ、有難く受け取ろう」
「───次に会うときは絶対にジジイだからな! よぼよぼのジジイになってなきゃ許さねえ」
「お互い様だ」
ゆっくりと胸が押し遣られ、素直に、けれど名残惜しげに身を離すと肉の薄い掌が後頭部に回り、襟足を短く刈った金髪をくしゃりと握るように撫でた。
「髪を切ったんだな」
「……うん、邪魔だったから。変?」
「いや、似合うよ」
まるで幼子を見るように眩しげに微笑んで、男は囁くように続けた。
「会えて良かった」
「………大佐」
「見れないはずのものが見れて、嬉しいよ」
エドワードは息を呑む。ひりひりと、まるで嗚咽を呑んだかのように喉が痛んで、勝手に歪む顔が苦笑に細まる男の黒い眼に映り込んでいる。
「オ、レは……憶えてるまんまの、アンタに会えて、………嬉しかった」
そうか、と笑みを含めて囁いて、男は身を離すとかつ、と踵を鳴らしてエドワードを置いたまま歩き出す。振り返ることも出来ず、ただ身を固まらせてエドワードは喉を突きそうになる忠告や真実を、必死で胸の底に呑み込んだ。
「鋼の」
びくん、と身体が勝手に酷く震える。
「『こちら』の私は生きている。───そう簡単には死なんよ。だから」
───『そちら』の君も、幸せに生きろ。
次に会うときにはよぼよぼのジジイなんだろう、と笑った声に振り向くと、開かれた扉の向こうにはもう誰もいなかった。ふいに差し込む光が影となり、明度の落ちた空の寝室で、エドワードはただ立ち尽くしそろそろと唇へと手を当てる。はっと気付いて慌てて窓へ駆け寄り階下を見下ろすも、そこには車の影もない。
ゆっくりと、部屋を見渡す。
───この部屋が、未だ無人であると知って。
ほんの少しでも懐かしい気配に触れたいと訪ねて来たのだけれど。
「……期待以上の置き土産だよ、大佐」
小さく笑い、エドワードは床に散らばっていた契約書を拾い上げてびりびりと破り捨てた。
幸せに生きろ、と。
彼がそう言ってくれたから。
「……帰るか」
アルが待ってる、と呟いて、エドワードは無人の部屋を後にした。
「機嫌いいですね、大佐」
数ヶ月前、一度は拾い上げた錬金術師の幼い兄弟の命をその手から取りこぼしてからずっとどこかふさぎ込んだままだった上司の久々に見る穏やかな眼に、バックミラーを覗きながらハボックはくわえた煙草を揺らした。
「なんかいいことでも? へそくりでも見つけたとか」
「貴様と一緒にするな」
「んじゃ、彼女さんの写真がクローゼットの隙間から出て来たとか」
ちらり、と鏡越しに黒い眼が部下を見る。
「お前にしては鋭いな」
「へえ?」
ハボックは笑いながらハンドルを切った。
「そんな美人の写真ですか」
「美人ではないな。それに写真でもないが」
「手紙とか?」
「………そうだな、手紙のほうがまだ近いかもしれない」
窓枠に頬杖を突き、ロイはふと外へと視線を流してくつくつと喉を鳴らし、笑った。
「あちらの世界からの手紙かな」
「はあ? なんです、それ」
「お前は解らなくていい」
秘密だ、ともう一度笑って口元にその笑みをたゆらせたまま静かに眼を閉じた上司に、それ以上は続けずにハボックは軽く肩を竦め、小さく微笑んだ。