「兄さん、もう起きなよ。朝ご飯ー」 アルだ。そういえばさっきから何度か起こしにきていたような。 そんなことを考えながら、オレはもぞもぞと毛布を引き上げた。伸ばしっぱなしの長い金髪が頬に絡まる。 「……………もう、ちっと」 「何時だと思ってんのさ、母さんが待ってるってば! スープが冷ーめーるー!」 「さぶッ!?」 がばあっと毛布を引き剥がされ、どうやら全開にされているらしい窓から吹き込んだ朝の爽やかな風が、ぬくぬくと暖まっていた身体を急激に冷やした。一気に目が醒める。 「なにすんだアルッ!」 飛び起きがてら蹴りを出すと、「それはこっちのセリフっ!」と軽々躱されついでに襟首を掴まれてベッドから引き摺り落された。頭は目覚めたがまだちょっと寝ていた身体は受け身を取り損ね、ごち、と額で床を打つ。 「痛ェー……」 「朝から暴れないでよ、まったく。寝起き良い癖にねぼすけなんだから。何時まで起きてたのさ。そんなだからいつまで経っても背が伸びないんだよ」 「るっさいわ! 今は標準だ!」 額を撫でながら顔を上げると、オレより指一本分背の高いアルフォンスが童顔に笑顔を浮かべた。長い腕を差し伸べる。 「ほらー、いつまでも這いつくばってないで起きて!」 「誰のせいだ誰の!」 言いながら、普段子供たちの手を取り頭を撫でている手を握る。アルはオレよりも随分と高い優しい声であはは、と笑った。 「兄さんまた重くなった?」 「鍛えてるからなー」 「筋肉付け過ぎ」 「るさいわ」 「父さん、今日の夜の列車に乗って明日の夕方くらいには帰るって」 唐突な報告にオレは大欠伸をしながらぼりぼりと首筋を掻く。 「あ、そう」 「またそんな気のない返事」 「オレだって明後日には中央に戻るんだぞ。どうせほとんど顔合わせないっつーの」 ふ、とアルの綺麗な額が曇る。 「兄さん……、そろそろ国家錬金術師の資格、返さない?」 「んー……、でも思う存分研究出来るしなあ」 「だってまた戦争が始まりそうだって言うし……母さんも心配してる」 リゼンブールで教職に就いているアルには中央の情勢は積極的に集めなくては届かない。多分オレを心配して、わざわざ情報収集しているのだろう。 オレはぽんとアルの頭を叩いた。 「だあいじょーぶだって。オレらが投入されることはねぇよ、しばらくな」 「…………けど」 「そう長く続けるつもりもねぇからさ、その間母さん頼むぞ。あいつはどうせほとんどうちにいないんだし」 「……うん……」 とても二十歳過ぎとは思えない心細げな顔をするアルにもう一度笑って見せて、オレは食堂へと踏み込んだ。 長い栗色の髪の後ろ姿。 「あら、ようやく起きたのね、エド」 振り向く横顔は逆光でよく見えない。 オレは何故か戸惑い、目を細めた。 「………おはよう、母さん」 「おはよう、おねぼうさん。さあ、座って、アルも」 スープの皿を乗せたトレイを持ち、テーブルへと歩む姿。 変わりない、 ───笑顔。 アルに、良く似た。 「おはよう、わたしの息子たち」 さえずるような言葉。 優しい唇が、くすぐるように額におはようのキスをくれた。 ああ、これは夢だ。 オレは思い切り飛び起きた。荒い息がときどき引き攣れたように詰まる。 悪夢だ。 まごうことなき悪夢だ。 あのときの夢なら何度も見た。 汗だくで飛び起き、アルフォンスがいないことを確認して胸を撫で下ろすなんてのはしょっちゅうだ。 ああでも、こんな。 あのひとの綺麗な笑顔を。 生き生きとしたアルの姿を。 平和な家族と未来を見るなんて。 なんて甘美な、まるで悪魔のような夢。 こちらが夢だと信じたくなるような、あちら側へと囁く、悪魔の見せる夢。 ようやく落ち着いて来た息を震えを堪えて大きく吐き、額の汗を拭ってオレは部屋を見回した。いつも通り使われていない隣のベッドと、誰もいない部屋。トランクとそれに掛けられたオレのコートがぽつんと目に付く。 「…………アル?」 呼び掛けるが、当然返事はない。 オレは大きく満月が浮かぶ窓へと目をやった。星は月明かりに負けて無い。 何気なく立ち上がり、下の広場を覗く。満月の明るい光に噴水の水がきらきらと光っている。アルなら綺麗だね、とでも言いそうだ。ごく当たり前の現象なんだが。 肉の身体を失くしたオレの弟は、感覚がないせいなのかやたらと情緒的な言葉を口にする。 広場を眺めていたオレは、噴水に向い合ったベンチに誰かが座っていることに気付いた。大きな身体を月明かりが縁取っている。 アルだ。 なにしてんだ、あいつ。 オレはズボンを履いてブーツに足を突っ込み、部屋を出た。 階段を降りて小さな明かりの灯されたカウンターを抜け、宿を後にしてまったくこちらに気付いていない様子のアルフォンスへと歩み寄る。 珍しい、とオレは内心呟いた。 鎧の身体になってから、アルは妙に勘がよくなった。いつもなら背後から近付いても、大抵こちらが声を掛ける前に気付いて振り向くのだが。 スパイクの付いたアルの肩口に、小さな蛾がひらひらと舞っている。鱗粉が光っているように見えるのは気のせいだろう、さすがに月明かりはそこまで強くない。 「アル?」 声を掛ける。 アルフォンスは僅かな間を置き、ふ、と俯き加減でいた頭を上げた。 「あ、兄さん」 視線を巡らせてオレを確認し、アルは首を竦めるようにしてへへ、と照れたような笑い声を出した。 「ごめん、気付かなかった」 「……考えごとか?」 オレたちには考えることや思うことはいくらでもある。足を止めている暇はないけれど、睡眠を必要としないアルには、こうやって街も図書館もオレも眠っている間、それこそいくらでも思いを馳せる時間がある。 ゆっくりと近付いたオレがアルの隣に座ると、アルを慕い愛を囁いているかのようだった小さな金色の蛾は不粋者を嫌ってひらひらと月の方へと飛んで行ってしまった。オレはふん、と小さく鼻を鳴らす。そのオレにアルはただ僅かに首を傾げただけだった。 まあ、どうしたの、と訊かれても困るが。 「何考えてたんだ?」 「いや、考えてたっていうか」 アルは月を見上げる。赤い目がいつもより明るく光っているように見えるのは気のせいだ。あの目はアルの感情にはさほど関わりなく、いつも不吉に爛々と輝いている。 「夢を見てたみたいだ」 「って、お前眠れないだろうに」 「うん、だから、白昼夢みたいなカンジなのかなあ」 まあ夜だけど、と言ってアルは幸せそうな甘い声で続けた。 「いい夢見たなあ。兄さんも出てきたよ」 「へえ………どんな夢だよ」 え、と呟きアルは指で頬を掻く仕種を見せた。 「なんか恥ずかしいなあ」 オレは意地悪くにやりと笑う。 「なんだよ、言えって」 「でも」 「言わねーと背中拭いてやんねーぞ?」 錆び止めにオイルを塗るアルは痛覚がないせいか普通の人間なら届かない場所でも自分で手入れしてしまうが、それでも背中の真ん中なんかはさすがに無理だ。鎧の関節の稼動範囲外だからだ。 手入れするのはもちろん同行者のオレなわけだが、それを持ち出すとアルは「酷いなあ」とむくれた、ようだった。 「せっかくいい気分だったのに」 「だから言えって」 「言いたくなくなったよ」 「なんだよ、いいじゃんか。いい気分だったんだろ、オレにも分けろ」 「うわ、凄い自己中」 分ーけーろー、と騒いでじゃれつくと、夜中だから騒がないでよ、と慌てたアルはきょろきょろと周囲を見回し、どの家の窓にも明かりが灯らないのを確認してからはあ、と溜息のような声を洩らした。 「しょうがないなあ、兄さんは」 アルは再び月を見上げる。 「あのね、昔のボクらの家で、ボクと兄さんと母さんがいて、父さんもちゃんと帰って来て、そうやって幸せに暮らしてる夢見たんだ」 オレは僅かに息を詰めた。アルは気付かず甘ったるい声で続ける。 「幸せだったなあ。……父さんが出て行ってなくて、母さんが生きてたら、夢じゃなかったのかもしれないけど……」 「………アル」 「あ、兄さんもね、ちゃんと背が伸びてたよ? ボクのほうがちょっと高かったけど」 どこか自慢げなアルフォンスに、オレははは、と小さく笑った。 「………兄さん?」 アルフォンスは不思議そうに首を傾げる。この無邪気な仕種は作られたものだろうか。けれどオレはこいつのこの仕種に救われる。 絶望しない弟に、幾度も幾度も救われる。 「………オレの手足とお前の身体は同じとこにいて、繋がってんのかな」 「え?」 「いや」 なんでもない、と呟いて、オレはベンチに凭れて夜空を仰いだ。 身体を取り戻したら二度と感じることはないだろう、境地。 オレたちの肉体と精神と魂は、見えないところで繋がっている。 巨大な月の中、小さな金色の蛾が黒い影のように舞っていた。 まるで邪魔者がアルフォンスの横からいなくなるのを待つように。 いなくなってなどやるものか、と口の中で呟いて、オレは瞼を閉ざした。 こんなところで寝たら風邪引くよ、と心配げに言うアルに、もうちっと、と夢のように呟いて。
■2004/4/18 エルリック兄弟は対極ではなくどちらかといえば同じ種類の人間なんですが、同種でありながら極というか、そういうのが凄い好きですわたし。どちらも動ですが、正はエド、負はアル。思考が深いのがエド、闇が深いのがアル。 アルの闇と狂気はとても深いと妄想。怖いですよあの子。気が狂ってもおかしくない境遇なのに狂わないというか非常に軽くて上っ面。そこが怖い。 そういう話も書きたいなあ。そのうち。 ところでどちらの夢なのかと言えば、勿論兄の夢なのです。
■2004/4/18
エルリック兄弟は対極ではなくどちらかといえば同じ種類の人間なんですが、同種でありながら極というか、そういうのが凄い好きですわたし。どちらも動ですが、正はエド、負はアル。思考が深いのがエド、闇が深いのがアル。 アルの闇と狂気はとても深いと妄想。怖いですよあの子。気が狂ってもおかしくない境遇なのに狂わないというか非常に軽くて上っ面。そこが怖い。 そういう話も書きたいなあ。そのうち。
ところでどちらの夢なのかと言えば、勿論兄の夢なのです。
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