ばきばきと音を立てて構築物質が変化していく。やがて白い腕になり足になり背になり頬になり顔が形作られて金髪に包まれた頭が現れ、ばちん、と短髪の先が最後の火花を散らし子供はがくんと膝を突いた。
「アル!!」
 兄さんの機械鎧の左足ががしゃんと鳴る。兄さんは駆け寄って、ままならない息に喘ぐ裸の子供にコートを被せた。子供が顔を上げる。
「アルフォンス!」
「…………え、あの」
 抱き締める兄さんに、子供は荒い息の下で途切れ途切れに尋ねた。
「え、と、……どなたですか?」
 泣き笑いの兄さんが、そのままの顔で凍り付く。
「あの、兄さん、ボクの兄さんは? 知りませんか? さっきまで、ボク、一緒に」
「────アルフォンス!?」
 兄さんの驚愕の声。青ざめた子供の怪訝な顔。
 
 ボクはがしゃん、と膝を折り、その場にへたり込んでしまった。
 
 ああ、兄さん。
 
 ボクはまだここにいる。
 
 
 
 
 
 兄さんの取り戻した小さなアルフォンスの記憶は10才のあの日、あの時で停止していた。
 兄さんと軍部の皆さんの説明にも半信半疑でいた小さなアルフォンスは、リゼンブールから駆け付けてくれたウィンリィやダブリスからやってきた師匠とシグさんの説明で、ようやくあれから15年以上の月日が経っていることを信じたようだった。
 ようだった、というのは、その間ボクはずっと中央のボクと兄さんの家の屋根裏で座り込んでいたからで、その様子を話してくれたのは師匠だからだ。
 兄さんはボクをこの屋根裏へ押し込めて、小さなアルに掛かり切りだ。軍部のひとも会いには来ない。多分ウィンリィはボクがまだここにいることなんて知りもしない。
 本当は兄さんは師匠にもボクのことは秘密にしたかったのだと思うけど、小さなアルフォンスを取り戻すためにボクらは師匠にはとてもお世話になっていたからただでさえ立場が弱いのにますます頭が上がらなくなっていて、到底黙り通すことなんて出来なかったんだろう。
 だから、師匠とシグさんだけは、中央にいる間、小さなアルや兄さんといるよりも長く、ボクの話し相手になってくれた。
「アル。一緒にダブリスへ行かないか? うちに住みなさい」
 ここはお前には辛いだろう。
 師匠はそう言ってくれたけど、ボクは笑ってかぶりを振った。
 多分師匠は兄さんに物凄く怒っていて、ボクには話さなかったけど五発や十発殴ることくらいはしていて、それでも小さなアルフォンスを偽物だと糾弾することは出来なくて、けれどこのボクこそが偽物だと思うことも出来なくて、それでそんな風に言ってくれたのだとは思うんだけど。
 渋る師匠に、ここにいるのが嫌になったら訪ねて行きますと約束して、そうじゃなくても落ち着いたら必ず遊びに行きますとも約束して、ボクは師匠たちを駅まで見送ることもなく、ただこの屋根裏で、二人と握手をして抱き締めてもらって、そうして別れた。
 そしてもう一年、会っていない。
 ボクは一度もこの屋根裏部屋から出ていない。
 
「アール」
 
 ひょこ、と顔を覗かせた人のよさそうな顔をした少年に、ボクはがしゃりと顔を向けた。
「やあ、アルフォンス。一週間振り、くらいかな?」
「毎日来たいんだけどね、兄さんがうるさくて」
 オイル缶とボロ布を持って現れた少年は、ふう、と大人びた溜息を吐いて肩を竦めた。
「兄さんてあんなに過保護なひとだったかなあ」
「キミがまだ小さいからだよ。兄さんももう27才だもの。キミの歳から見たら若い父親くらいじゃない?」
「だからって、アルフォンスだってボクなのに。ボクがボクに会うのにどうしてイヤな顔されなきゃならないんだろ」
 ボクは少し笑って別のことを訊いた。
「また背が伸びた?」
「一週間じゃ伸びないよ」
 あはは、と笑って共にボクを磨く小さなアルフォンスは、本当にまだ小さい。
 兄さんのことを豆粒だと思っていたけどボクも豆粒だったんだなあ、と感慨深く思いながら、ボクはこの一週間のアルフォンスの話に耳を傾ける。
 通い始めた大学の年上の友達と釣りに出掛けたこと、兄さんがどうしてもお風呂に毎日入ってくれないこと、家政婦さんのシチューがどう考えても薄味過ぎること、今度ラッシュバレーにウィンリィと行くこと、ついでに足を伸ばしてダブリスにも寄ること、近所の野良猫が子猫を産んだこと、教会で会った女の子がとても可愛かったこと、また怖い夢を見たこと………。
 
 小さなアルは夢を見る。それはかつて兄さんが見ていた夢と同じようでいて、違う。
 小さなアルは兄さんがボクのために片腕を犠牲にしてくれたことを知らない。
 小さなアルはボクほど何もかも兄さんの言う通り、と頷くことをしない。
 小さなアルは母さんのあの酷い姿を見ていない。
 小さなアルは真理をすっかり忘れている。
 
 小さなアルは、今のボクが彼と違うものになってしまうための要素を何も得ていない。
 
 彼は自らの身体が失われて行く様を夢に見、憶えていない真理を夢に見、その恐怖に震えて眼醒める。
 だからボクは思うのだ。
 ボクは、小さなアルの魂の一部が剥離したものなのではないかと。このアルフォンスから、ボクはボクでいることで某かの大切なものを奪ってしまっているのではないかと。
 だからボクは、たくさんの人間らしい何かが欠けてしまっているのではないかと。
 
 けれど同時に、こうも思うのだ。
 
 ボクは兄さんの言葉に頷く。そうだね、兄さんの言う通り。
 小さなアルは頷かない。
 だからボクは、やっぱり兄さんの都合のいいように造られた、模造品の魂なのかもしれないと。
 
 でも不思議なことに、そう考えてももうそれほど悲しくなんかない。
 
 多分、人間らしいどこかがすっかり薄れて欠けてしまっているのだろう。だってボクは、生身の身体でいた年数よりもずっと長い間、この鎧の姿で生きている。
 
「ねえ、アル。ここから出たくないの?」
 最初に編入した中学校と違って大学の講議は楽しくて仕方がない、という話をしていたアルフォンスが、ふいにそう言った。ボクは首を傾げて「んー」と呟く。
「別に、平気だよ。アルも来てくれるし、窓もあるから空も見えるし、この屋根裏、本が山ほどあるしね」
「でも、ボクなら耐えられないよ、こんな」
「アルフォンスは人間だからねえ。ほら、ボク、鎧だから」
 アルフォンスは戸惑ったように眉を寄せて俯いた。
「………アルだって人間だ」
 その口調が兄さんとそっくりで、ボクは思わず笑ってしまう。アルフォンスは何笑ってんだよー、と迫力のない目付きで睨んだ。その言い方がまた兄さんとそっくりで、ボクはまた笑いながらごめん、と謝る。
「でもほんとに、平気だよ。………もし耐えられなくなったら、遠慮せずに出て行くから気にしないで。別に鍵が掛かってるわけでもないんだし」
 もし鍵が掛かっていても、錬金術師のボクには無意味だし。
 アルフォンスはどことなく不満そうな、不安そうな眼でボクを見上げた。小さな手がオイルで真っ黒だ。
「………出て行くときはちゃんと教えてね」
「勿論」
「絶対だよ。黙っていなくなったりしないで」
 アルフォンスはボロ布を置き、ボクにぎゅ、と抱きついた。オイル付いちゃうよ、と嗜めてみても平気だと言って離れない。
「……アルが出て行くとき、ボクも一緒に行こうかなあ……」
「ダメだよ」
 ボクはアルフォンスの短い金髪をゆっくりと撫でる。
「兄さんが寂しがるよ」
「兄さんなんか」
 拗ねた口調に声に出さずに鎧の中で笑う。
「ケンカでもした?」
 小さなアルはううん、と首を振り、小さく溜息を吐いた。
「兄さんの言ってること、ボク、よく解らないんだ。兄さんだってボクを生き返らせてくれたのに、母さんを生き返らせるのは絶対にダメだって言うんだ。人体錬成理論も欠片も教えてくれないし、それどころかボクが錬金術の研究してるとイヤな顔するんだもん」
 アルなら錬金術のこと、教えてくれるでしょう?
 そう言って顔を上げたアルフォンスに、ボクは困って首を傾げた。兄さんが彼に錬金術を禁止したがっているなんて知らなかった。
 
 でも、兄さんがそうしたいのなら。
 
「ダメだよ。ボクはキミに何も教えてあげられない」
「どうして! アルはボクよりずっと凄い錬金術師なんでしょ?」
「それはね。でもキミも自力でボク程度の力なら付けることができるよ、いずれね。だからどうしても錬金術の腕を磨きたいのなら、頑張って勉強して。でも人体錬成だけはダメ。死んだひとは死んだまま。それが摂理。そのうち天国で会えるから」
「…………どうして? 人体錬成が出来れば、アルに身体を造ってあげることだって出来るんだよ」
 ボクは小さく笑い、囁いた。
「あのねえ、アルフォンス。ボクはたしかにアルフォンスではあるけれど、もう人間じゃあないんだよ」
 
 ボクの魂は冷たい鎧に馴染んでしまって染みてしまってもうどうしたって落ちてはくれないんだよ。
 ボクの心は暗い鉄の器に馴染んでしまって溶けてしまってもうどうしたって光の元へは出て行けないんだよ。
 肉の器はボクにはきっと熱過ぎる。
 
「だからねえ、アルフォンス。キミは兄さんの弟でいてあげて」
 
 最愛の弟で。
 唯一の肉親で。
 何にも替え難いあのひとの全てで。
 
 アルフォンスはくしゃりと顔を歪めた。ああどうしてこの子は、こんなボクにこんなにも懐いてくれるのだろう。
 ボクはこれほど優しい子供だったろうか。もっと我侭で、もっと残酷な、もっともっと子供らしくて無知で無茶な、そんな生き物だったと思っていたのに。
 
 けれど知っている。
 小さなアルの慈悲は、ボクが兄さんに捨てられた、もういらないものだから向けられているものなのだ。
 もし兄さんがアルフォンスを呼ぶように、愛しげに甘く、かつてのようにボクの名を呼んだなら、この優しく澄んだ眼は嫉妬と怒りに燃えるだろう。
 だってボクは兄さんをとても愛してた。
 小さなアルフォンスは、兄さんをとても愛してる。
 
「アール! どこだ!? メシだぞー!」
 アルフォンスがはっと振り向いた。ボクはまだボクに抱きついたままの細い腕をそっと剥がす。
「ほら、兄さんが呼んでる。行きなよ」
「でも、まだ手入れが途中なのに」
「後は自分で出来るよ。外を歩き回るわけじゃないんだから、そんなにしょっちゅう磨かなくても錆びたりしないから、大丈夫」
 小さなアルは申し訳なさそうにボクを見て、じゃあまた明日来るよ、と言って立ち上がった。
「アール!」
「今行くー!」
 アルフォンスはボクを顧みて、じゃあまたね、と手を振り慌てて屋根裏を出て行った。
 ばたばたと狭い階段を駆け降りて行く音がする。どたん、ばたん、と床に飛び下りた音がして、兄さんが何やら小言を言っている声が切れ切れに聞こえた。
 ボクは途中だったオイル塗りを再開し、丁寧に時間を掛けて自分を磨いた。それからオイル缶とボロ布を脇へ避けて大きなソファに寄り掛かり、手近にあった本を広げる。
 こんなソファや大量の本は、一年前まではなかった。ボクがここに閉じ込められてから、兄さんが運んで来てくれたのだ。
 
 ボクのために。
 
 ちょくちょく新しい本が増えて行くから、この広い屋根裏の半分はもう本で埋まっている。
 兄さんは自分がまだ読んでいない本まで置いて行く。中には吃驚するような希少本まであって、知識を蓄えたところで使い道もないのになあ、と思いながらもボクは毎日それらを貪った。
 今読んでいるものも、以前どうしても読みたくて仕方がなかったのに、国立中央図書館でも見つからなかった超が三つ付くくらいの希少本だ。どうやって見つけて来たのかは知らないけれど、ボクが読みたがっていたことを憶えていてくれたのだろう。
 アルフォンスに言うわけにはいかないけれど、兄さんはボクをとても大切にしてくれる。
 
 夜半。
 
 外は静かだ。アルフォンスはまた悪夢にうなされているのだろうか。世の中の大半の人はもう眠っているのだろうか。軍部のひとたちはまだ仕事をしているだろうか。ウィンリィはまた徹夜仕事だろうか。師匠は身体を休めている頃だろうか。
 そんなことを考えながら、ボクは本をそっと閉じて聴覚に集中した。微かに階段の軋む音。
 いつも通りの時間。
 ゆっくりと、きちんと油の注してある扉が軋みもなく開いた。手に下げられたランプが淡い光を運んで来る。
 
 兄さん。
 
 ボクは言葉に出さずに囁いた。
 兄さんはじっとボクを見つめ、やはり何も言わずにそっと微笑む。
 
 ごめんな、アル。もうちょっと我慢してくれな。
 うん、大丈夫、解ってる。
 ちっこいアルがもうちょっと大人になったら、そしたら出してやるからな。
 大丈夫だよ。
 ごめんな。
 平気だったら。ボク、鎧なんだから。
 アル。
 アルフォンスを大事にしてあげて。
 アル。
 幸せにしてあげて。
 アル。
 母さんが欲しいなんて言い出せなくなるくらい、もう充分だって思えるくらい、誰より、世界中の誰より。
 
 兄さんがボクの面に触れた。眼の縁をなぞる機械鎧の指。
 ボクは声を出さずに笑う。兄さんに震えが伝わる。
 
 『ボク』を幸せにしてあげて。
 
 兄さんの両手が持ち上がり、ボクの頭を抱き寄せた。
 
「………アル。オレのアルフォンス」
 
 ボクは再び声を出さずに笑った。
 
 仮に、兄さんがボクを独り占めしたいだけなんだとしても。
 
 うん。
 兄さんの、言う通り。
 
 
 
 
 ボクはもう、世界中の誰より幸せ。

 
 
 
 
 

■2004/5/20
おかあさんと息子とおとうさんみたいになりました。か、家族愛? とにかくアルばかり出したかっただけなのに。
あ。無論兄は鎧アルにも子アルにもめろめろで。

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