部下の前では懐の深いトップ、家庭では頼もしく優しい夫であり父。
 時折覗かせる鋭い刃の視線にその獰猛で非情な一面を見え隠れさせながら、それでも大抵のことは笑って流す、一見度量の広い男。
 ロイはぼんやりと短い訓示を垂れる軍の最高権力者を眺めた。にこやかなその上っ面の下に、常に怒りが滾っていることに気付いたのはいつだったろう。
 東の地で、都市の殱滅を済ませ直々に勲章を受けたときだったろうか。
 
 ───それまでは知らなかったのだ。
 
(子供だった)
 では今は大人なのだろうか。
 あのひとの上っ面の下を、わずかながらに覗けるくらいには。
(それもまた未熟者の錯覚なのかもしれないが)
 しかし成熟するのを待つわけにはいかない。未熟な論理でこなしていかなければならない様々な、
「マスタング中佐。大総統がお呼びだ。執務室へ行け」
 唐突に掛けられた声とその命令の内容に、ロイはわずかに絶語した。わざわざ人前で呼びつけさせるなど、いつもの彼では有り得ないことだった。
「マスタング中佐、何をぼんやりしている。さっさとしろ。お待たせするな」
「は」
 慌てて思考を掻き集め、ロイは名を知らない准将に敬礼をして踵を返した。足早に廊下へ向かう途中、嫉妬と悪意に満ちた囁きがさわさわと耳に届いたが、聞こえないふりをする。
(馬鹿な連中だ)
 ロイは無表情の下で嗤った。
(『お気に入り』の意味が違うのに)
 執務室の扉の前へ立ち敬礼をし武器を所持していないかを改めたのち、開いた扉が閉じる前に護衛は姿を消す。いつもの通りだ。彼は何を察しているだろう、とほんの少し不安に思い、それから考えても詮のないことだ、と小さく溜息をついてその思考を追い払う。
「愛しい恋人の顔を見た途端に溜息とはつれないな、マスタング君」
「あなたの顔を見たせいではありませんよ。それに誰が愛しい恋人なんです」
 愛人の間違いでしょう、と呟くと恋人は笑みをさらに深めて両腕を広げ、ロイを緩く抱きしめた。
「我が愛しの君は機嫌が悪いようだ」
「当たり前です! あんな大勢の前で呼びつけて……嫉妬されるだけならともかく、よからぬ噂でも立てられたらどうなさるおつもりです」
「それは噂ではなく事実だということにはならんのかね」
「奥様が悲しまれますよ」
 甘く拗ねたような囁く声に冷ややかに返すと、興醒めしたように腕が離れた。ロイは無言で年上の恋人を見つめる。恋人は隻眼を細め、ロイの眼を覗いた。
「君はなかなか天の邪鬼だ。自分で突き放しておいて手が離れると寂しがる」
 なかなか卑怯だとは思わんか、と笑う恋人に眉を顰め、何のことですか、とロイは返した。しかしその言葉はいかにも弱く、その心細さを滲ませた声をどうにか撤回しようとわずかに思案するが解決策があるわけもなく、結局再び溜息をつく。
「私の負けです、閣下。さっさと用件を済ませてください」
「そんな色気のないことを言うものではないよ」
 まあ座りたまえ、とソファに導かれ、ロイは素直に腰を下ろした。隣へと座った体温にふと安堵して寄り掛かると、小さく喉を鳴らして笑われた。
「笑わないでください」
「かわいいものだと思ってね」
「私も心細くなることくらいはあります」
 ふむ、と呟いた恋人の無骨で大きな掌が、ロイの頭をゆっくりと撫でる。黒髪に包まれる頭蓋骨を一掴みにしてしまえそうな掌はロイにはとうとう備わらなかったもので、彼のこの大きな身体に時折羨望を覚え、その憧れをさまざまな感情と取り違えているのではないかと思うこともある。
「……半年か」
「え?」
「イシュヴァールからね」
 ああ、とロイは呟く。途端鼻孔と眉間の間にきな臭い火薬の臭いと不思議と甘い油の臭いが弾けたように広がり、それに眉を顰めると何をどう察したものか、恋人が両腕を伸ばしてその胸にロイを抱いた。ロイは瞬く。
「………どうなさいました?」
「君は強靭な若者だが」
 赤ん坊をあやすように小さくゆっくりとロイをゆすりながら、恋人は耳元で低く囁いた。
「そろそろ疲れが出る頃だと思ってね」
「………疲れ、ですか」
「東方へ行かないか、マスタング君」
「唐突ですね」
 ロイはふ、と嘆息して恋人の胸に頭を寄せ、顔を見ずにいいですよ、と答えた。
「詳細は聞かずとも構わないのかね?」
「後で書面にしてください。行きますよ、イーストシティだろうがユースウェルだろうが、───イシュヴァールだろうが」
「………一日二日の話ではないよ」
「ええ。出張でも転勤でも左遷でも、あなたのお好きに。………そもそも人事となればそれは辞令でしょう。私に断る権利があるとは思いませんが」
 従うか軍を辞めるかです、とはっきりと返したロイは黒髪を乱すように掻き抱かれ、その唐突な抱擁に瞬いた。頬を押し付けている胸も頭を抱く腕も震えている。
 笑っているのだ。
「………何がおかしいんです……」
「君は何か勘違いをしているな」
 何がですか、とふてくされたように呟くロイの髪へ、恋人はくつくつと笑いながら口付けた。
「東方司令部の副司令へ任命しようと思ってね」
「─────、……え?」
「中央では頭角を顕せば顕すほど叩かれる。君ならそれでもやってはゆけるのだろうが、私がね、つい手を差し伸べてしまいそうになるのでね」
 
 それは君の望むところではないのだろう?
 
 丸く瞠った眼で見上げてくるロイに、恋人はにっこりと笑う。
「東部はまだ荒れ放題の土地だ。内戦の爪跡は色濃い。無論我々軍人への風当たりも強い。それを、治めてきなさい。───出来るだろう? マスタング君」
 ロイは大きく瞬き、返事の代わりに何故、と尋ねた。
「何故とは?」
「だってそれは、……功績を上げろと、そうおっしゃっているのでしょう? 何故です。何故そこまで」
「君を傍へ置きたいからだ、と言って、君は信用するのかね」
「……………」
 恋人はゆるゆるとロイの頬を撫でた。
「さっさと将軍にでもなって、私の右腕になっておくれ、マスタング君」
「………大総統閣下の傍らに立つ頃には、あなたはとっくに引退しているんじゃないですか」
「なかなか辛辣だな。信用されていないのかね」
「事実を述べたまでです」
 
 それに、私がなりたいのはあなたの右腕ではなく。
 
 隻眼に覗かれているとその本音を見抜かれそうな気がして、ロイは眼を伏せた。恋人はその瞼を指で辿り、微笑む。
「君は複雑な青年だ」
「………単純で、簡単な未熟者ですよ」
「その薄い身体にどれだけの心を押し詰めているのかな」
 そしてそのどれもが本心であるのだろう。
「……人間というのは、兎角面白い生き物だ」
 低く呟かれた言葉がおかしくて、ロイは瞼を上げ微笑を浮かべる恋人の眼を見つめた。
「まるであなたが人間ではないかのような言い方ですね」
 恋人の眼は相変わらず怒りを滾らせて、灼き尽くすほどの強さで暗い輝きを見せている。この明度の低い強光に、気付いている者がどれだけいるのだろう。
 恋人は怒りを瞳に沈めたまま、いつものようにしわを深く刻んで笑った。
「私は人間だよ、君」
「解っていますよ。だからこそ私は、」
 ふと沈黙し、続きを口にする代わりにロイは肩を抱く手をとって恭しくその掌に口付けた。恋人はそれに眼を細め、ロイの頬に手を添え瞬く青年の唇へと触れるだけの口付けを落とす。途端みるみる紅潮した青年を、恋人は楽しげに見つめた。
「激しい口付けもベッドの所作もお手のものの癖に、相変わらずこういう接吻は苦手のようだね、君は」
「………慣れていないもので」
「嘘をつきなさい。どこへ行っても君の恋人と会うと部下たちが噂しているよ、色男」
「そ……そんなことは」
「隠さんでもいいだろう」
 ロイはまだ耳を薄く染めたまま恋人を窺った。
「………嫌ですか?」
「うん?」
「その、私が女性と付き合うのは、気になりますか?」
 恋人はきょとんとロイを見つめ、それからふむ、と呟き顎を撫でる。
「妻のいる私がとやかく言えるものではないね」
「あなたはいいんです。……私はそれで構わない、ので」
「ふむ。……では私もそれで構わないよ、マスタング君」
「本当ですか」
「疑り深いな」
「あなたと私では立場が違います。お嫌でしたら、はっきりとそう」
「君は私を愛しているのだろう」
 ぎくり、と言うように身を竦めたロイは、呆れたように、信じられないものでも見たかのように恋人を凝視し、やがてゆるゆると息を吐いた。
「よくもそんな、臆面のないことを」
「事実だろう」
 恋人はにこにこと笑う。
「君が私を愛しているから、だから構わないよ、些細な浮気などはね」
「さすが、懐が広くていらっしゃる」
「おや、また拗ねているね、マスタング君。独占して欲しいのならそう言えばいいものを」
「私は縛られることは好きではありません」
「そうだね、それも本心なのだろう」
 再び子供にするようにロイの頭をゆっくりと撫で、恋人は隻眼を細めた。
「………兎角、人間というものは面白い生き物だ」
 繰り返された言葉に顔を上げ隻眼を覗き、ロイはその本心を見ようと試みた。
 しかし瞳には世界中に憤怒するかのような暗光が滾るばかりでそれ以上の色を見出すことはできず、ロイは小さく唇を噛む。
 
 彼の怒りの範疇に、恐らく自分もいるのだと。
 
 そのことがとても寂しくて、同時に酷く快感だった。
 怒りに灼かれる感覚は、焔の熱に限りなく似ていた。

 
 
 
 
 

■2004/12/04
受けくさい増田に失笑しよう企画。ギャグですよ!(しつこい)
ていうか色々と有り得ないと思った。

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