微かに上下するこちらへ向けられている裸の背は、その小ささに不釣り合いな筋肉の筋が浮く。
 特に顕著なのは金属の被せられた右肩で、無機の重さがどれだけこの小さな身体を苛んでいるのかが見てとれるほどだ。
 そういえば左足の腿も右足より二回りも太いな、とつらつらと考えながら、ロイは組んだ腕の上に顎を乗せベッドに俯せた。頭を殴られたというのに血圧の上がる行為に及んだせいか、えらく頭痛がする。士官学校時代は殴られ慣れていたとはいえ(学生や兵卒は誰しもそうだ)これだけ思い切り頭部を殴られたのは久々だ。
 
 まったく本当に明日なんと説明すればいいんだ。わけは言えないなどと言ったら絶対に中尉に叱られる。
 
 ああもう今日はついていない。
 有能な副官は先日からの風邪をこじらせ高熱で帰ってしまうし(というか帰らせた。出来れば明日も休んで欲しい。いや明日と言わず2、3日)お陰で仕事は忙しいし彼女の代わりに一日ついて歩いたのはヤニ臭い煙突男だしジジィの自慢話は長いし子供が待つからと酒も控えて慌てて帰れば猫は死んでいるし。
 子供は癇癪を起こすし。
 殴るし。
 することはするし。
 明日も仕事だし。
 
 わけが解らない。どんな厄日だ。
 
 けれど一番わけが解らないのは、子供の熱に浮かされた戯言に結構本気で傷付いている自分だ。
(庇護欲を満たしてくれてるんじゃなかったのか?)
 恨みがましく呟いて、ロイは頭を抱えて溜息を吐いた。
(ったく……弟をだしにするなよ、鋼の)
 後で悔やむのはエドワードなのだし、なによりアルフォンスが気の毒だ。
 あんまり馬鹿馬鹿しいかまを掛けるものだからつい本気で怒ってしまった。自分がアルフォンスに嫉妬するなど有り得ないと解らないのだろうかこの馬鹿は。
 というかだしにするなら他にいなかったのか誰か。可愛い女の子とかなにかその辺が。
(いないのか)
 不憫な奴だ。彼女どころか友達すらいなそうだ。
(俺のせいか)
 少なくとも女の子に関しては(としておいてやる)。
 
 エドワードはもっと視野を広げるべきだ、とロイは思う。だからさっさと女性を覚えて旅先で会った可愛い女の子とでもひとときの恋を楽しんで、そうしてきちんとまともに成長してくれたほうが安心だ。
 少なくとも同性の自分に理性のたががはずれてしまうほど執着するよりはずっといい。
 ロイへの執着はエドワードが時折見せる弟に対する異常な執着とは別種のものだろう。その種類だけを考えるのなら思春期の恋情なんだか性欲なんだか解らない恋愛感情としてはまず普通だ(行動は普通ではないが相手が男なのだからまあ仕方がないのかもしれない)。
 が、相手が男である、と、その一点がどうしようもなく歪んでいて、そのためにエドワードの恋愛観は奇形だ。
 
 多分、この恋が何も生み出せないものだから、どこかで強く無機物の弟に縛られているエドワードの逃げ道になってしまったのだろう、とロイは思う。
 あの鎧の弟は、まともな恋など出来ないのだろうから。
 無意識とは言え、子供に利用されていると思うと腹も立たないではないが。
 
 ロイは首を巡らせ目の前の金髪を見た。エドワードは目覚める様子はない。
 
(恋愛ならば終わりがあるのだと)
 
 この子供はまだそれを知らない。
 だからロイに恋情を求める。全てのものに名前があると信じて疑わない、化学式と構築式と悪夢で出来上がっているエドワードの脳はまだ若い。
 名前を付ければそれで終わる。世界が言葉で満ちていると、そう信じていられるうちはまだ世界が閉じている証拠だ。エドワードの子供時代は終わっていない。
 それはただの言葉遊びなのだ、と教えてやれば、この子供は怒るのだろうか。
 名前のない感情と悪夢に、日々苛まれているくせに。
 
 やっぱり少し虐めすぎたか、と思わないでもない。
 この求めてばかりの子供の我が儘にいつになく本当に腹が立ったから、つい彼の言い分を呑むふりをしてしまった。笑顔の中の笑みのない眼が脳裏に蘇る。
 
 君を愛している。と。嘘を吐く。
 
(………と、嘘を吐く)
 
 言葉遊びだ。
 どうだ楽しかろう鋼の、と口の中で呟いて、ロイは金髪を一筋掬った。
 恋愛などいつだって出来る。自分を騙してやればいい。相手が恋しいと錯覚をして、その恋に溺れるふりをして、そうして出会って別れるまでの過程を楽しめばそれでいい。
 愛しくて恋しくて切なくて、愛を囁いてキスをしてセックスをしてじゃれるような喧嘩をして本気の喧嘩もして嫉妬もして、そうして別れる。別れた後のひとときの寂しさまで含めて、それ全てが楽しい。
 
 本当の恋愛、など。
 恋愛と名が付く以上、いつだって本当で本気だ。
 ただ本気であれ遊びであれ、恋愛などロイの人生には取るに足らない、いつでも他から補充可能な要素なだけだ。
 それは思春期の揺れを伴う恋とはもちろん違う。違うがそれもまた恋だ。
 
 上手い嘘の吐き方も恋の仕方も知らないくせに、この子供は意気がって喚く。
 オレを愛せと真っ直ぐに叫ぶ。
 
 自分はその愛の全てを、あの弟に注いでいるくせに。
 
 ロイは声を立てずに苦笑した。
 これではまるでアルフォンスに嫉妬しているかのようだ。
 
 多分そう遠くないうちに、この子供は大人になり、そうして自然とロイの側を離れて行くだろう。それは望ましいことだ。そうでなくては(なんとも面倒なことだが)こちらから振ってやらねばならない。
 だが、困ったことに。
(………クソ)
 多分そのとき、自分はとても寂しいのだろう、と思うと。
(クソ、ハマった)
 ああもう、本当にどうしてくれるんだ。
 隣で眠るこれは自分の所有物ではないのに、錯覚をしてしまう。
 
 これが、永遠に自分のものであるような。
 
 そんなことは有り得ないというのに。
 この子供は罪と弟と悪夢に縛られて苦しんで生きて大人になって、そうして罪など自らが決めたただのエゴで、そんなものはこの世界には塵にも満たないほどの価値しかないのだと、弟の人生は弟のもので、あの幽鬼はエドワードとは別の人間であるのだと、そう気付いて老人となり死んで行く。
 彼のその悟りの人生に、ロイは欠片も必要がない。
 ロイの人生に、エドワードが必要ないように。
 
 もし、この子供に恋することが出来たなら。
 別れの寂しさも、いつものように恋愛の醍醐味だと感じることが出来るのだろうか。
 
(………無理)
 こいつ男だし。
 
 結局身も蓋もない結論に落ち着き、ロイは腕を支えに顔を上げてエドワードの顔を覗き込んだ。平和そうな顔をして眠っている。
 
 なんだかムカつく。
 
 ああやっぱり恋愛をしているふりを続けてやったほうがいいかも知れない。それに引き攣る笑顔を見るのはあまり気分がいいとも言えないが、結局エドワードの求めたことだ。
 嘘を吐いてでも恋をしろ、と。
 
 だが、つまらない。
 
 本人に言えば否定はするもののかなり強い嗜虐性を持つエドワードは、時折、大抵行為の最中にふいに思いついたようにロイをなじる。
 ひとごろし、と罵る言葉はロイには痛くも痒くもないが、あの傷付いたような子供の目を見るのは少し痛い、かもしれない。
 ああもう本当に神経がささくれていると駄目だ。ただでさえあまり愉しくもないセックスも気持ちいいのきの字もないし味は解らないし頭は痛いし身体も痛いし疲れていて眠いのになんだか眠れないし明日は明日で憂鬱だし。
 
(お前のせいだお前の)
 再びなんだか腹が立って、ロイは頬杖を突いてエドワードの寝顔を覗いたまま、片腕を伸ばしてその鼻を摘んだ。ぎゅうと眉根が寄せられ驚いたように両の瞼が跳ね上がる。
「………ッあー! なんだ苦しい!! 何すんだバカ!!」
「気持ちよさそうに寝てるから」
「だからなんだ!?」
「ムカついて」
「ワケ解んねえ」
「うるさい慰めろ。傷心なんだ」
 エドワードはむくりと半身を起こしてロイの顔を覗き込んだ。
「なに、怖い夢でも見たのか?」
「猫が死んだから悲しくて眠れない」
 エドワードはくん、と鼻を鳴らした。
「猫の臭いするな、そういえば」
「上がるなと言っていたのに朝になると必ずベッドに潜り込んで来てたからな」
 エドワードがふと困ったような、悲しいような顔をした。その悪意のない顔に少し申し訳ないような気にもなるが、ロイは表面上はなにも現さず枕にぼすりと頭を預けた。僅かに頭痛に響く。
 エドワードは掛布を引き上げ、そっと寄り添って身体に腕を回して来た。触れている機械鎧は生温く、寝起きの子供の体温は高い。
「猫の代わりのつもりか?」
 金髪をさらさらと撫でながら尋ねると、エドワードはむっとむくれる。
「慰めろっつったのアンタだろ」
 その顔にロイは思わず笑って、軽く鼻をつまんだ。
「嘘だ、気にするな。眠れなくて暇だったんだ」
「暇だからって寝てるヤツ起こすなよ……」
「あ、こら、触るな痛いから」
 そろそろと伸びて来た手が殴られた部分へ触れようとするのを押さえて、ロイは自らの手で包み庇う。
「すっかり痣になっちゃったな」
「あれだけ思い切り殴っておいて何を言う。骨に異常がなかっただけでも幸いだ。というか迷いなくこめかみを狙うとは何事だ。死んだらどうするんだ」
「ごめん、つい。……冷やす?」
「面倒だからいい」
 言いながら金髪の絡む頭に手を回し引き寄せて額へと唇を付ける。エドワードがきょとんとした眼で見上げた。
「誘ってんの?」
「甘えているんだ」
「………どっちかというと甘やかしてるって感じだけど、……どうかしたのか?」
「何が」
「らしくねぇ」
 ロイは薄く笑った。
「恋人ならこんなものじゃないか?」
 言って、疑似恋愛の相手を胸に抱く。鎖骨の辺りで動く鼻がくすぐったくて思わず笑うとエドワードが険のある声で抗議した。
「なに笑ってんだよ……」
「君こそ何を怒っているんだ」
「…………」
 
 ああまたあの眼をしているのだろうか、今。
 
 ロイはエドワードが顔を上げぬよう腕に力を込める。
「………君がそうしろと言ったんだからな」
「オレだけの責任?」
「そうでもないさ。これでも私も結構傷付いているんだ、君の心ない仕打ちに。痛いのはお互い様だ」
「なんだそれ」
「教えてなどやるものか。悩め少年」
「アンタむかつく」
 ぐい、と力を込めてロイの腕を押し遣り、エドワードは身を起こした。見下ろす眼がどこから光を集めるのか発光するかのように輝いている。
「もっかいしていい?」
「………おい。私は明日仕事なんだが」
「起きてんだから同じことだろ」
「どこが!?」
「まあまあ、29歳なんてまだ若いよ大丈夫」
「こんなときだけ若者扱いするな!」
 怒りが性欲に直結する癖をどうにかしろこのサディストめ、と腹の中で苦く呟いてロイはふと息を吐いた。
「本当に我が儘だな、お前は」
「『お前』?」
 眼を瞬かせたエドワードにそう、お前、と繰り返して、ロイは幅のない肩に腕を乗せた。
「俺がそんなに好きか?」
 聞き慣れない一人称に瞬きしながら、エドワードは頷く。
「俺に好きでいて欲しいか?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
「どのくらいずっと?」
「ずっとはずっとだ。一生だよ」
「それはなかなか贅沢な希望だな」
 言いながらロイは身を起こした。エドワードが見上げる。
 その子供をよいしょと抱き寄せて、ロイは続けた。
「仕方がないから嘘を吐いてやろう」
「…………」
「お前が俺を好きで俺に同じ気持ちを求める限り、俺は恋愛ごっこを続けてやるよ、エドワード」
 微かに、子供が震えた。ロイは口元だけで笑う。
「萎えたか?」
「………るせえ。アンタ意地悪だ」
「君ほどじゃない」
 ぐいと機械鎧の右手が黒髪を掴んで引いた。見下ろした先の子供は酷く傷付いた色を浮かべている。
 
 俺も大概大人げないな。
 
 ロイは薄く笑う。
「どうした、鋼の。言いたいことがあるなら言いたまえ」
「そのうるさい口を塞ぎたい」
「それもなかなか難しい問題だ」
「こうすりゃいいんだよ」
 髪を掴んでいた右手が後頭部を包み引き寄せる。ロイは眼を細めて金色の睫を見た。
 このキスは自分が教えてやったのだ、と思うと妙な気がする。そのうち娼館にでも連れて行ってやろうか。嫌がるだろうか。
 それともセックスを上達させるほうが先なのか。自分が練習台だと思うとうんざりはするが。
「………好きだよ、大佐」
 ロイは薄く嗤う。自嘲だとはこの子供は気付くまい。
 
 ああ。
 
 
 
 胸が軋む。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

■2004/6/25
大佐混乱中。歯車ではむしろ振られたのは大佐だったと言う話。
噛み合わない歯車を回したのだから軋むのは当然です。

NOVELTOP