東方司令部は数十年ほど昔のとある一時期、士官学校の一部として使用されていたことがある。
 
 そんなまことしやかな噂を裏付けるそれを前に、士官学校ではなくプライマルの間違いじゃないのか、とロイは呟いた。
 
 ───それ。
 
 小学校の音楽室にあるような、古くて小さなアプライト・ピアノ。
(………退官する将軍にでも寄贈されたのか?)
 士官学校に使用されていた事実などなくそれは単なる噂でしかないのだが、練兵場横の倉庫にはグラウンド整備用の道具に加えてひっそりと跳び箱が眠っていたり通称理科室と呼ばれている弾薬庫の棚の一角には所狭しとその愛称の元となったビーカーが並んでいたり西棟の階段は12段しかないと言うのに深夜に数えながら上ると13段に増えていたり(噂だ)北棟の普段あまり使う者のない小さな女子便所の奥から二番目の個室は深夜2時を回ると水が真っ赤になったり(これも噂だ)シャワールームのシャワーは三つに一つは壊れていて水しか出なかったり(総務にせっついているのに直してくれない)割にこの職場は小学校のような備品や噂や不備が存在している。
 
 でもだからって。
 
 トランペットなら解る。ドラムでもいい。とにかく楽隊が使うような楽器ならあってもおかしくはないというか別の部屋にきちんと保管されている。
 だが、ピアノだ。
 無骨な軍人が集う司令部のどこで、この埃を被った華奢な楽器が必要だというのだろう。
 処分するにも金が掛かるよなあ、と予算不足で悲鳴を上げている会計部を思いながらそっと蓋に手を掛けると鍵は掛かっていなかった。
 ロイは埃を払って蓋を開き、天板も開いて中を覗き込み、黴の臭いに眉を顰めた。
(これじゃあ弦は錆びてるな)
 そう考えながら戯れに白鍵盤を叩く。ぽーん、と意外に澄んだ音が出たのに気をよくし、ぽんぽんと人差し指で鍵盤を叩いていると、がらりと引き戸が開かれた。
「………何をしてらっしゃるんです、大佐」
「いや、ちょっと備品の確認を」
「そんなことは命じてくだされば私がしますから、大佐は執務室へ戻ってください」
 はあ、と溜息を吐いてやって来たリザは、横からピアノを覗き込んだ。
「……なんです、これは」
「アプライト・ピアノ」
「解っています」
「私にもよく解らん。というかここに倉庫があるのも知らなかった。図面の上ではここは隣の倉庫と続いているはずなんだ」
「………杜撰ですね」
「まったくだ」
 せっかく増えた隠れ家が一瞬で消えた、と考えながらロイは椅子を引き、ふ、と埃を吹いて座った。鍵盤に指を乗せてぱらぱらと適当に叩く。音は素人の耳ではそれほど酷いズレは感じない。
「ピアノが弾けるのですか?」
「一曲だけ」
「一曲?」
「そう。ジュ・トゥ・ヴ」
 リザは少し首を傾げた。
「どんな曲でしたか?」
「聴けば解るよ。……しかし君、そのくらいは知っておいてもいいんじゃないのか」
「知っておいて何か得がありますか」
「………いや、ないけど」
 はあ、と溜息を吐きながら、ロイの関節の太い長い指がしなやかに鍵盤を叩き出した。首を傾げて聴きながら、リザがああ、と呟く。
「聴き覚えがあります」
「そうだろう」
「どこで習ったんですか」
「昔の知人がピアニストで」
「そうですか」
 皆まで言わせず切って捨てて後は黙って聴いていてくれるらしいリザに、軽く肩を竦めてロイは弾き続けた。
 意外に憶えているものだな、と考えた矢先に手が止まる。
「あ」
「……どうしました」
「ここから先が思い出せない」
「そんなに昔に習ったんですか」
「十代の頃だからね、教わったのは。中央でなら行き付けの店で弾かせてくれたから忘れずにいたんだが、こちらに来てしまったからなあ」
「……他の曲は習おうとは思わなかったんですか?」
「面倒だろう。誰に聴かせるわけでもないのに」
 ぽんぽん、といくつか音を追って諦めて、ロイは蓋を閉じた。
「さて、こいつの処分はどうしたものかな」
 埃で掌が黒くなるのも構わずに蓋を撫でてそう言ったロイに、リザがひとつ瞬く。
「処分なされるのですか」
「司令部には不必要だろう? 弾く者もないし、それにこの部屋が空けば倉庫に使える」
「隅に寄せておけば」
「どんどんいらない物が押し込められて隠れてしまうだろう。そうしたらもう誰もここにピアノがあることなんて気付かないさ」
 リザは黙ってピアノを眺め、そっと指を触れた。
「………では、このままここに」
 ロイはリザを見上げた。
「邪魔だろう?」
「大佐が弾けばよろしいのでは」
「………一曲しか弾けないが」
「ピアノ曲の楽譜なら一冊くらい楽隊長あたりが間違って持っているかもしれません」
「練習しろと」
「してください」
 リザはにこりと微笑んだ。
「ピアノの出来る人間がひとりいれば、重宝するかもしれません」
「重宝って、君ね……」
「それに」
 リザは天板をそっと閉じ、ぽんぽんと子供の頭でも撫でるかのようにピアノを叩いた。
「女性を口説くためだけの曲しか知らないのでは、使い道もないでしょう」
「………な、なんのことかな」
「曲名が直球過ぎます」
「…………。……練習の時間はとってくれるのかな?」
 リザは笑みを深くした。ロイはつられて微笑みながら僅かに青ざめる。
 
 こ、怖い。
 
「もちろん、執務はいつも通り行っていただきます」
「いや、でもそれではいつまで経っても弾けないままなんじゃ」
「いつも雲隠れしてらっしゃる時間をここで過ごされたらどうですか。充分練習できますよ」
 がしり、と腕が掴まれた。ぐいと引き上げられて思わず素直に立ち上がったロイの耳元に、リザが唇を寄せる。
「……Je te veux」
「───は!?」
「あなたがいなくては困るんです」
 眼を瞠り、ロイはリザを見つめた。
「中……」
「一緒に来てくださいますね?」
 思わずこくりと頷いたロイににこりと微笑み、リザは強く腕を掴んだまままるで連行するかのように惚けている上司を引きずり廊下へと出た。
「あ、あの……中尉」
「はい」
「ど、どこへ行くのかね?」
「決まっています」
 歩調を乱さずぐいぐいとロイを引いて歩きながら、リザはすっかりいつもの無表情に戻った顔で答えた。
「執務机の上で本日17時締めの大佐の恋人が今か今かとお帰りをお待ちです」
「…………」
「大佐が執務室から姿を消された2時間の間に倍に増えていますので、今日は残業を覚悟してください。明日10時の締めに間に合いませんから」
「……………。………はい」
 よろしい、とでも言うように頷いて、リザはそれでもロイの腕を離さず姿勢を崩さず歩く。擦れ違う部下たちの苦笑を見ながら、ロイは内心で深々と溜息を吐いた。
 
 Je te veux───あなたが欲しい。
 
(言葉の意味は解っても、言葉に込められた意味は解らないのかね、中尉は)
 
 いやそもそも途中で途切れてしまう愛の告白などまったく意味がないのかな、と考えて、せめてあの曲だけでも練習し直そう、とロイは溜息を吐いた。
 その上司の溜息を聞きながら、リザはほんの僅かに唇を笑みに弛ませた。
 ロイはそれに気付かない。

 
 
 
 
 

■2004/9/12
リストの愛の夢とかいいんじゃないかとか思ったんですがあまりにあまりだったのでやめました。愛て。でも結局選んだのがサティの「あなたが欲しい」なので愛の夢とどっこいでした。意味がない。
ところでピアノを男が弾くのがなんとなく色っぽいのは、ピアノは指で愛撫される楽器で女性性を感じるためだと思いました。いえ、個人的にですが。(凄い解りにくいタイトルの説明)

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