その男の前でエドワードは時折、もう駄目かな、と考えるでもなく呟く。
 そのたび冷えた眼で見つめ叱咤するその男が、表層上の冷ややかさとは裏腹に酷く自分を案じていたことをエドワードは知っていた。
 その上での甘えに期待通りに叱り付けて見せて、八つ当たりを引き受け、反省した様に微笑み頭を撫でるその手は骨張っていて肉が薄く、エドワードはそれにとても安堵してどれだけの我が儘も流してくれる大人の博愛に近い愛情を甘受して、頼り切っていたつもりはないがそれでも確実にいつでも腕を掴んで引きずり上げてくれるその存在に背を支えられていた。
 エドワードは彼に酷く甘えていた。
 彼はどれだけの我が儘も可能である限りは聞き入れて、それがエドワードとエドワードの弟に仇を成すものでない限り善処した。その子供の言いなりとさえ思える行動の裏にどれだけの感情があったのか、エドワードは正確には知らない。結局訊きそびれてしまった。
 腕を伸ばせば掴んでくれる。振り払えば容易く離す。
 けして引き留めず、弟を想い狂おしく悶える背を抱き宥め、ただ変わらずそこに在る、そういう存在であることの、意味を。
 
「兄さん」
 甘い低音がエドワードを呼ぶ。エドワードはうん、もうちょっと、と目も上げずにページを捲った。小さな溜息が頭上から降る。そっと身を返した気配がして、弟は足音を押さえて立ち去った。
 
 ほんの、冗談だったのだ。
 
 否、冗談ではなかった。無論それは悪ふざけなどではなかったが、それでも本気で口にしたわけではなかった。ただささくれた神経が苛立ち、なかなか目的を果たせずにいる疲労とこうしている間にもいつ弟を失うかも知れないその恐怖につい口を突いてしまっただけの、それだけの言葉だった。
 
『アンタをアルにくれない?』
 
 目を合わせずシーツを抱えた膝と腰に引き寄せたまま爪を噛んだエドワードの言葉に、男はランプの搾られた灯りの中何度か瞬いたようだった。
 酷く静かな表情で見つめてくるその男の眼を、どうしてそのとき見ておかなかったのかと。
 後悔は取り返しが付かないものなのだ、と、11歳の年に嫌と言う程噛み締めたそれをエドワードは再び思い知ることになった。
 羽織っただけのガウンの合わせを押さえ窓枠に寄り掛かり硝子に背を冷やして外を見ていた男は、ゆっくりと身を起こして寝台へと片手を突いた。さら、と衣擦れを立てて開いた合わせから覗いたいくつかの所有痕へと視線を向けたエドワードの肩口に、そっと唇が寄せられる。乱れたシーツの上へと片膝を乗り上げた男の体重を受けて、寝台がぎ、と軋んだ。
 機械鎧との接合部分に僅かに擽るような呼気と、濡れた唇。
 
『………いいよ』
 
 酷く甘い、僅かに舌っ足らずな低音に、エドワードは目眩した。酷く泣きたくなって男の顔も見ずに襟を掴み引き寄せて、力任せに抱き竦める。無遠慮な無機の腕力に締め上げられて僅かに苦しげに息を吐いた男は、それでも密やかに微笑って、アルフォンスの身体となるなら壊してしまっては困るだろう、と囁いた。
 
 いっそ壊してしまっていたならと。
 そう──時折、思う。
 
 戯れのような言葉は承諾を得て欲となった。
 エドワードは欲に弱い。その自覚は充分にある。心底欲しいと思ってしまえば止められないのだ。
 そしてその誘惑は甘美だった。弟に肉体を与えてやれば、そうすれば少なくとも今しばらくは、まだ。
 本当の肉体を取り戻すまでの間、もう僅かの、猶予を。
 
「兄さん、そろそろご飯食べてよ。昼から何も食べてないでしょ?」
 困ったような、けれどあの男の発する甘やかすような響きのないどこか無邪気さを残したままの低音が再び頭上から降った。エドワードはああ、と返して顔を上げる。
 身を屈め、揃えた膝に両手を置いて僅かに首を傾げたその仕草は幼い。ぱっちりと丸く開いた黒い眼はあの男のものであったときには滅多には見ることのできなかったものだが、今となってはシニカルな、人を食ったような笑みこそが現れるものではなくなってしまった。
「兄さん?」
「ああ、食うよ、アル」
 あからさまにほっとして笑みを浮かべた弟に瞳を細め、エドワードは書籍を閉じた。立ち上がると弟の視線はエドワードよりも幾分か下だ。
 あの頃には見上げるしかなかった男の顔を、今は見下ろせてしまっている。
 エドワードは半歩先に立って歩く弟の掌に視線を向けた。肉の薄い手は大きく、節くれ立った指は長く、覗く手首の骨の影が強く目立つ。
 そっと肘を掴むと振り向いた弟が首を傾げた。なんでもない、と笑い、エドワードは手を離す。
 くっきりと、関節の触れる腕。細くなってしまった足。厚みのない──身体。
 確実に肉体は死へと向かって突き進み、後戻りをしなかった。
 早く、早く──奪われた弟の本当の身体を早く取り戻してやらなくては、そうでなくては今度こそ。
 しかしその焦りの裏で、新たな弟の身体を得る算段をしている自分がいることにエドワードは気付いていた。あの男の与えてくれた肉体が死んでしまうというのなら、次の何年かの間弟の借宿となる、そんな新たな容れ物を手にすればそうすれば、まだ、あと僅かの間なら。
 けれどそれは安堵とはなりかねた。
 
(アンタが死んじまう)
 
 僅かに、目眩う。
 弟に──あの男の身体に死相を見るようになってから、ただただ研究に力を注いできた。しかしいつもあと少し、もう僅かのところで真実はエドワードから遠離る。
 弟を死なせたくなかった。
 あの男を失いたくなかった。
 喩えもうあの肉体に魂を戻してやれないのだとしても、それでも。
 
 ───ふ、と、小さく笑った気配がする。
 
『馬鹿だな、君は』
 
 小さな囁きに、エドワードは視線を巡らせた。廊下の隅、佇む人影は弟の眼には映らない。
『私の肉体と魂とは、もう二度と融合することはないというのに』
「うるせぇ、それでもだ」
 小さく、まるで睦言を囁くかのようにエドワードは呟いた。
「空っぽでも抜け殻でもなんでもいい。───腐る前に、もっかい抱いてやる」
 そして抱き竦めて、力の限り抱き締めて、そうして今度こそ、
「───壊してやる」
 もう──二度と、男の甘言に弄されないためにも。
 
 く、と、影が可笑しそうに笑った。
『好きにしたまえ』
 君にくれてやったものなのだから──と無機の身体を望まなかった男は囁いて、ゆっくりと立ち去った。
 肉体を破壊してしまえばあの影も消えるのか、と考えて、エドワードは瞳を伏せる。
 
 失った黒髪の影を探して狂うのも悪くはない、と、己の精神が既に狂気に傾き掛けていることを冷ややかに自覚しながら、エドワードは薄く嗤った。
 振り向いた弟が小さく首を傾げ、兄さん? と不審げに呟いたのになんでもないと頭を振って、エドワードはまた嗤う。弟は小さく溜息を吐く。
「もう……また変なこと考えてるんじゃない? ボクのほんとの身体がどうとか……大丈夫だよ、ちゃんとお医者にも行ってるし薬も飲んでるんだもん。ちゃんと善くなるってさ。お医者に掛かるのが早かったからさ、死ぬような病気じゃないんだって。副作用で痩せちゃうみたいだけど、治ればちゃんと元に──ってちょっと兄さん、聞いてる?」
「ああ、アル。心配すんな。ちゃんと兄ちゃんが全部」
「もう、心配なのは兄さんなんだってば」
 弟はふう、と嘆息して肩を竦めた。
「あんまり根詰めないでよ? なんの研究してるのかは知らないけどさ、なんか、あんまり有用には思えないし」
「解ってる」
「ほんと解ってんの?」
 むくれた弟は仕方がないなあと呟きながら食堂へと消えた。エドワードはぼんやりと立ち尽くし、ふと顔を上げる。
 
 あの──黒髪の男は。
 
「……名前」
(なんて言ったっけ?)
 だらりと下げた両手を握る。爪の食い込む感覚が、両の──掌に。
 
 くつくつと、可笑しそうに喉を鳴らして笑う声がする。
 振り向いてその影を見つけ、エドワードは僅かに安堵する。
「………いいか、名前なんかどうでも」
『そうだな』
「アンタはアンタだ」
『それで構わない』
 その男の許しに甘えて微笑み、エドワードは影に背を向けた。音もなく近付いたその気配が僅かに寄り添い、肩口へと額が触れる。掌の気配がそっと頭を撫でて、そうして失せた。
 けれどエドワードは知っていた。
 いつでも、望めばそれはそこにあることを。
 
 もう、早く食べてよ兄さん、と、弟が憤慨したように唇を尖らせる。その横でまあまあと笑う黒髪の細面の男はエドワードを義子と呼び、冷めちゃうわ、と微笑み椅子を引く栗色の髪の女は息子と呼ぶ。
 
(………嗚呼)
 
 握り締めた右手の感触に、目が眩む。

 

 
 
 

■2005/4/17

エドロイかどうかも解らない。
説明必要でしょうか。アルそのものが大佐の見た目でお母さんはトリシャさんで再婚相手のお義父さんが誰だか解んないけど黒髪の男でアルと兄さんは父親違いでアルは今病気療養中です。
でもどちらが妄想なのかは解らない。不条理、という意味でのカフカ的。

初出:2005.4.3(タイトル「カフカ」)

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