「ひとが来ないでかい川か湖に行きたい」
 休暇はどうすんだ実家に帰るのか、と訊いたヒューズに、机に足を乗せた自堕落な格好で椅子をぎいぎいと言わせ本を読んでいたロイは目も上げずにそう答えた。
「……泳ぐ時季じゃねえぞ?」
「誰が泳ぐと言った」
「んじゃ何すんの」
「知りたいか?」
 ちらり、とこちらを見た黒い眼がにやりと笑っていたので、ヒューズはしまった、と思いつつへらへらと笑って見せた。
「いやー、別に。俺は休暇は彼女と」
「そうか知りたいのか仕方がないなーじゃあ特別に同行を許可してやろうヒューズ」
「いやだから俺はカノ」
「ちょうど同行者がひとり必要かと思っていたんだがいい人材がいなくてなあ。お前が来てくれるなら助かるよ。ところで川か湖に心当たりは? なければ海まで行かにゃならん」
「あのな、ロイ」
「来いよ」
 ばん、と本を閉じたその横顔から笑みは失せ怒りに似た色で青白く血が引いている。ヒューズは気難しい同室者に溜息を吐いた。
「お前なあ」
「来い」
「なんで俺よ。誰か女でも調達してくりゃいいんじゃねーの。お前ルイス先輩と寝たんだろ? 彼女はどうなんだ」
 ロイの眉がぴくりと上がった。
「寝たっつーか、あれは俺が喰われたんだ」
「あ、そーなの。お前そういうの多いよな。女の教官は大体喰ったんじゃねえ?」
「喰、わ、れ、た、ん、だ。なんで俺が好んでババァ抱かにゃならんのだ。それよりなんでそんなこと知ってんだ」
「あ? どれ?」
「先輩の話だ」
 ああ、とヒューズは頷きごろりとベッドに転がり肘枕をしてロイを見上げた。
「バートが怒り狂ってたからなあ。ブッ殺してやるとか息巻いてたぞ、気ィ付けろよ」
「あァ? なんで」
「なんでって、あの野郎の彼女だろーが」
「そうなのか?」
「…………ローイ、ロイロイローイ」
「うるさい。犬じゃないんだから連呼するな」
「お前さんね、どうしてそう下界のことに鈍いかね」
「なんだ下界って」
 ヒューズはロイの手の下の分厚い錬金術書を示す。
「それの外の世界のこったよ。お前そんなんだから敵が多いんだぞ。もっと他人に興味持てよ」
「脳の容量の無駄遣いだ」
「バーカ。保身っつーもんを考えろ」
「別に殴られる程度なら慣れてる」
「慣れんなよそんなもん」
「軍隊に入ろうってヤツが何言ってんだ。暴力は基本だろう」
「お前ほど殴られるヤツはそうはいねーよ。まーた痣作ってよ」
 はあ、とヒューズは溜め息を吐く。
「お前軍隊に向いてねーんじゃねーの? 身体もひょろひょろだしよー。まだ17なんだし、こんなガッコ辞めて大学でも入り直したらどうだ。好きなだけ研究できるぞー、こんな夜中にちょびっとずつ本読まんでも」
 年下の同室者は一瞬だけ唇を噛む仕種を見せた。切れて内出血していた口の端が引き攣れる。
「………俺が迷惑なのか?」
「なんでそういう話になんだよ。心配してんのよ俺は」
 苦笑を浮かべたヒューズを眉根を寄せた気難しい顔で見つめ、ロイは机から足を下ろし向き直った。
「俺はここを辞めないし、自分が軍人に向いていないとも思わない」
「だったらさっさと国家錬金術師資格取っちまったらどうだ。取れんだろ?」
「バカかお前。そんなもん取ったら卒業までにどんだけシメられると思ってんだ。教官より階級が上がるんだぞ、嫉妬の嵐だ」
 いくら殴られ慣れててもさすがに死ぬわ、と呆れた顔をしたロイに、ヒューズは半身を起こした。
「え、じゃ、取らねーの?」
「取るが、卒業間近になってからだ。まだ何で試験受けるか研究中だし。でも入隊する前には取る。入隊するときはお前の上司だぞ」
 にやり、といつものやたらと偉そうな笑みを浮かべたロイにヒュ−ズは肩を竦める。
「へいへい、マスタング少佐殿」
「んじゃ上官命令だ。一緒に来い」
「は?」
 何の話、と脳内で会話を巻き戻して一番最初の話題へ戻り、ヒューズはげんなりと肩を落した。
「断っても」
「来い」
 はあ、と重い溜息が洩れる。
「なんでお前はそんなに俺様なんだ、ったく」
 ロイは満足げに笑った。
「よし」
「ヨシじゃねー」
「嫌なのか?」
 ヒューズは不満げな顔でちらりとロイを見遣る。いかにも心外だ、という顔できょとんとこちらを見ているこの年下の友人は、否定的な答えを返せば傷付いた顔ひとつ見せずに傷付いて、一見素直に引きはするだろう。
 が、そこから手懐けるのがまた苦労する。
 今こうして友人として僅かばかりでも下界へ引っぱり下ろすためにどれだけ苦労したことか。
 ヒューズはあーもーしゃあねえな、とガリガリと頭を掻いた。
「テメーのために休暇潰すんだ、何か埋め合わせはあんだろうな?」
「いいもの見せてやるよ。休暇を潰す価値はある」
 それは俺にも価値のあるものなんだろうな、と普通の若者と価値観のズレている学者に半眼を向けると、ロイはにこにこと胡散臭い笑顔を浮かべた。
「損はさせないよ、ヒューズ」
「………胡散臭ェなあ」
「失敬だな君は」
「その言い方がまた胡散臭ェ」
 へっ、と笑ったヒューズににんまりと笑い返して、ロイは机へと向き直ると本を開いた。
 あっと言う間に没頭する横顔を眺め、ヒューズはやれやれ仕方ねーな、と溜息を吐いて起き上がり、地図を探すために備え付けの本棚へ眼を向けた。
 
 でかい川か湖、ねえ。
 
 なにする気なんだろうねえ、と呟いた声に返事はない。ヒューズは肩越しに何も聞こえていないらしい背を見、やれやれと薄く苦笑した。
 
 
 
 
 
 
 夜行列車から降りててくてくと人気のない道を街の外まで歩き、辿り着いた河原には見事に誰もいなかった。
「………川幅が狭い」
「どこが!?」
 向こう岸の霞む川を指差してヒューズは叫ぶ。
「これよりでかい川っつったら相当遠いっつーの! てか文句があんなら来る前に言え!」
「解ったからムキになるな」
 耳を塞いでヒューズから距離を取り、ロイはあたりを見回した。夜風が癖のない黒髪をさらう。
「まあ、いいか。最初の実験だし」
「実験だぁ?」
「まあ見てろ」
 いいながら土手を滑り降りロイはうろうろと河原を歩き回っていたが、やがて持参した杖でがりがりと地面に何かを描き始めた。
「おーい、ロイセンセ−。なーにやってんでーすーかー」
「おーたーのーしーみー」
「あんたキャラ違くなってんぞ」
「そーでもなーいーよー」
 浮かれた声が返って来るのにやっぱ違うって、と呟き、ヒューズは斜面を降りて友人へと歩み寄った。
「何描いてんの」
「錬成陣。見たことないのか?」
「俺んちの近所に錬金術師は住んでなかった。あんたが一番身近な錬金術師」
 ふーん、と頷いて、ロイは大きな石をぽいぽいと退け、錬成陣を描き終える。ヒューズから見れば文字なんだか記号なんだか解らないものが円の周囲と中に描かれた落書きに過ぎないが、これが錬金術師には重要な意味を持つものなのだ、ということがちょっと不思議だ。
「んで、何が出来んのよ」
 のし、と肩に顎を乗せると「重い!」と額を叩かれた。
「出来る、というか……とりあえずこのままだと」
 軽く右手が翳される。バシッ、と鋭く弾けるような音がして、錬成の稲妻が散るのをおお、と感心しながらヒューズは見た。
「すげーな」
「あ、こら、あんまり覗き込むな。死ぬから」
「はあ!?」
 慌てて飛び退いたヒューズにロイは笑う。
「そんなに離れなくてもいい。今日は風もいいしもう大丈夫」
「な、なにが!?」
「酸素」
「は?」
「だから、酸素。酸素濃度を調節する錬成陣だ」
 指差された錬成陣を恐る恐る見下ろし、ヒューズは首を傾げた。
「だから何よ。ていうかなんで酸素で死ぬのよ。脅かすなよバカ」
「なに言ってんだ、純粋酸素だぞ。ちょっとの火花で燃え上がるんだ。お前のそのブーツのビスが擦れただけでお前は火だるまだ」
「怖いこと言うなアホ!」
 あははは、とやはりいつもより幾分か浮かれた笑い声を上げ、ロイはズボンのポケットから燐寸を取り出した。
「これからが本番だ。ちょっと下がれ」
「え?」
「約束通りいいもの見せてやるよ」
 しゅ、と燐寸を擦り、その炎を摘む骨張った長い指がまるでピアニストのようなしなやかな動きで錬成陣の上へと差し伸べられた。
 バシリ、と先程と同じように錬成光が散る。と同時にまるで軍旗が強くはためくような音を立ててごうと走った焔にヒューズは眼を見開いた。
 しゅあしゅあ、と炭酸水のように音を立てて水面を焔が通過し、川の真ん中あたりでふっと立ち消えた。
 ぽかんと立ち尽くすヒューズを見ずに、ロイはふむ、と呟き片手を腰に当てた。
「イマイチだな」
「ってどこが!!」
「燐寸じゃ炎が大き過ぎる。本当はちょっと火花が散るだけのものがいいんだが、錬成と同時に火花を上手く散らす方法がなー」
「いや充分すげぇっつの!」
 賛辞に顧みたロイが、にやりと得意げな笑みを浮かべた。
「もっと凄いの見せてやろうか」
「え?」
「今のじゃ実戦じゃ使えないだろ? あんなにすぐ消えたんじゃ、直撃したヤツは多少火傷はするだろうがそれだけだ」
 ヒューズはふと眼を彷徨わせた。友人は口許に笑みを掃いたまま錬成陣に視線を落している。その黒い瞳が恐ろしく輝いていて、ヒューズは眉を顰めてそれを見た。
「………ローイ?」
「なんだ」
「あんた、……火が好きか」
 ふっと見上げられた眼がきょとんと丸く見開かれている。
「え?」
「好きなんだな?」
 ぱちぱち、と何度か瞬いて、ロイは僅かに困惑げに首を傾げた。
「それが?」
 はあ、とヒューズは溜息を吐く。
「この間言ったことを撤回する」
「え?」
「お前は軍隊に向いてるよ。てか、軍人になれ。他のもんにはなるな。規律の中で生きるのが向いてるぞ」
 
 じゃなきゃ危なくて仕方がない。
 
「………なんだか解らないが、まあ、解った。というかそのつもりだ、最初から」
「そうだっけな」
「続きは見たくないのか?」
 ヒューズはふ、と笑う。
「いんや、是非見せてくれ」
 ロイはにっと笑って「了解であります」と戯け、再び燐寸を擦った。
 差し出される指と散る稲妻が、明るい焔に一瞬消える。
 酸素を焼く音を立てて走った焔は水面で左右へと広がり、辺りを煌々と照らした。
 しゅうしゅうと引っ切りなしに水が蒸発していく音が聞こえる。すぐに水蒸気でもやが掛かり、ヒューズは曇った眼鏡を慌てて外し眼を眇めて友人を見た。
 霞む横顔はうっすらと笑みを浮かべていたが、やがて僅かに顎を引き焔を睨んだその眼にヒューズは高揚の色を見る。
 
 ああほんと、危なくて仕方がない。
 
 ふ、と、酸素を食べ尽したのか唐突に焔は姿を消した。
「っあー! びしょ濡れだぞコラ!」
「ちょっと予想以上だったなあ。凄い蒸気だ」
「予想しろバカ!」
「うん、すまん。でもデータは取れた。まだちょっと調整が要るな」
 まったく心の隠らない謝罪に嫌な顔をして、ようやく晴れて来たもやをさらにぱたぱたと手で払い、ヒューズは眼鏡を掛け直して手を差し出した。ロイはそれを見下ろし片眉を上げる。
「なんだこの手は」
「手ェ見せろ右手。燐寸擦ったほう」
 ロイは嫌な顔をしたが、しつこく差し出した手を振ると渋々と言った様子で右手を差し出した。その手が真っ赤だ。シャツの袖口は焼け焦げている。
「うっわ、やっぱ火傷してんじゃねーの。跡残るぞこれ」
「精々2度だ、半年もすれば消える」
「てか治るのに結構掛かるだろ」
「1、2週間てとこだろ」
「なんでこうなるの予想してねーのよお前さん」
「最悪の予想よりは随分マシだよ」
 ぷい、とそっぽを向いて拗ねた顔にヒューズははあ、と肩を落す。
「最悪の予想ってなんだったの」
「まかり間違って火だるまにでもなったら誰かに助けてもらわんと」
「………だから俺を連れて来たかったのかお前」
「他にいないんだから仕方がない」
「いるだろたくさん!」
「いないよ」
 何でだよ、とまだ預かったままの右手の火傷に触れている焦げた袖を捲ってやりながら尋ねると、じっと上目に睨まれた。
「………何怒ってんだ」
「何で解らないんだ」
「何でって、何が」
 ぷい、と再びそっぽを向かれた。
「もういい」
「おいおい、なんだよロイさんよー。何怒ってんだよ言えって」
「解らないならいい」
「言わにゃ解かんねーだろこら!」
 杖を拾いすたすたと歩き始めた襟首をぐいと掴んで引き止め、ヒューズは不満げな顔を見下ろした。
「人間ってのはそんなになんでもかんでも解り合えるようには出来てねーのよ、ロイ。言わなくても解り合えるようになるまでには時間が掛かんだ。意思疎通する努力しねーからお前しょっちゅう殴られんだぞ、解ってんのか」
「なんだ、殴りたいのか?」
「そういうこっちゃねえって。まぜっ返すな。頭いい癖にそういうとこはほんとバカだよな、お前さん」
「うるさいな」
「あのね」
 ヒューズは薄く苦笑を浮かべた。
「保身っつーものを考えろっつったでしょ。殴られる前にどうすれば殴られずに済むか、どうすれば相手騙くらかして好いてもらえるか、そういうことを考えなさいよ。そんなんじゃ兵隊になったとして、前線で誰も庇ってくれねーぞ」
「自分の身くらい自分で守る」
「また出来もしねーこと言うんじゃねーの。あんた目立ちたがりなんだから絶対前に出過ぎっから。狙い撃ちだっつの」
 む、とロイはむくれた。
「だったらお前が守れ」
「はあ?」
「部下が上官を庇うのは当然だろ」
「あのなー、誰が部下だよ」
 ほんの僅か、ロイは唇を噛む仕種を見せる。ヒューズは顎を引いてそれを見下ろした。
「………ああ、うん、そうね、部下ね」
「嫌なのか」
「嫌じゃねぇよ。でもあんたの直属になれるとは決まってねえのよ、俺。そもそも入隊もまだなのに気が早ェって」
 ぐしゃぐしゃと湿った黒髪に包まれる頭を撫でて、ヒューズは笑った。
「あのね、あんたちゃんと庇ってくれる部下見つけときなさいね。独りでやろうなんて間違っても思うんじゃないよ。ちゃんと信頼出来る守ってくれるヤツ確保すんだぞ」
「………そんなヤツ」
「今はいなくても探せ。───俺があんたの下に付くまでに死なれでもしちゃあ困るだろーが」
 ロイが眼を瞬かせた。
「え?」
 ヒューズはにんまりと笑った。
「こんなに信頼されてんじゃあ応えないわけにゃいかないでしょー。まあったくあんた人付き合い下手なようでひと使うの上手いよなあ」
 何か反論しようと口を開きかけたロイの背をばんと叩いてその口を封じ、ヒューズは一方的に肩を組んだ。
「さー、街に戻って診療所か薬局探して叩き起こそうぜ、親友」
「し、親友!? って、いや、こんな火傷は別に」
「バーカ。さっさと治さんとまたあんた教官に殴られんだろーがよ。自己管理がなっとらーん! とかってよ」
「………オスカーの馬鹿のことを言ってるなら、あいつは俺に女寝取られたと思ってるから殴るんであって」
「だからって殴る口実与えるのは愚かだろ? 殴られない努力をしろよ、未来のマスタング少佐。上手く立ち回る方法を覚えな。幸いあんたまだガキなんだから、今から充分化けるって」
「……………。大して年上でもない癖に何を偉そうに」
「人付き合いに関しちゃ本の虫よりゃ俺のほうが随分マシだからな」
 解ったか親友、とにやりと口の端を吊り上げてそう言うと、ロイはぷいとそっぽを向いて、了解した、と呟いた。その顔が僅かに紅潮しているのを見て取り、ヒューズは喉を鳴らして笑う。
「何笑ってんだよ」
「いんやあ、別にー」
「むかつく」
「俺はむかつかなーい」
「……マジむかつく」
 ロイはげらげらと笑うヒューズの臑を蹴った。あだだだ、と蹲る友人を放ってさっさと土手を上ったロイを、ヒューズは慌てて追い掛ける。
「あーもー待てってこら!」
「うるさい! いつまでも笑ってんじゃねー!」
「仕方ねーだろなんかツボ入っちまったんだから!」
 わははは、と笑う声が夜風に流れる。
 民家のある場所へと辿り着いても笑い声が止まらなかったらどうにかして燃やしてやる、と半分座った眼で考えて、ロイは足を速めた。
 下ろした右手がずきんずきんと鼓動と同じリズムで痛む。痛みのリズムにヒューズの笑い声が混じる。
 苛々するような痛みなのにそれがなんだか可笑しくて、ロイはふいに唇を吊り上げて笑った。
 
 背後の自称親友は、まだ笑いが止まらない。

 
 
 
 

■2004/6/13

ね、捏造…(目逸らし)。ロイさんも錬金術師なので、どこかで学者馬鹿な部分があって欲しいなあとか思い。錬金術にハマってた時期てのはあると思うし。生半でできるものではないようだから。で、今の喰えない大人になるのにヒューズさんの影響があったら嬉しいな〜とか妄想。あ、個人的にヒューズさんは大佐より年上だと思ってるんですけどどうなんでしょ。

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