ジェサミン・アブソリュート

 
 
 

「………例えば、賢者の石がなくても生体錬成が可能になったとして」
 鋼の指で肩の引っ掻き傷を撫でる。
「こういう小さな傷は治ると思う?」
「……生体錬成が可能なら治るんじゃないか?」
「んー……じゃ」
 大きな骨張った手の甲の小さな火傷の跡を生身の指で辿る。もうほとんど消えてはいたが、触れると見た目以上に広い範囲の火傷の跡だと言うことが解った。
「こういう傷跡は?」
「傷跡は年単位で考えれば自然と薄くなるものだからな……治るかもしれない、が……しかし治すというよりは、一度分解して、再構築をして『直す』ほうが近いんじゃないか」
「分解される一瞬の間、欠けても平気な部分限定だな。……じゃ」
 鎖骨の下へ唇を寄せ、今さっき付けたばかりの鬱血を掠める。
「内出血は?」
「傷だから、塞がりはするとは思うが……でも一度出血した血は消えはしないだろうから、跡は残るだろう、自然と消えるまで」
「てことは、失血分の血は戻らねーってことだよな?」
「だな……等価交換の原則に反するから」
 エドワードは額を肩口に緩く押し付けた。思ったよりも熱い皮膚はすべすべとしていて、僅かに石鹸の匂いがする。
「………つまり、皮膚や肉が欠けてる部分ってのは、傷が塞がっても戻らないってことだよな?」
「多分ね……材料がないと」
「材料があれば戻る?」
 顎の下で緩く動く金髪を軽く押さえ、ロイはしばし思案した。あえかに息を吐く。
「………いや、それでは人体錬成になってしまう……」
「生きていないものに精神と魂とを与えて動かすんじゃないから、まだ生体錬成の域じゃねェ?」
「生きていない肉を造り上げて、生きているものに融合させるんだろう……」
「……融合しないかな?」
 ロイは肩を抱いていた腕を伸ばし背を抱き込み、指先で鋼の腕との接合部分を撫でる。鋼の縁が薄皮一枚を切り裂いた感触がした。僅かに間をおいてぱくり、と傷が開くのを感じる。大した出血はないだろうが、後で痛むかもしれない。
「………それが出来るなら、君の手足も生体錬成で戻る……」
「人体錬成と生体錬成の違いってなんだろうな。アンタ、解る?」
「………君、は、解るのか」
 エドワードは僅かに目を細めて思案した。しなる背の下へと両腕を滑り込ませて身体を密着させる。
「オレは、肉体と共に魂と精神を造り上げることが、人体錬成だと思ってる」
「………肉体だけでは?」
「生体錬成だ」
「……けれど、肉体だけではひとは生きない……生きていない肉は生体ではない、よ」
 皮膚の下すぐに骨のある胸の中心に唇を寄せる。さらさらとした感触の下で、熱が蠢く。
「……オレはアルの魂を錬成したけど」
「………ああ」
「あれは、生体錬成じゃない」
「そ、うなの、か?」
 背に回された長い両腕の先の指が肩胛骨を滑る。
「オレが腕を失ったのは、リバウンドじゃない」
「………魂の、材料に」
「いいや、代償だ」
 一度身を起こし、前のめりに上体を傾けると息を詰めて黒い瞳が瞼に隠れた。口の端へと口付ける。
「魂の素がなんだか解るか?」
「…………、……さ、あ……知らない」
「オレも知らない」
 肩に掛けられた指に僅かに力が籠もるが、鬱血するほどではない。
「爪立ててもいいよ」
 ロイが失笑のような息を吐いた。
「……笑うなよ」
「可笑しなことを言うから、」
「可笑しくねェ」
 憮然と呟き、エドワードは唇へと軽く口付けた。
「理解していないものを錬成は出来ない」
「………そうだ、な」
「だから、オレは、魂を錬成なんか、出来ない」
「…では………アルフォンス君、は」
「引き戻した、だけだ」
 あの扉の向こうから。
 
 ───伸ばした右腕を身代わりに置いて。
 
「扉………?」
 熱に浮かされたように掠れた声の問いに、エドワードは目を細めた。
「アンタは知らなくていい」
「………なにが」
「誰も知らなくていいことだ」
「………ッ、……な、ら、……言うな」
 気になるから、と吐く息に混ぜて呟かれた言葉に笑って、エドワードは黒髪の張り付く額を撫でた。
「アンタも錬金術師だよな」
「……だからなんだ」
「んー、たまに忘れるなあと思って」
「失礼だな………国家錬金術師、に向かっ、て」
「そうでしたねー、焔の大佐殿」
「………馬鹿にしてる、だろう」
「してませーん」
 エドワードはくすくすと笑い、それからふと笑みを納めてロイの鼻先へと顔を寄せた。
「………オレたちがしようとしていることは、人体錬成じゃないんだよ、大佐」
「な…に……?」
「ただ引き戻したい、だけだ」
 何もかも元通りに。
 あの日の前に。
 
 愚かだった幼い自分を清算するために。
 
 ふ、と、ロイが笑った。
「………では、私や、他の……者たちのことも、清算するのかね、……君は」
 瞬いたエドワードの頭を引き寄せて、ロイは薄く口付けた。
「時は戻らない、よ、……鋼の」
「………解ってるよ」
「そうかな……」
「解ってる」
「………ッ、…ん………」
 噛み付くように口付けると微かに喉が鳴る。肩に大きく回された腕が引き攣るように強ばった。
 薄く目を開くと黒い瞳と視線がぶつかる。
「眼ェ閉じろ、てのに……」
「……見ていたい、し」
「…………。…まあ、アンタが楽しいなら、いいけど」
 呟くように言って、エドワードは息を吐く。
「つか、キツい、んだけど」
「さっさ、と、……イけ」
「そういうこと言うな」
「う……ッ、………、」
 かし、と爪が機械鎧を掻いた。
「爪、割れるよ」
 肩から引き剥がした左手を鋼の手で握る。身を伸ばして眼の縁を舐め、閉じる瞼をこじ開けて皮膚よりも遙かに低温の眼球に舌を這わせると面白いように身体中が引き攣った。悲鳴こそないが、詰められた息の下、喉が嚥下するように蠢いたのが解る。
 ぞろり、と舐め上げる舌の先で、眼球が蠢くのが解る。
 軽く水音を立てて目尻へ口付け、エドワードは顔を離した。安堵のような息が洩れ、閉じた瞼の下から流れた涙が唇の跡を辿るように目尻を伝う。
 眉根を寄せて、ロイは涙を流していない右目だけを開いた。
「これは、やめろと」
「いーじゃん。面白いんだもん」
「……面白いって」
「アンタ目玉舐めるのが一番感じるみたいだし」
 まだ何か言いたげな唇にちゅ、と音を立てて口付けて、エドワードは熱の籠もる声で低く囁いた。
「も、イきそ」
「だから、さっさとしろ。……疲、れた」
「色気がない」
「求めるな、そんなもの」
 はいはい、と呟いて、エドワードは首筋へと鼻を埋めた。捕らえた左手が機械鎧を握り返すその感触は解らないが、神経を圧迫する痛みのない圧力を強く感じる。肩を握る右手にも力が籠もるが、それは機械鎧を握る左手ほどの握力ではない。
 決してエドワードに傷が付かぬよう、どこまでも配慮された仕草。
 エドワードは薄く微笑み、汗に湿る首筋へと噛み付いた。
 同時に白い喉が仰け反り、詰めた息に引き攣った微かな声が混じる。
 悲鳴のようだ、とエドワードは思った。
 
 
 
 
 
 
「………アンタが死んでも、オレはアンタの魂は造れないからさ」
 金髪を梳く指はそのままに、恋人が薄く笑う。
「例え造れたとして、そんな無駄なことはするなよ」
「なんで無駄だよ」
 細められた黒い眼が見つめる。
「多分、君には私は造ることが出来ないからだ」
「………どうして」
 堅い指が頬をつまむように撫でた。
「理解出来ないものは造れない」
 掬った金髪に口付ける。
「………ひとが誰かを完全に理解することなど出来はしないよ。ひとは……生き物は、瞬間ごとに変化していくものだ」
 エドワードは金色の眼を瞬かせた。
「───それは、人体錬成理論に足りないものなんじゃないか? それを詰めていけば」
「さあ……私は人体錬成には手を付けたことがないから解らないが、しかしそんな単純なものではないと思うがね」
「でも」
「………やはり、隙間を埋めるものが必要なのかもしれないな」
 ぱたり、と手を落としたロイが囁くように呟いた。
「一は個だ。個は個を知れない……流れを介してしか繋がっていないものだからだ。……だが、流れはすべての個を知るから」
「………流れ」
「全一ならば、すべての個の情報を、補って」
「全一……」
「………賢者の石は」
 もうほとんど聞き取れなくなっていた呟きが、ふ、と息を止めるように途切れた。見ると黒髪の恋人は静かな寝息を立てている。エドワードは苦笑して、その裸の肩に掛け布を引き上げた。
「賢者の石なら、その情報を埋められるとアンタは思うんだな」
 囁いて、黒髪を払いこめかみへ口付ける。微かに溜息が洩れた。
「………やっぱり、賢者の石を糸口にするのが、近道なのかな」
 今回ロイの集めておいてくれた資料の中に、ほんの僅かに伝説の石を匂わせる記事があったことを思い出す。多分空振りではあるだろうが、次はそれを目指して北部へ行こうか、とアルフォンスと話はしていた。
 脳裏に北部への列車の時刻表が浮かぶ。
 
 今戻れば、最終の列車に間に合う。
 
 思い付いたらいても立ってもいられなくなった。
 エドワードはロイの寝息の洩れる唇へ軽く口付けて、ベッドから滑り降り衣服を身につけた。手早く髪を編む。
 ロイの剥き出しの腕を掛け布の下へとそっと仕舞い、エドワードは踵を返してコートを掴み扉を開いた。
「………行っておいで」
 寝室から出た瞬間背を追ってきた穏やかな声に振り向くと、再び眠りに落ちたらしいロイの瞼は閉じたままだ。
 エドワードは微笑んだ。
「行ってきまーす……」
 小声で囁き、扉を閉める。
 扉の向こうから引き留める声はなく、エドワードはその無言に背を押されて大股で歩き出した。

 
 
 
 

■2005/1/14

ところで生体錬成なんて原作にない。思い切り捏造。(ていうか魔術師)

『Jasmin Absolute』。ジェサミン→ジャスミン。
ジャスミンは精油の王と言われ、困難に直面して自信をなくしたときに勇気を与えてくれる香りです。心理的活性をはかってくれる香り。また、催淫作用があることでも有名で、インドやアラビアでは媚薬として古くから使われていたそうです。
というタイトル。(そうですか)

初出:2004/7/22

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