「…………珍しい」 真っ暗なままの窓に首を捻りながら帰宅し、無人の寝室と書斎を覗き、居間へと戻ってソファまで無人なのを確認してロイはぽつりと呟いた。 どうせ帰りは日を跨ぐのだから来なくてもいいぞむしろ来るな、とやる気なく言った言葉に食いモン買って待ってる、とはたはたと手を振って出て行った赤い塊は、来ると言った日に何の連絡もなくその(やや一方的な)約束を反故にしたことは一度もなかった。アポイントメントなしに訪ねてくることはままあれど、だ。 コートを脱ぎ、寝室へ向かいながら軍服を緩めてクローゼットを開きロイは釈然としないままもう一度首を捻る。 思いがけず有力な手掛かりを見つけて司令部に電話を掛ける間もなく列車に飛び乗った、のなら、いい。 中途半端に時間を持て余してホテルへと戻りうっかりと寝こけて、そのまま旅の疲れからぐっすりと夢の中にいる、のでも構わない。ロイには見つけることは出来なかったが、興味深い資料を見つけて実はまだ司令部の資料室に籠もっているのでも問題はない。 ただ後者の場合、エドワード自身はともかく、彼のよく気の付く(そして気の毒なことに兄の予定を逐一報告されているという)弟が、なんの連絡も寄越さないというのは不思議だ。 その弟がもし生身であったなら急な発熱でもしておろおろとした兄が付き添っているというのも考えられはしたが、生憎今あの少年は生身の肉体を持たない身だ。エドワードのほうが急な体調不良を起こしたという可能性もないではないが(昼のいつものように元気が有り余っている姿を見た限りでは考えにくいが、悪いものでも食って腹を壊している可能性はある)、その場合もアルフォンスはロイか、そうでなくても司令部の誰かに連絡を入れるだろう(そんな暇もないほど重篤な事態に陥っているのなら、名の知れた国家錬金術師相手のことだ、病院側が軍に連絡をしてくる筈だ)。 着替えを済ませ、寝台へと腰を下ろしけれどシーツに潜り込むことはせずに、ロイは足を組んで頬杖を突いた。視線を流した先には夜闇に鏡と化した窓。 (………事故、) だとすればこの夜中だ。食料を購入する、と言っていたからてっきり早い時間に来るものだと思い込んでいたが、買い物を済ませた後に一度ホテルへ戻ったのかもしれない。だとすれば、日付を跨ぐ、とはっきりと告げてあったのだ。それに合わせて深夜となってからホテルを出て来たのだとすれば、車に轢かれでもしたところで誰にも見つからず道端に転がっているという可能性はなくはない。地方司令部のある街だ、憲兵の巡回は多いとはいえ、それでも町中の全ての通りを見張っているわけではない。 事故か、トラブル。それが一番可能性が高そうに思えた。 ロイは立ち上がり、居間へと戻ってアドレス帳に手を掛けた。いつものホテルを使っているのなら番号は解る。そうでなくても彼ら兄弟がこの街で使う宿は司令部と駅にほど近いものばかりだから、探すのはそう難しいことではない。 ページを捲り目指す番号を見つけて受話器に手を伸ばし掛けたロイは、唐突に鳴ったベルにぴくりと一瞬固まった。それから直ぐに受話器を上げる。 「はい」 『あ、大佐? オレオレ』 覚えのある子供にしては低めの忙しないその声に、ロイは軽く息を止め、それから脱力して肩を落とした。 「鋼のか」 『うん、ごめん、行けなくて』 「いや、それは構わないが……どうした? 何かあったのか」 うん、とふと潜められた声がどことなく元気がない。ロイは眉を顰めた。 『アルがさ……』 「弟がどうした?」 『あ、いや、アルは大丈夫、なんでもない』 「君は大丈夫なのか」 『オレもなんでもない。けど、アルがさ、ちょっと』 はあ、と憂鬱なような溜息が聞こえた。 『夕方にさー……司令部からホテルに戻る途中でさ、猫が車に轢かれるとこ見ちゃってさあ』 そのまま逃走してしまった車に罵倒を浴びせ追おうとした兄を、弟の悲鳴のような声が止めたのだと言う。轢かれた猫はもう年老いていて、おそらく放っておいても次の夏の暑さには耐えられなかったろうとエドワードは潜めたままの声で言った。 『でもさ、それでもまだ生きてて』 兄弟揃って獣医に駆け込み、もう無理だ、という医者の言葉に項垂れながら最後の息まで看取ったのがもう日付を越える寸前で。 『アルがさ、凄い落ち込んでて。別にアイツのせいじゃないんだけど……』 「誰のせいだとか、そういうものでもないだろう」 『うん、だよな……』 はあ、ともう一度溜息を吐いた子供に、ロイは僅かに思案を巡らせた。 「………鋼の」 『ん……?』 「君は大丈夫なんだな?」 念を押すように繰り返したロイに、エドワードは僅かに沈黙する。 『………そりゃ、生き物が目の前で死んだんだから憂鬱だよ』 「だろうな」 『けど別に、アルほど落ち込んじゃいねーよ。可哀想だったなとは思うけどさ』 「ああ」 『………だから、アンタに慰めてもらわなくても構わない』 「そうか」 僅かに怒ったように声を尖らせた子供に平常の口調で相槌を打てば、エドワードはもう一度沈黙をして、それからゆるゆると息を吐いた。 『………アルが心配なんだよ』 「ついていてやれ」 『…………、アイツはさ、今、生き物が生きてるか死んでるか、そんなことも解んないからさ……』 動かず、静かに呼吸をしているだけなのか、もう死んでしまっているのかの、区別を。 その指に微かな息を感じることも、鼓動の震えを感じることも出来なくて。 じっと、猫を抱いていたアルフォンスのその腕の中のタオルにくるまれた老猫に触れ、エドワードが、もう死んでるよアル、と告げたそのときまで。 『アイツ、解んなかったんだよ、……猫が死んでるの』 なのに猫を抱かせてしまった。 その手の中で、小さな命を失わせてしまった。 『…………、大佐』 「……なんだ」 『オレは別に、アルを過保護に守りたいって言ってるわけじゃないんだ』 小さな子供のように、世の中の汚いことや悲しいこと全てから遠ざけてやりたいなどと、そんな傲慢なことを。 『でも、あんまりアイツに、生き物が死ぬとこ見せたくないんだよ』 「……そうか」 『我が儘かな』 「いや、」 ロイは僅かに瞳を細めた。視線は意味もなく、開いたアドレス帳を眺めている。 「普通だろう」 『………そうかな』 「少なくとも異常ではないよ」 そっか、と少しだけ晴れた声で呟いて、エドワードは僅かに間を置き、それから大佐、と遠慮がちにロイを呼ぶ。 『ごめんな、連絡遅れて』 「構わんよ、もう寝るところだった」 『心配したとかくらい言えねーのかアンタ』 ああもう、と回線の向こうで子供は嘆いた。 『……でもま、おあいこか』 「なにが」 『や、……あの、ごめん、怒るなよ? ………その、実はアルに大佐はいいのって言われるまで、オレアンタのことすっかり忘れてて……』 ロイはひとつ瞬いた。子供は申し訳なさそうに慌てた声で続ける。 『いやでも、どうでもいいとかそんなこと思ってたわけじゃなくて! その、』 「………そういう事情でこちらにまで気が回るような子ではないだろう、君は」 『子とか言うな!! ってそうじゃなくて!』 「気にするな、構わんよ。それより早く部屋に戻ってやれ。アルフォンスは今一人なんだろう」 『え、と、アイツ、大佐んとこ行けってうるさくて』 「来たら追い返すぞ」 『………アルに部屋追い出されたんですけど』 「直ぐに戻れ」 『けど、』 「君は馬鹿か」 『ば……』 「いいか、これは有益な忠告だ。今すぐに部屋へ戻れ。そして弟の側にいろ」 『……………。……有益ですか』 「有益だ」 『それでも追い出されたら?』 「君はしつこくて諦めが悪いのが長所じゃないのか? 粘れ、何時間でも」 『隣近所の客に迷惑が掛かったら?』 「そんなことを気にする玉なのか、君が」 『それでも開けてくれなかったら、』 「鋼の」 銘を呼ぶと愚図愚図としていた子供は途端に黙った。ロイはふ、と笑みに近い息を落として声を緩ませる。 「来るならアルフォンスと二人で来い」 『─────、』 「待ってはいないから、来たら起こせ」 『でも、アンタ明日も仕事が』 「こんなときばかり気を遣われるのもおかしな話だな、いつもは気にもしないくせに」 『気にしてるってちゃんと!』 くつくつと喉を鳴らし、そうか、と相槌を打つとほんとだからな! と回線の向こうで怒鳴り、子供はぶつぶつとなにか文句を言った。 『大佐』 「ん?」 『…………。……や、後で行くかも。寝てていいから』 「言われなくてももう寝る。だから切るぞ」 『なんでそう薄情なこと言うんだよ。一言多いんだよアンタは』 はあ、と溜息を吐いて、子供はじゃあな、とふて腐れたように言った。 『おやすみ。夜中に悪かったな』 「なんだ、今日は随分と気を遣うんだな?」 『うっせ』 がしゃん、と叩き付けるように通話が切られ、ロイは小さく笑って受話器を戻した。寝室へは戻らずキッチンへと向かい、カップと茶葉を用意してケトルに水を張る。水を火には掛けずに灯りを消し、玄関へと向かい落としていた玄関先の灯りだけを点けて再び戻り今度こそ寝室へと足を向けて、けれど扉は半開きにしたままロイは寝台へと潜り込んだ。 今頃、あの年若い兄弟はお互いに上手く慰めたり慰められたり出来なくて、素直になれない自分を持て余しながら怒鳴り合っている頃だろう。 ───もしかすると。 自分の存在さえなければアルフォンスは素直に兄に寄り掛かることをしたのかもしれないと、暗い天井に視線を置きながらちらりと思う。 アルフォンスがロイを疎んじているという話は聞かない。家族の恋人に好意だけではない嫉妬に近いような感情を持つことはままあるものだが、相手が特殊なせいかアルフォンスは時折あの理解しがたい兄を持て余し気味にロイに押し付けようとする素振りを見せることはあれど、兄がこの家へとやってくることを疎んじている気配は見せない。もし僅かでもそんな素振りを見せたならロイはエドワードにそれを禁じるし、そもそもあの兄は弟に歓迎されない恋になど走りはしないだろう。 だが、それでも今彼らが滞在するこの街がイーストシティでなければ、少なくともロイがいる場所でなければ、あの無機の身体を持つ子供は素直に兄の側で膝を抱えたのではないか、とロイは思う。 ロイに気を遣っている、のではない。エドワードに遠慮をしているのでもない。 ただ、兄に恋人があることが、アルフォンスの逃げ道になってしまったのだろうとロイは思う。 小さな子供であるならともかく、まだまだ大人とは呼べずとも彼らはもう14、5の少年だ。自我の確立した、頭のいい子供たちだ。 素直に悲しいと、胸が痛むと嘆くことを、誰かの前でその姿を晒すことを───大切な者の胸もまた痛ませるのだと解っていながらそれをすることに躊躇いを覚え始める、そんな年齢であるのだろう。 ロイは目を閉ざす。 ───あの子らは (もう少し子供であるべきだ) 子供ではいらない、それは解っている。彼らの選んだ道は庇護され、それが許される子供のゆけるものではない。家族に囲まれ大人に守られて、そうして伸びやかに成長することを諦めざるを得なかった、そんな道を指し示したのは誰でもないこの自分だ。 選ぶのは彼らだと言ったその言葉が詭弁でしかないことを、ロイはよく知っていた。ただ震えるばかりの声で謝り続けた鎧の子供に身を寄せられて、手足の欠けた小さな子供のその眼が静かに光り焦点を結び鋭く尖って行く様を見ながら、ロイは他の、本来彼が取るべき平穏の道を敢えて捨てさせた。険しい道を指し示すことで誘導をした。弟と手足を失ったあの小さな子供には、他に取るべき道はなかった。 母を、蘇らそうとまでした子供だ。 弟を、取り戻そうと立ち上がらないわけはなかった。 だから少なくともエドワードは、もう子供ではいられない。ロイも折に触れ彼に一人前であることを要求している。 彼は既に子供時代を終えている。 けれどそれでも、と。 その矛盾した感情が良くない類の甘さを孕んでいることを、ロイは苦く自覚する。 あの兄弟を決して裏切らず、責任を持って庇護できる立場にあるなら構わない。だが、己の立場はそれにない。 いつ道を違え、彼らを裏切るか───また彼らに裏切られるかもしれない関係にありながら、それでもまるで保護者ででもあるように子供たちを甘く庇護しようとしてしまう、それはエゴに他ならない。 寝返りを打ち、身を丸める。足先に触れたシーツはひやりと冷たい。少し足を縮めると、体温を移して温かな布地が触る。 身体を丸めて、息を落として、静かに眠っているロイを見て。 鎧の子供は息を確かめるのだろうか。指に呼気の触れない無機の弟に代わって、あの兄はロイを揺り起こすだろうか。 そんな詮無いことを考えながら、ロイはゆっくりと訪れた眠りに身を委ねた。 |
■2005/9/21 SCC関西のときのお留守番SS。ラストのパターンは3つあったんですが当たり障りの無いものを。
なんというか、うちの大佐は兄弟が大好きだという話。あと自分のなにがどれだけ甘やかしなのかイマイチ解っていないという話。クラックスポイルクラッカーの前だと思いますが、兄弟やエドに対するスタンスはスポイルに大分近いと思います。初出:2005.6.27
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