「─────ッ!!」 自分の声で飛び起きた。 ロイは混乱したまま慌てて辺りを見回し自室であることを確認し、早鐘を打つ胸を押さえる。 俺は今何と言った。 確かにこの耳に届いた自らの声は親友の名を叫んだはずだ。つまり自分は今、奴の夢を見ていたということだ。 なのに思い出せない。 ロイは引っ切りなしに荒い息を吐く口元を押さえ、唾を飲み込み必死で夢を反芻しようと頭を巡らす。しかし記憶の中から引き出して来れる今夜の夢は何もない。 夢ですら会えない。 普段から夢はあまり見ない方だし悪夢の類いはよほど体調が悪いときでもなければまったく見ないと言っていいが、今は悪夢でいいから見たい。 そんなことを考えてロイは歯軋みした。 同時に頭の中で組み立て始めていた構築式を振り払い、ベッドから飛び下りて大股で部屋を横切り居間へと向かい、丸テーブルの上に散らかっていたびっしりと計算式が書き込まれた数枚のメモを掴み丸めて床に叩き付ける。それだけでは足らずペンを探し、見つからないことに焦れて親指を噛み流れた血でテーブルへと錬成陣を書き込んだ。瞬時に散った稲妻と火花。 一瞬で煤となったメモに大きく息を吐き、ロイは片腕をテーブルに預けたまま床へとへたり込んだ。投げ出された裸足の先に煤が散っている。 人体錬成など無理だ。 ロイの錬金術師としての知恵がそう囁いている。あのエルリック兄弟の様を見て、それでも自分なら出来ると自惚れるほどロイは自己を過大評価はしていない。第一人体錬成などしたと知れたら自分は破滅だ。それどころか自分の下に付いている部下たちの将来も皆失わせてしまう。 なのに気付くと理論を組み立てている自分がいる。無理だと知っていてなお向かわずにおれない自分はきっとあの幼い兄弟よりも愚かだ。 ロイは額を抱え、溜息を吐いた。肩が冷えている。 ───人体錬成ではなく、魂の錬成なら。 ふいに沸き上がった思考にロイは俯いたまま瞠目した。頭の中でめまぐるしく数式が組み立てられて行く。 いや、待て。それもまた代償となる何かが。 命の代価が。 鋼の錬金術師がそうしたように、恐らくは己の肉体のどこかを代価として支払う必要があるのだ。あの天才錬金術師ですら腕を失ったのだから、どんな理論を組み立てたところで何も失わずに取り戻すことはきっと不可能だ。 しかし手足なら機械鎧がある。その程度で失われたものが戻ってくると言うのなら惜しいことはない。 魂の錬成の理論も組み立てる必要はない。あの子供を捕まえて聞き出せばいいだけだ。幾らでも方法はある。 騙すことも、脅すことも。 ───だが。 (………俺の何と引き換えであいつは戻るんだ?) あの人の良い男の魂は、この身の何と引き換えにすれば戻って来てくれるのだろう。 弟を異常なほど求めた幼い子供の強く穢れのない愛情が、彼から腕を一本奪って行った。 この自分の、我がものを奪われてなるものかと目を血走らせているこの傲慢な己の何が、あの男の代価と足り得るのか。 腕ならいい。足でもいい。一本でも二本でも、何なら四肢の全てをもがれてもいい。 しかしそれが心臓だったなら。 頭蓋の内の白灰色の塊だったなら。 両肺や腎臓や脊髄や。 視覚や聴覚や触覚や味覚やこの呪詛に満ちた世を毒突く声だったなら。 それでは意味がないのだ。 自分がいなくては意味がない。あれを呼び戻す意味がないのだ。 命と引き換えに、この世を認識する自らと引き換えにあの男を甦らせても、ロイは何も得るものがない。 それに、とロイは自らを納得させるべく必死で思考を巡らせる。 あの、エドワード・エルリックの弟だという、アルフォンス・エルリック。 鋼鉄の棺に縛り付けられた幽鬼。 あれは果たして人間の魂が納まっているものなのか。 あれはエドワード・エルリックの孤独を癒すため、彼が自ら造り上げたよく出来た玩具ではないのか。 たとえ命を掛けて親友の魂を錬成したつもりになったとして、そこに残るのは本物のマース・ヒューズと成り得るのか。 (多分、違うものだ) ロイはそう結論づけた。 アルフォンス・エルリックという子供をロイは知らない。 あの鎧に納まっているものを仮定アルフォンス・エルリックと定義するとして、初めて会ったとき既に彼は一度死に、兄の手によって鎧へと縛り付けられていた。 だからロイにとってはアルフォンス・エルリックと仮定アルフォンスは同一ではない。 もし、あの鎧の少年が本当にアルフォンス・エルリックだったとして。 彼はあまりに様々なものが欠けている、とロイは考える。 まず、欲。 三大欲だけではない。彼にはあらゆる欲望が希薄だ。 ただ唯一彼が強く欲を示すのは、兄の手足を取り戻し、自らの身体を取り戻すことだけだ。 しかしそれはあの鎧の幽鬼の妄執だ。それが存在意義なのだ。 だからあれは、欲と見せ掛けて欲ではない。あれは本能だ。あの幽鬼が存在して行くための糧だ。三大欲に匹敵する、と言う意味では欲と言えるが、望みでは有り得ない。 そして、感情。 一見酷く感情豊かにも思えはするが、彼のかりそめの感情は長く続かない。怒りも悲しみも兄に任せ、彼自身はエドワード・エルリックの影でただひっそりと佇むだけだ。強く自己主張をすることはほとんどなく、稀にあったとしても長続きしない。 まるで時折感情を爆発させて見せることで、人間のふりをしているかのようだ。 それは多分エドワードが望んだことなのだろう。エドワード・エルリックがアルフォンス・エルリックの前から消えることがあれば、あの幽鬼は容易くただの鎧と化す。 玩具箱から引っぱり出して遊んでくれる子供がいなくなってしまえば、玩具は螺子が切れたまま、ただのがらくたとなって沈黙する。 だから──多分。 強引に魂を錬成しても、それはただの出来のいい複製か、そうでなくとも何もかもが大きく欠けた幽鬼でしかないのだ。人間ではない、化物だ。 そんなものを引き擦り出すことは意味がない。 そんなものに命を賭すことは恐ろしく愚かだ。 (俺は酷く愚かだが) 愚か故に自らの欲望に忠実だ。 ロイは引き寄せた膝に額を付け身を縮めた。 欲しいのはあの人の良い男だ。 それ以外のものに、これ以上己の所有物を賭けてやる気はない。 人間の領分、などという綺麗事を言うつもりはさらさらないし、今あの金色の鋭い目を見たら掴み掛かって魂の錬成方法を教えろと詰め寄りそうな気もするが、幸いなことにあの子供はここにいない。 眠って起きて、と繰り返すたび、悲しみは薄れ記憶は薄れ、やがてこんな馬鹿馬鹿しい妄執に頭を悩ますこともなくなる。 生き物には忘却が許される。 生きて行くための本能だ。 ───だから、諦めろ。ベッドへ戻り毛布を被って朝を待て。 視線の先に煤。 これから何度こうやって、走り書いた構築式を燃やせばこの頭は冷えるのか。 ───ベッドへ戻れ、ロイ・マスタング大佐。 そして朝まで眠るのだ。夢のない眠りは速やかに朝へとこの身を運ぶ。 自らを叱咤し、身を起こそうとしたロイは唐突に鳴った電話にびくりと肩を竦ませた。 電話。 毎日毎日わざわざ電話を掛けて来てはこちらの都合もお構いなしに下らない話をしていた男。 ああでも、それは職場だ。この家ではない。 ロイは竦んでいた身体を伸ばし、慌てて受話器を取った。 『お休みのところ申し訳ありません、大佐』 有能な副官の冷徹なメゾソプラノが耳を冷やす。ぐらぐらと熱くなっていた頭蓋の内まで清冽な水が抜けた気がして、ロイはほっと肩を落した。返す声は冷静に保たれる。 「いや、どうした」 言いながら髪を撫で付け夜着のボタンを手早く外す。 『先ほどテロリストらしき集団が聖マリアンヌ病院を占拠したとの情報が入りました。詳しいことはこちらでご説明します。5分でお迎えに上がりますので、お支度を』 「解った」 放り出すように受話器を置き、ロイは夜着を脱ぎ捨てながら大股で寝室へと戻り準備を始めた。 頭の中にはもう親友はいない。 「お疲れ様です、大佐」 「なんだ、君自らお出迎えか」 「召集を掛けてはいるのですが、まだ人手が足りませんので」 地位を考えればあまりに質素なアパートからコートを羽織りながら出て来た上司の眠気のない顔を見て顔色を確認し、同時に寝癖の有無も確認したリザはふとその白い額に目を止めた。 染みのような、汚れ。 後部座席の扉を開き、上司が乗り込もうとした瞬間に目を眇めて見つめる。 「………大佐、失礼します」 「ん?」 ちらりと上向いた顔に手を伸ばし、リザは汚れを拭う。乾き掛けていたそれは拭い切れず、リザの指を赤く汚した。 「………なにかね?」 ぱちくりと子供のように目を瞬かせた上司に、リザは手を開いて見せた。 「血が」 上司は面喰らった顔で発火布で額を擦った。白い生地が赤く汚れる。 その手袋の親指が、同じ色で汚れているのをリザは見た。 「………今日は右手はお使いになりませんように」 「うん?」 「湿っているようですから。───早く乗ってください」 急かされて上司は慌てたように乗り込んだ。扉を閉め、リザは反対側の扉からその隣へと滑り込む。 確かこのひとは、夕方までは指に怪我などしていなかった。 では夜の間にどこかで傷付けたのだろうか。しかし発火布のような厚手の布を通すほどの出血を止血帯も巻かずに放っておくなどおかしい。大した怪我ではないとしても、発火布はもちろん、衣服や書類を汚してしまう。 資料を読み上げながらちらりと視線を走らせると、難しい顔をして腕を組んだ上司の、ほんの僅かに覗くシャツに夜の闇に黒々とした染みが見えた。 ああやっぱり、汚してしまっているじゃない。 血の染みはすぐに洗わなくては落ちないのに。 否、錬金術師なら、落ちなくなってしまった染みを消してシャツを新しくしてしまうことなど朝飯前なのだろうか。 けれど仮にも大佐ほどの地位に付く人間が汚れたシャツを着るなど本来あってはならないことだ。 「───指を」 「うん?」 ふいに口を突いて出た言葉に、リザはほんのわずか狼狽する。しかしそれは鉄面皮を崩すには至らない。 「指を、どうかされましたか」 「ああ」 上司は赤く染まった手袋に包まれた右手を持ち上げ、口角を吊り上げるようにして嗤った。 「ちょっと切ったんだ、さっき。大したことはない」 「手当てをする暇はありませんが」 「いいさ。もう血も止まっただろう」 それより続きを、と促す上司にはい、と頷き、リザは資料を捲った。 飄々としたその態度に安堵する。 立っていられるのなら言うことはない。 弱いひとだとは思わないけれど。 それでもあの親しいひとの死は、このひとを打ちのめしたはずなのだから。 そして気付く。 ああ、指先の些細な怪我にまで目が行ってしまうほど過保護になっていると知れたら、誇り高いこのひとは自らを恥じるだろう。 死を悼むことは弱さではないのに、それでもきっとこのひとは自らに限りそれを弱さだと言う。 復讐に立つことは躊躇わずにいるのに、ほんの一時膝を落して掛け替えのないひとを想うことをこのひとは恥じる。 だから、決してこの気持ちを知られてはならない。 「………中尉」 資料を読み終わり、ご質問は、と尋ねると、視線を正面に据えたまま呼ばれた。 「はい」 ちらりちらりと街灯に照らされる上司の口許には薄く笑みがたゆたう。 「すまないな」 リザはその横顔から目を逸らした。 こんなところばかり聡いひとだ。 リザは問い返さず謝罪もせず、ただ「はい」、と答えた。上司は薄く息を吐いて笑い、あとはもう無言だ。 リザは資料をまとめ、ただ街灯の流れて行く夜を見た。 この聡いひとがリザの誇りだ。 それはこのひとには全く関係のないことではあるのだけれど。 酷く傲慢で、不敬な感情であるとは承知しているのだけれど。 それでも、リザにはこのひとが誇りだ。 強靱で誇り高く傲慢な、電話の嫌いなこのひとが。 |
■2004/6/8 ロイ→ヒュでヒューズさん死に後はどこでも読めるので満足してて書く気はなかったんですが。何が書きたかったかと言えばネガティブなロイ視点からのアルを書きたかったんです。(このネタでやらんでも)
あと自由に動く義肢があって錬金術なんつー魔法がある世界でさっくり諦めがつくほど29歳は悟れる年齢かいや無理だ。とかいうのもちょっとやりたかったんですけど失敗しましたよもう(呻)。
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