雨が頭だけを覆う傘と身体を打ってぱたぱたばたばたと音を立てている。
 時折電線や軒から滴った重い水滴ががんとかごんとかどことなく黴臭い空気を抱え込むがらんどうの身体の中に響いて、ちょっと面白い。
 ぱしゃぱしゃと跳ねる泥水の感触も、足の裏に触れる地面の感触もないこの身体。けれどボクは結構早くこの身体に慣れた。
 どういう仕組みかは解らないけど、肉体を纏っていた時とは明らかに違う、左右にも上下にも広い視界。ただ前面に付いている『眼』の働く範囲に関して先入観が強過ぎるのか、真後ろなんかはさすがに見えない。見えれば便利なのに、と思いもするけれど、それはそれで真直ぐ歩けなくなりそうな気もする。
 でもそれでも、周囲で物が動く気配は、解る。勘が鋭くなったんじゃない、と最初に言ったのはウィンリィだったけど、言われてみればそうだ。勘と言うのかどうかは解らないけれど、なんとなく、『解る』。
 解らないのは直接的な刺激だ。
 たとえばぽんと肩を叩かれても解らない。解るのはその振動で身体の中の空気がほんの僅か、いんいんと震える、それだけだ。
 たとえばコップを握ってもどこまで握れば持ち上げても落ちないのか、また握り潰してしまうのか、そんなことも解らない。解るのはただ、この眼のない眼で視るものの形だ。
 視界のブレで自分の走る速度を知り、兜の房飾りの揺れで風の強さを知る。
 肉体があった頃と見えているものは変わらない。形も色も大きさも何も変わってはいない。ただ、何が、と説明はできない何かが視えている、そんな気はする。
 その何かと、掴んだもののゆるく軋む音とがらんどうの指の空気の振動で、ボクは自分がどれだけの力を込めているのかを知る。ただ生き物に触るときだけは、注意深く、傷付けないように、大人のおじさんが赤ちゃんを撫でるときみたいに、優しく優しく。
 言うととても難しいようだけど実はそうでもない。五感のうち視覚と聴覚を残して他すべて失っているこの鎧と魂の身体は、無機物のほうが有機物よりも外界を遮断する力が弱いのか、魂そのものが感じる感覚というものが二感に加わっているようだ。その『有り得ない感覚』が、触覚のないこの身体の動きを助けてくれる。
 けれどやはり、触覚、特に痛覚がないというのは妙なものだ。
 鎧に魂を定着させよう、と考えた兄さんを心から賛美する。もしこれが関節のない、柔らかなぬいぐるみや人形だったら、物凄く珍妙な動きを披露することになったに違いない。なんと言ってもどんなポーズをとっても痛くないのだ。怪我もしない。人間──否、生き物として有り得ない動きのオンパレードだったろう。
 その点、関節に当たる部分以外の動きが大幅に制限される鎧の身体は、まだ肉体を持った普通の人間のように動きを制限してくれる。
 だから、ボクは結構早くこの身体で走り回り、無理ばかりするリハビリ中の兄さんをつまみ上げ、デンと転げ、ウィンリィと買物に行き、ばっちゃんと掃除をすることを覚えた。
 
 慣れなかったのは使うことではなく、この身体でいること。
 
 みんながご飯を食べているのにお腹が空かないのが不思議だった。
 みんなが眠っているのに眠くならないのが不思議だった。
 ずっとお風呂に入っていないのにどこも痒くならないのも、冬の外気に晒されてもかじかまない指先も、みんなみんな不思議で、一度も言ったことはないけれど、ほんとはかなり──気持ちが悪かった。
 
 でも最近、ようやくこの身体を面白いと思うことができるようになってきた。
 
 例えばこの雨の打つ音。
 
 例えば冬のしんしんと降る雪に軋む鋼の音。
 
 オイルで磨くきゅっきゅっと布の擦れる音と、その細かな振動。
 
 うっかり錆びさせてしまった関節を、ぶつぶつ文句を言いながら兄さんが手入れしてくれる、ざりざりと錆の落ちていく音。
 
 どれもが肉体をまとっていては解らない微かな情報だ。
 肉体を取り戻したら、多分二度と感じることのない、境地だ。
 
 ボクは必ず兄さんの手足を取り戻す。
 兄さんは必ずボクの身体を取り戻してくれる。
 
 だからボクは、少しだけ今を楽しむことに決めた。
 前を向く。前に歩く。
 もっと前を歩いている兄さんが、ボクを気遣い振り向かなくて済むように。
 
 
 
 
「兄さん! 傘持って来たよ」
 ちょうど図書館から出てきた兄さんが雨に顔を顰めながらも一瞬も躊躇わずに駆け出そうとするのをとどめて、ボクは大きく手を振った。間に合ってよかった。もう少し遅れていたら、雨宿りなんかするほど気の長くない兄さんだから、びしょ濡れで帰って来たに違いない。
 ばしゃばしゃと雨を跳ね上げて駆け寄り、差していた傘を差し出す。ボクから滴った雨粒が、兄さんのつむじの上に降り注ぐ。
「サンキュ……って、あれ、アル?」
 兄さんはぱたぱたと水滴を払って傘を受け取り、不審そうに眼光鋭いその切れ上がった金の眼でボクを見上げた。肉体があるときは、ボクも同じ色だったその眼。けれど兄さんのほうがいつでも爛々と輝いて、本当の黄金のように見える。僕のは、多分稲穂の金。
「傘一本しかないんじゃないのか?」
「うん、ないけど」
「お前の分は?」
 ボクは大袈裟に肩を竦めて見せた。表情のない鎧になってから覚えた仕種だ。
「いらないよ。どうせ頭のとこにしか差せないから。濡れても寒くないし」
「バッカ! んじゃ迎えになんか来なくていーって!」
「なんで。風邪引いちゃうよ、兄さん」
「お前が錆びるだろ!」
「すぐに拭けば大丈夫。それより兄さんのほうが大変だよ。錆びたらまたウィンリィにどやされるよ」
「誰がお前の錆落すと思ってんだ!」
 ボクはふうっ、と溜息のように声を出した。
「前から思ってたんだけど、兄さん、なんで錬金術使わないのさ」
「? 使ってるだろ、いつも」
「じゃなくて、ボクの錆を落すとき」
 兄さんの眉間にむっと皺が刻まれた。
 兄さんは無言でばんっと傘の水滴を払ってから差し、ぱしゃぱしゃと雨の中へと歩いて行く。ボクは慌ててその後を追った。
「兄さん?」
 兄さんは無言だ。右手で傘を差して、左手はポケットに突っ込んでどんどん先に歩く。
 
 何拗ねてんのこのひと。

「兄さんってば。なんで怒ってんの」
「……………」
「ねえってば」
 歩幅を広げて追い付き、歩きながら顔を覗き込むと兄さんは溜息を吐いた。
「コミュニケーションだろ」
「は?」
「だから!」
 じろりとボクを見た眼がなんだか子供のようだ。いやまだ子供なんだけど、ボクも兄さんも。
「大事なスキンシップだろ!? なのにお前はコミュニケーションとらなくても平気なわけだ!」
 むすりとしたまま怒鳴った兄さんを、ボクはリアクションを取るのも忘れてぽかんと見返してしまった。
 
 わあ、聞きましたかみなさん。
 馬鹿ですよこのひと。
 
「………いつも組手してるじゃない。大体、こんな鎧とスキンシップしたって硬くて冷たいだけでしょ」
 途端、兄さんの顔がずどんと暗くなった。
「お前なあ……自分でそういうこと言うなよ」
「に、兄さんだってでかくていいよなとか言うじゃない」
「オレはいいんだよ!」
「なんで」
 一瞬、兄さんはむう、と言葉に詰まってしまった。不審さを示すために首を傾げたボクを睨み付けている眼はいつものように鋭いけれど、どことなく照れがある。
「なんで?」
 もう一度問うと、兄さんは口をひん曲げたまま赤くなってしまった。ボクの周囲にクエスチョンマークが出てる。
「あい……あ、兄貴だからいーんだよッ!」
「………なんか理不尽」
 いいんだよ! ともう一度怒鳴った兄さんの耳は真っ赤だ。ふうん、とボクは内心呟き、表情の動かない鎧の裏で苦笑した。
 なるほどなるほど、そういうこと。
 身内だからですか。
 愛情があるからいいんだよ、と、多分そう言いたかったのだろう。
 兄さんの背中を見ながら付いて歩いていたボクを、兄さんがふと振り向き、気のない顔のまま指で招いた。ボクは素直に兄さんの隣に並んで歩く。兄さんの差している傘にぱたぱたと雨が当たっている。
 
 ときどき思うことがある。
 母さんを甦らせることを諦めて、まだどこかで生きているらしい父さんのことを憎んでいる兄さんには、家族はボクしかいない。
 身内、というならウィンリィやばっちゃんや師匠やシグさんたちがいるけれど、彼らとも離れて旅を選んでしまったから、いつでも外側に向けて牙を剥き出し肩を怒らせている、大人の世界へ足を踏み込んでしまった兄さんには心から安らげる身内はボクだけだ。
 
 もしボクがいなくなったら、このひとは本当に駄目になってしまうんじゃないだろうか。
 
 たとえば。
 たとえばボクなら、兄さんがいなくなってしまったらとても悲しい。母さんがいなくなってしまったときより悲しいかも知れない。ボクは兄さんが大好きで、顔もよく覚えていない父さんのことは兄さんのように憎んだりはしていないけれどやっぱりちょっと好きとは言えなくて、だからボクの家族は兄さんだけで。
 でもきっと、ボクなら大丈夫だ。
 兄さんがいなくなっても、悲しくても、泣けない鎧の裏で大泣きしても、それでもきっと大丈夫だ。
 もちろん絶対にそんなことにはなって欲しくないし、そんなことにはさせないつもりだけど、でも『もしも』のときはこないわけではないのだと、ボクら兄弟はよく知っている。母さんや、ウィンリィのお父さんお母さんや、ばっちゃんのところへ来る大勢の戦争被害者のひとたちを見て育ったボクらは。
 ボクは自分一人ででも、この身体を元に戻す方法を探して、多分そうやって生きていける。皮肉なことだとは思うけど、肉体を失ったボクにはそれが支えになるだろう。
 でも兄さんは違う。
 兄さんはボクの身体を元に戻そうとしてくれている。
 どんな代償を払っても、今度こそ命を失うことになっても。
 せっかく落さずに済んだ命を懸けてでも、このひとはボクを失いたくないらしい。
 
 兄さんの足下はか細い枝だ。
 兄さんは強いけれどその強さは悲愴だ。
 このひとは脆い足場に立っている。
 
 元に戻る方法が見つからないと焦れて、眠るときでも悪夢にうなされて。
(早く老けそうだなあ)
 こんなにちっちゃいままで老けてしまうのも可哀相だ。
 そんなことを考えていたボクを察したわけでもないだろうに、兄さんがふいに半眼でボクを見上げた。
「………なんか悪いこと考えてなかったか、アル」
「え、考えてないよ」
 両手を低めの「マイッタ」の位置に上げてぷるぷると首を振る。兜の濡れた房飾りがぴたぴたと肩に当たった。
 ほんとかよ、とぶつぶつと呟く兄さんを見下ろして、ボクはふと首を傾げる。
「宿に戻ったらさ、ボクを拭いてくれる?」
「あぁ? 自業自得だろ馬鹿。自分で拭けよそのくらい」
「あ、ひどいなあ。コミュニケーション取りたくないわけだ」
 むぐ、と兄さんは言葉に詰まったようだった。ボクはあははと声を立てて笑って、下手くそに差されている傘のてっぺんをつまんで兄さんの肩が濡れない位置へと動かした。
「早く帰ろ。お腹空いたでしょ。おかみさんがね、今日はシチューですよって」
「お、じゃあ競争ー」
 言いながら既に走り出している兄さんをボクは慌てて追い掛けた。
「あ、ずるい! っていうか服汚れる! 泥!」
 全然聞いてない兄さんは妙な高笑いでどんどん走って行ってしまう。せっかく傘があるのにびしょ濡れだ。
 まったくもう、と呟いて、それでも笑ってボクは兄さんを追い掛けた。
 
 前を行く兄さんが、ボクを気遣い振り向かなくて済むように。

 
 
 
 

■2004/3/29

これでも豆×鎧なんですが…!
なんとなく解りました。わたしの受攻ってヲトメじゃないです受が。
どっちかってーとお、お母さん…?(保護者)
そうか! その条件にぴったりハマるからアルが受なんだなわたし!
…そんな分析はしなくていいですわたし。

NOVELTOP