ぎゃ、と胴体でも思いきり踏み付けられたような切実で反射的な悲鳴が短く喉を突いて、それで眼が醒めた。
 咄嗟になにもかも解らなくて真っ暗で先程まであんなに光りが溢れていたのにと考えてああそれは夢だから、夢なんだ、夢だったんだ、と繰り返し、そこでようやく息をすることを思い出してリザは深く深く、肺を絞り尽くすように空気を吐き出した。乾いた気管が乾いた息に擦られて乾いた咳が繰り返し出た。
 両手を目の前に翳す。何も見えない眼に、どうも汗らしきものが額を伝って入り込んで酷く痛んだ。ごしごしと両手で顔中を擦り、手を伸ばしてスタンドの紐を引く。かちり、と小さな音を立てて、黄色い光が網膜を灼いた。
 そうか、今日は新月なんだった、とリザは考える。暗闇に乗じた犯罪を危惧して、夜勤のハボック少尉が見回りを強化しているはずだ。
 
 あのひとも、今日は夜勤だ。
 
 預けて来た書類は終わったのだろうか。明日の朝には多分、午前中が締めのものだけはきちんと揃えて積まれてはいるのだろうけど、それ以外は未決のまま執務机に乱雑に乗っているんじゃないだろうか。
 ああ本当、どうしてあんなに怠けたがるんだろう、子供の宿題でもあるまいに。
 
 否、宿題なのか。
 したくもないつまらない書類の処理なんて宿題と一緒なのか。
 少なくともあのひとにとっては。
 
 本当はもっと別の、現場で指揮を取り、作戦を遂行していくような。
 
 リザは眼を閉じた。
 
 ───そうでなければ、戦場で。
 焔を操ってみせるような。
 
 悲鳴と怒号。
 臭いと熱。
 
 『もの』の焼ける音。
 
 ああ、駄目か。
 あの地獄は多分、出来ることなら二度と味わいたくはないだろう。
 何一つ泣き言を言わなかった肝の座ったひとだけど、それでもそっと嫌な顔をした。
 
 向けた背中と、少しだけ俯いた顔が。
 
 黄色い光の中に先程の夢が入り込む。リザは無言でその残像が歪み薄れるのを見ていた。
 
 血塗れの紺青の制服。泥とほとんど同化したコート。赤く濡れた手袋の甲に刻まれた紋章は同色に染まるのに何故かくっきりとリザの眼には映る。
 
 穴だらけの身体。
 
 たくさんの死体。みんな炭のよう。突っ張った腕がリザを指差して、馬鹿者め、と罵った。リザは黙って穴だらけの真っ赤の手袋をはめた手の肩にたくさんの星の付いた軍服の黒髪の黒い眼のその死体の前に立っていてああもうお終いなんだと考える。
 
 私の野望はお終いなんだ。私の誓いはお終いなんだ。私の願いはお終いなんだ。
 
 私の命は今終わった。
 
 だから。
 
 ここから立ち去ろう。と。そう考えて、動かない軍靴から足を引き抜いて、水を吸って重たい軍服を脱ぎ捨てて、それが黒々と光る程血に塗れていることに気が付いて、肉の臭いの染み付いたアンダーシャツを脱いで、汚れた下着を捨てて、身軽になって、
 
 女を曝して。
 
 さあもういいでしょう。こんなたくさんの命と死の臭いを染み付かせた男などいらないわ。穴だらけの身体などいらないわ。
(私を抱く度胸もなかった男なんていらないわ。)肉は腐り蛆に食われて骨になり踏み砕かれるばかりの男などいらないわ。
 
 私は私。
 
 私は未だ。
 
 生きている。
 
 そうして踵を返した足首を、ぐっと掴んだ手首は白く、紫色に静脈の固まった、骨張った、血塗れの、手袋の。
 
 リザは見下ろした。
 
 濁った黒い眼が、リザをじっと睨み付けて、
 
『君の野望の肩代わりはするよ』
 
 と。
 
 低く囁くように、宣言をした。
 
 ああ、もう。
 
 死んでいる癖になんて傲慢な。
 
 膝がくずおれて、跪き、伸びて来た手袋に包まれた死体の手が、
 
 リザはひ、と喉を鳴らして眠りに落ちかけていた意識を取り戻した。心臓がどくどくと脈打っている。また汗が額を流れた。
 ああもう、駄目ね、と呟いて、リザは身を起こす。下腹部に鈍痛。頭皮から血が引き、額が冷え薄く頭痛に包まれた。
 
(月に一度、月経のたびに殺されていると知ったなら)
 
 多分あのひとは物凄く嫌な顔をするに違いない、と考えて、リザは湧き上がるままくすくすと笑った。笑みを納めぬままに寝台から足を下ろし、サイドテーブルの引き出しから鎮痛剤を取り出し口に放り込み、水差しから直接水を煽って飲み下す。顎を溢れた水が濡らし、夜着の隙間を縫って胸へ落ちた。
 リザはふ、と息を吐き、右手の甲で口を拭って左手を伸ばしカーテンを薄く開いた。街灯の淡い灯りが僅かに入り込む。
 リザはスタンドを消し、寝台へと潜り込んだ。カーテンの隙間から差す光は枕元へ細く落ちる。
 リザは眼を閉じた。今月はもう、あの男の死体は見ない。
 
 また来月に会いましょう。
 
 戦場の、腐った臭いの中で。
 
(そして私を犯して)
 
(酷く)
 
(逆らおうなんて気が起きないくらいに)

 
 訓練された眠りは速やかに訪れ、リザは明日へと備えて朝までの間、夢も見ずに眠った。

 

 
 
 

■2006/9/8

屑篭からサルベージ。
うちのロイアイはこれが基本なのかな〜とか言ってたやつですけど色々と本誌により事情が変わった気もするようなしないような。

初出:2004.9.6

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