晩秋とは言え未だ冬は遠いというのに、その日はやけに冷え込みが厳しかった。
 
 会議を終えて司令室へ戻ると、鋼が来ているとハボック少尉に告げられた。
 執務室に通しましたから、と涼しい顔の少尉にそれでいいのかお前の頭の中では危機管理はどうなっているんだと溜息を吐きつつ、けれど結局軍内部の機密になどまったく興味を持たないあの子供を執務室に一人待たせたところで特に問題があるわけでもないので、俺は何の警戒もなく扉を開けた。
 
 いない。
 
「………鋼?」
 声を掛けるが身動きする気配すらない。
 なんだ一体どこへ消えた、と首を捻りながら扉を閉め、室内へと足を踏み入れた俺はソファの端からちらりと赤いものが覗いたことに気付いた。
「…………、」
 子供は。
 コートも脱がずブーツも履いたままソファに横たわり、胎児の姿で身体を丸め酷く険しい顔で自らの右肩を抱いて眠っていた。投げ出された機械鎧の右手が力なく床へと垂れている。
 俺は一瞬その常になく青白い顔に眼を止め、それからそっと足を進めて鋼の頭側の肘掛けへと腰を下ろした。
 き、と小さく金属の軋む音がする。見ると何かの微調整なのか無意識の神経の動きを正確に拾った結果なのか、右手の指が時折微かに動いていた。その唐突な動きは生きた人間の動きではなくて、俺はまじまじとその魂無き指を眺めた。
 美しい無機の形だ、と思う。
 機械鎧を付けている知り合いはそれなりにいるが、鋼の錬金術師の手足は誰のものよりも美しい。彼の整備士のセンスは俺の好みなのだろう。ラッシュバレーの名工の作だとかいう義肢よりも、まだまだ洗練されるにはほど遠い、けれど今時点では最高に洗練されているだろうこの腕の方が俺は美しいと感じる。
 そう言えば冷え込みのきつい日は機械鎧との接続部分が痛むのだと機械鎧を付けている知り合いが言っていたことがあるのを思い出す。誰の作った義肢だろうが、その痛みを完全に拭うことは出来ないのだと。
 夏も冬もなくいつでも騒がしいこの子供のその元気な姿に惑わされていたが、その手足のそれぞれ一本は無機の塊と繋がっていて、実際の四肢は欠損しているのだ。ただでさえ小さな身体に機械鎧は相当な負担であるというのに、鋼がそれに痛みを感じていないわけはなかった。
 ほとんど無意識に手を伸ばし、金髪の掛かる額へと触れる。その夏の間の日焼けが抜けきらない健康的な肌が青み掛かるほど血の引いた額は、見た目に反して幾分か熱い。
 やはり肩や足が痛むせいなのか、と考えながら軽く前髪を梳いて手を引こうとすると同時に、唐突にぽかりと瞼が開いた。ゆるゆると右肩を抱えていた生身の左手が伸びて来て、俺の手をやんわりと掴む。俺は思わず動きを止めた。
 何故なら、いつもは渋面で俺を見る子供が酷く無邪気に、幸せそうに、蕩けるような微笑を浮かべて、
 
 そっと俺の手を引き寄せて、くすぐるように軽く愛しく指に口付けた、からで。
 
 体温も感じる暇もないほどの、けれどその乾いて少し荒れた唇の皮膚のささくれを感じることは出来る、口付け。
「……………。……おはよう、鋼の」
「ん、」
 微笑を浮かべたまますうと眼を閉じかけた少年は、ばちりと再び瞼を上げた。しかしそこには夢心地の色はなく、完全に覚醒した金の眼が俺を見上げてがばりと飛び起きる。
「な、な、な………!?」
「何をどもってるんだ」
「何してんだよアンタ!?」
「ここは私の執務室だぞ。そこで寝こけていた君がそれを言うかね」
「いや、だって! 起こせよ! つかなんでそんなとこ座ってんの!?」
「どこに座ろうが私の自由だろう」
 言いながらソファの端まで飛びずさった鋼の額に手を伸ばすと、少年はびくりと竦むように震えて逃げようと言うのか僅かに身を仰け反らせた。俺は構わずその額へと手を当てる。
「熱があるぞ。肩が痛むのか」
「た……大したことねぇよ。これからの時期はよくあるし、今日はちょっと寝てなかったからそれで特に調子悪いだけで」
 いいから離せよ、と振り払うその仕草にも心なしか力がない。
 俺は立ち上がり、執務机へと回り込んで引き出しを漁った。鋼は寝起きのもやが今頃戻って来たのか僅かに寝惚けた顔で眉を顰め、首筋を掻いている。
「………なんか寝た気がしねぇ」
「大して寝てもいないだろうし、ソファなんかで居眠りしていたんだから疲れるだろう、それは」
「うーん……」
「帰ってホテルのベッドで眠ったらどうだ。体調が悪くては研究どころではないだろう」
「や、あんまりこっちにいらんないからさ、時間無駄に出来ねーっつーか」
「大した情報は入っていないぞ。一応資料になりそうなものは纏めてあるが」
「ん、ちょっとでも手掛かりになりそうなもんがあればラッキーだよ。悪いな、いつも」
「耳に入ったものを取り置いているだけだ、大した手間じゃない」
 鋼は何を察したのかふ、と大人びた笑い方で小さく笑い、けれど何も言わずに僅かに乱れていたコートの皺を伸ばした。
 俺は引き出しから探し当てた薬瓶をほら、と言って放り投げる。鋼はそつなく受け取った。金属の掌とガラス瓶が手袋越しにぶつかり、かちん、と硬質の音を立てる。
「なにこれ」
「鎮痛解熱剤」
 鋼は片眉を上げて不機嫌なような可笑しいのを堪えているような、ともかく何かささやかな感情の発露を押さえ込んでいるような奇妙な顔をした。
「………いらねぇよ。持ってるし」
「持っているなら服みたまえよ」
「や、耐性出来るといざってとき困るし、それにトランクん中だからホテルに置いてるし」
「ではそれを服みたまえ。熱があると言っただろうが。今服まなくていつ服むんだ」
「いやだからー………怪我したときとか?」
「鎮痛剤が必要なほどの怪我をしたときには病院へ行け。医師が処方する薬なら市販薬で耐性が出来ていても効くから気にするな」
 まだぐずぐずと薬瓶を睨んでいる鋼に、俺は溜息を吐いた。
「体温計を持って来させようか」
「え?」
「数字で発熱していることが解れば服まざるを得まい?」
「いや別に熱があるのが信じられないから服みたくないとかじゃなくて。……つか、それってアンタのことじゃねぇの?」
「は?」
 鋼は軽く肩を竦めた。
「体温計見て数字で出ちゃうと急に具合悪くなるヤツっているだろ。アンタそのタイプかなって」
「失敬な」
「だって無理してそうだし、無理出来なくなるのがイヤだからとか言って熱計んなかったり病院行かなかったりしそうだろ」
 図星だ。無理をしているつもりはないが、中尉に時折指摘されるそれと同じことを言われている。
 しかし認めるのも癪なので(こんな子供に見透かされていると思うと腹が立つ。というか中尉がバラしたのかもしれない)俺はもう一度「失敬な」と返して執務机の一番下の引き出しを開き毛布を引っ張り出した。鋼はぱちぱちと瞬きながら見ている。
「ほら」
 歩み寄り毛布を差し出すと、鋼は不思議なものでも見るようにそれを眺めた。
「え? なに、寝ろってこと?」
「じゃなくて、身体に巻いてろ。寝ていても構わないが、寒いんだろう」
「別に寒くないけど」
「体温調整が出来ている顔じゃないな。四肢の欠損の痛みは私には解らんが、古傷が痛むときには身体が温まれば幾分かマシになる。君は違うのか」
 鋼は僅かに黙り、瞬きを止めた鋭い眼差しで毛布をじっと見つめ、それからその輝く眼のまま俺を凝視した。
「………なんだ。いらないのか」
「いや、」
 ふと、瞼が伏せられる。鋼は毛布を受け取った。
「ありがと、大佐」
「少し待っていろ、資料を纏めてやるから」
「アンタさっき纏めてあるって言ってなかったか」
「纏めてあるが、解りやすいように並び替えをして注釈を入れてやる。今日はこれからどこかへ出掛けるということもないんだろう?」
「………うん、まあ、今日は資料もらったら後はホテルに帰るだけ。アル待たせてるし」
「弟は一緒に来なかったのか」
「あいつまた猫拾ったんだよ………今頃獣医に行ってる」
 渋面で毛布を肩に掛ける文句を言いながらも弟のすることには寛大な鋼に、俺は笑う。相変わらず兄弟仲のいいことだ。
 それを見るのはとても快いことだ、と俺は思う。
 幼さ故の傲慢な所行が罪となり枷となり罰となり足掻く彼らは互いの手をいつでも握れる距離で、いつまでもどこまでも一緒に行こうと無言のうちに誓い合っている。しかしそれは悲壮ではなくて、その強い信頼は無垢とひたむきさを失った大人には眩しく、好ましく映る。
 しがらみを持たずに生きて行くことは不可能ではあるが、彼らのその関係をしがらみと呼ぶほどには俺は擦れてもいないし偏屈でもないつもりでいる。
 
 それは愛なのだ。
 
 お互いが自らと融合しているかのように感じている彼らの、いずれ失われ歪んでしまうかもしれない、けれど今はまだ綺麗で眩しくてあたたかな、純粋な───愛情。
 無論、そんな臆面もないことはこの子供に言ってやるつもりはないが(というか誰に言うつもりもない。恥ずかしくてやっていられない。大人は内気なものなのだ)。
「大佐」
「なんだ」
 資料を纏めていた俺を、鋼の酷く静かな声が呼んだ。俺は資料に眼を落としたまま返す。
「こっち見てよ」
 俺は顔を上げた。鋼は毛布を肩に掛けたまま、大人びた顔で俺を見つめていた。その顔に笑みはないが瞳は穏やかで、俺はこんな顔をした鋼を見たのは初めてだった。
 いつもの騒がしく生意気でひたむきな、くるくると表情を変える子供そのものの顔ではない。
 
 大人の顔だ。
 
「………どうした」
「うん」
 生返事をした鋼はしばらく俺を見つめ続け、それから唇に優しげな笑みをちらりと浮かべて眼を伏せた。
「なんでもない」
「………そうか?」
「うん」
 無意識のように子供らしさのない無骨な左手が毛布の下から持ち上がり、右肩を包む。
「鋼の。薬を服みなさい」
「うん」
「生返事ばかりだな」
「うん」
 僅かに、頭が落ちた。まるで赦しを請う宗教者のような仕草から俺は視線を外せない。
 少年は、静かに、けれど芯に力の漲る声で、言った。
「うん。………オレは大丈夫」
 俺はしばらくそれを見つめ、資料を置いて立ち上がった。歩み寄り鋼の前へ立つと、少年はその視界を暗くした影に気付いたのか顔を上げた。きょとんとしたあどけない表情はもう、いつもの鋼のものだ。
 俺はその顔をしばらく眺めて、笑顔を浮かべるのも忘れたまま、多分かなり真抜けた素の顔をした。
「鋼」
「………うん?」
「私は君が好きだよ」
 鋼は眼を瞬かせ、それから眉を寄せていつもの不機嫌な渋面になった。思わず笑う。
「笑うなよ」
「いつもの調子が戻ったじゃないか」
「ってアンタの告白ってそんなのばっかりだな」
「告白というほど畏まってはいないさ。好意を持っていると言っただけだ」
「それを告白っつーんじゃないかと思うんだけど!」
「アルフォンスも好きだよ」
「あーそうですか!」
「良かったろう?」
「良かったよ! 嬉しいよ! 何なんだ畜生ッ!」
 臑を蹴ろうと振り上げられた行儀の悪い足を避けて、俺は笑ったまま執務机へと戻り、資料を綴じた。
「ほら、持って行け」
「資料室の鍵もくれよ」
「それは明日だ。弟と来い」
「明日も来るけど今日もちょっと見て行……」
「却下だ。帰って休め」
「あのなあ、オレには時間が」
「時間ならあるさ、腐るほどとは言わんがね」
 少なくとも、今日心穏やかにゆっくりと睡眠を取って、明日からの活力とするための時間程度ならば、いくらでも。
 鋼は不満げに唇を尖らせしばらく資料を睨んでいたが、やがて俺を手招いた。
「なんだ」
「ちょっと」
「何か不明点でもあったか」
「ん、ちょっと」
 動く気配のないまだ顔色の悪いままの子供に溜息を吐き、俺は鋼の隣に座った。
「どれ、どこだ」
「うん」
 鋼が近付けた俺の顔を見る。その金色の眼にちかりと光が宿り、陽の位置が変わったのか、と一瞬窓へと視線を馳せた俺の襟を、鋼の右手が掴みぐいと引いた。文句を言う間もなく口の端へと柔らかで少しささくれた、荒れた唇の感触が触れた。
「………お前、」
 呆れつつ見遣ると鋼は酷く後悔したような、どこかが痛むような顔を一瞬で生意気な笑みへと擦り替えた。恐らく本人も意図しない見せたくなかった表情なのだろうと考えて、俺はその苦い眼の色を見なかったことにした。
「あのな、鋼」
「いいじゃんこんくらい。オレ元気出たし」
「元気って」
「忠告通り今日は帰って休むよ。ありがとな、大佐」
 とん、と襟を離した鋼の手の甲が俺の胸を叩き、立ち上がった少年は毛布をきちんと畳んだ。
「んじゃな、大佐。また明日来るよ、アル連れて」
「ああ、解った」
 鋼は振り向かずに軽く手を上げて、執務室を出て行った。俺はその閉じた扉をしばらく眺め、毛布を手に取りころりと転げた薬瓶に気付く。あの子供は結局服まず終いで帰ってしまった。
 薬瓶を握る。ひやりと硬質の温度を伝えるそれは半分ほど減っていて、あからさまに使い差しだ。痛み止めが必要なことはそうそうないが、それでも頭痛が思考を邪魔するときや、軽い風邪に悩まされるときには重宝する。
 あの子供には痛み止めが必要なのに、と考えて、けれど彼がそれを望まない気持ちも解らないでもない気がして、俺は西日の差す窓へと視線を向けた。このオレンジ色の光の下を、弟の待つホテルへと痛む肩と脚を堪えて駆ける小さな赤い背を思う。
 
 明日はせめて冷え込まずにいればいいが、と考えながら、俺は薬瓶と毛布を一緒に一番下の引き出しへとしまった。

 
 
 
 
 

■2004/11/23

大人になりつつある子供とそれに吃驚していることに自覚が弱い大人。

カメレオンはくっつくエドロイなのかなあ。くっつかないエドロイの気がするんですが。好意の種類が違い過ぎて、エドが硬派過ぎる。というかくっついたら興醒めじゃないだろうかこれ。うーん。

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