オーブンから出したプリンが大分冷めた。
 お皿に出してカラメルとミントの葉を用意、と庭で子供達の遊んでいるきゃあきゃあと言う声を聞きながら台所で行ったり来たりしていたトリシャは、ふ、と途絶えた声に手を止めた。案の定、すぐに火の付いたような泣き声が響く。
「おかーさん!! おかーさんアルが!」
 あれはアルのほうだわ、とエプロンで手を拭きながら小走りで開いている勝手口へと向かったトリシャをエドワードのひっくり返った声が呼んだ。
「おかーさん!」
「はいはい、どうしたの、エド、アル?」
 地面に俯せに転んだままわんわん泣いているアルフォンスの横で、無理にそれを起こそうとしながらこちらも半泣きのエドワードがおろおろとしている。子供たち、特にアルフォンスにはまだちょっと高い位置にあるブランコが大きく揺れていたけれど、それから落ちたにしては遠い。
「どこが痛いの、アル?」
 そっと抱き起こすと、未だわんわんと泣いたままアルフォンスはぎゅうとしがみついてきた。その両手と左腕と両膝を盛大に擦りむいている。ああこれは痛いわね、と思いながらよしよしと頭を撫で顔を覗き込むと、おでこのこぶがみるみる腫れてくるのが解った。
 でも大丈夫、こんなに泣いているし元気に動いているし顔色も悪くないし、ちゃんとたんこぶは腫れてるし。吐いたり意識がないようだったりするのなら、先生一家のところへ駆け込まなくてはならないところだけど。
 そんなことを考えながらよしよし大丈夫、とアルをあやし、エドワードへと目を移すとおにいちゃんはアル、泣くなよ、と言いながらしきりに弟の背を撫でている。
「アルはどうしたの、エド。転んだ?」
 状況を尋ねると、エドはふいにきまりの悪そうな顔になってちらりと未だ揺れているブランコを見、だってアルがー、と呟いた。その視線の動きでトリシャは察する。
 多分、アルフォンスにねだられてブランコに乗せたのだ。アルはダメよ、やんわり禁止はしてあったのだけど、トリシャが見ているときには幾度か乗せてあげたことはあったから。
 そして、漕いであげたのだろう。
 けれどエドワードの好きな乗り方は、まるで空まで飛んで行ってしまいそうなほど大きくぐいぐいと漕ぐ乗り方だから(これも危ないわ、と禁止はしてあったのだけど)、きっとそれに倣って大きく漕いであげたのだろう。
 で、その勢いのまま、落っこちたのだ。禁止されていた乗り方で、禁止されていた弟をブランコに乗せてあげて落してしまったから、エドワードは大慌てだったのだ。
 結構な距離を飛んだものだわ、とちょっと呆れて、トリシャは改めてアルフォンスの身体を確かめた。泥だらけだが、きちんと自分の足で立てているし両腕も元気に動いている。骨に異常はない、ようだ。
「おうちに入ってバンソーコー貼ろうか、アル?」
 優しく囁くと、くすんくすんと泣いていたアルはこっくりと頷いた。そのまだ産毛のように柔らかな金髪に包まれる後ろ頭を撫で、抱き上げたままよいしょ、と立ち上がる。
「さ、エドもおうち入ろう。おやつが出来たわ」
 アルも重くなって来たわね、と思いながらトリシャはエドワードを見下ろしてにっこりと微笑む。エドはまだちょっとばつの悪そうな、心配そうな、ちょっと怒ったような顔をしながらうんと頷いてトリシャのエプロンの端を握った。
 
 
 
 
 くうくうと眠っている天使のような寝顔を眺めながらこぶに冷やしたタオルを当て、トリシャは微笑んだ。絆創膏で覆われたちいさな手がトリシャの指をきゅうと掴む。
 手当ての後、まだくすんくすんと鼻を鳴らしながら、それでもちゃんとプリンは食べたし顔色もいい。大騒ぎだったから今夜はちょっと熱が出るかもしれないけれど、興奮して大泣きした日は大抵そうだし、エドワードもアルフォンスと同じくらいの頃はそうだったから、それも心配はない。
 けれど一応、夕方のお散歩の途中に先生のところに寄ってたんこぶだけ診てもらおう、と決めて、ふと視線を上げるとエドワードがドアの隙間から覗いていた。
「エド」
 アルフォンスを起こさないように小声でおいでおいで、と囁くと、エドワードはぱたぱたと駆け寄ってベッドにぼふんと腕を乗せた。その勢いでアルフォンスが起きやしないかと一瞬どきりとするが、眠っていれば天使の次男坊は寝息を途絶えさせることがない。
「プリン食べ終わった?」
「うん」
 ちょんちょんと弟のやわらかなほっぺをつついているエドワードに尋ねると、こくんと頷いたおにいちゃんはお日様色の眼でトリシャを見上げた。
「アル、大丈夫?」
 もう、なんて責任感の強いおにいちゃんなのかしら。
 トリシャは笑ってエドワードをきゅうと抱き寄せた。
「大丈夫よ。でも夕方に先生のところに寄って、たんこぶだけ診てもらいましょうね」
 うん、と頷き、ぎゅうと眉を寄せて、エドワードは俯いた。
「ごめんなさい……」
 小さく呟かれた謝罪の言葉にもう一度深く微笑んで、トリシャはエドワードの最近張りの出て来た真直ぐな金髪を撫でた。前髪が頬に掛かるほど長い。髪を伸ばすのは女の子なのよ、と言って後ろ髪だけは切ってあげているけれど、エドワードは何故かあまり鋏を入れたくないらしい。あのひとの長い髪を憶えていて、それを真似したいのかもしれないけれど。
 けれど寝癖の付きにくい髪の毛のようだから、もう少しして自分で洗えるようになったら好きにさせてもいいかもしれない。後ろ髪があれば結い上げられるだろうし、この前髪では目が悪くなってしまうかも。それに髪の毛の量が多いから、伸ばした方が纏めやすいかもしれない。
 でもきっとアルフォンスはダメね、とトリシャはつやつやとしたエドワードの髪を撫でながら思う。ふわふわと柔らかいアルフォンスの髪は、妙に寝癖が付きやすい。こちらは切るのを嫌がったりはしないけれど伸ばすのはちょっと大変だろうから、いつかおにいちゃんを真似て長くしたい、なんて言い出されたらどうしようかしら、と少し笑う。
「エド、アルをちょっとの間見ててあげてくれる? 起こさないようにね。できるかしら」
 顔を上げたエドは誇らしげに胸を張った。
「できるよ。オレにいちゃんだもん」
 その声が既に結構な声量でトリシャはちょっとどきりとしたが、眠るときはまだ赤ん坊と大差ない程眠りの深いアルフォンスは目覚める様子はない。
「じゃあ、お願いね。おかあさん、ごはんの準備しちゃうから」
「うん!」
 エドはにかっと笑ってベッドに両腕を置き、その上に顎を乗せて弟の寝顔を眺め始めた。妙に真剣なその横顔にくすりと笑い、トリシャはそっと部屋を出た。
 
 
 
 
 いつもならあっと言う間に飽きて出て来てしまうエドワードは食事の下拵えを終えても出てこず、妙に静かだからアルフォンスが起きて遊んでいるわけでもないらしい。
 もしかして、とトリシャが部屋を覗くと、案の定エドワードはベッドに突っ伏したまま弟と一緒になって眠っていた。
 今日はエドも大騒ぎだったものね、と微笑み、トリシャはまずアルフォンスを抱き上げて少し位置をずらし、次にエドワードを抱き上げてその横に寝かせた。あたたかで少し湿った眠る子供たちの高い体温が、トリシャの中の幸せを感じるどこかを甘くくすぐる。
 同時に、ほんの僅かの寂しさも。
 幸せと寂しさを行ったり来たりする気持ち。
 多分それは、どちらも同じ、胸の奥にある。きっと心臓の裏側の、深い深いどこか、魂の真ん中のあたりに。
 ああそういえば、あのひとやこの子たちの好きな錬金術では、魂は人間を造る大切な一因子だったわね、と考えながらトリシャはベッドに頬杖を突いて子供たちの寝顔を眺めた。
 科学では、魂もまたこの血や肉と同列に並ぶ生きている証のひとつ。
 ああでも、そうなのかしら、とトリシャは思う。
 魂は、このいとしい神様からの授かり物は、そんな生のにおいのする、赤々と脈打つ、湿った体温を持つ、そんなものなのかしら。
 もっと神聖で、もっと神様に近くて、もっともっと───祈りのようなものなのではないかしら。
 ぽそり、とベッドに頬を付ける。枕に広がった金色の髪の毛に、あのひとを思い出す。
 きっとあと何年かすれば、今はまだ甘いお菓子とどろんことお日様のにおいのするエドワードは、あのひとと同じにおいのする少年に、青年にと成長するのだろう。
 その横で駆け回るアルフォンスは、わたしと同じにおいがするのかしら、とトリシャは思う。
 ああでも、男の子だものね、やっぱりあのひとに似てくるのかしら。ピナコ先生には、アルはあんたにそっくりだね、って言われるけれど。
 ねえ、知っているかしら、エド、アル。
 トリシャは胸の中で囁いた。
 今こうやって湿った体温を持っている、お菓子とお日様のにおいのするあなたたちの身体は、あなたたちがおかあさんのにおい、と言って抱きついてくれるこのわたしの身体は、市場で買えちゃうような簡単なもので出来ているのですって。
 水と、鉄と、塩と、ええと……なんだったかしら。お砂糖は入らなかった気がする。
 ああでも、ねえ、あなたたち。
 それを全部集めても、錬金術でお人形を造るみたいにひとの形に仕上げても、でもそれは冷たいお人形なのよね。どきどきと脈打つ心臓を動かして血を巡らせて、湿った体温を持った身体にはならないわね。
 だってお水や鉄は生きてはいないものね。魂のない物だから。
 わたしもあなたたちもあのひとも、みんなそんな簡単なもので出来ているのに、このいとしいと思う気持ちや寂しいと思う気持ちは、一体どこから出てくるのかしらね。
 やっぱり神様からの授かり物なのかしら。魂の中に満ちているものなのかしら。
 トリシャはエドワードの髪をふわふわと撫でた。
 
 ねえ、あなたたち。
 わたしの分身。
 あのひとの分身。
 
 愛しているわ。
 愛しているの。
 
 こんな気持ちはお水や鉄には備わらない。
 お水や鉄は、笑ったり泣いたり寂しくなったりしない。
 
 ねえ、魂が血や肉と同じなのだというのなら、神様からの授かり物はきっと魂ではないのね、あなた。
 
 きっと、命そのもの。
 
 今ここにある、いとしいわたしたちの分身。
 
 ふいに、もぞもぞとエドワードが動いた。どきりとして引きかけたトリシャの手をぎゅうと握る、まだまだちいさな、日に焼けた手。
 その体温に、トリシャはふと微笑んでもう一度ベッドに頬を付けた。
 
 いいわ、わたしも眠っちゃおう。
 
 トリシャはぱたりと瞼を閉ざした。子供たちの寝息が聞こえる。
 
 
 
 目が醒めたら、みんなでお散歩に行きましょう。
 夕焼けを眺めて、道端のちいさな花を見て、きれいだねと笑って。
 帰って来たらご飯を食べて、みんなでお風呂に入って、そうしてぐっすりと眠りましょう。
 
 
 
 明日も晴れるといいわね、こどもたち。

 
 
 
 

■2004/4/23

アルがひとこともしゃべってない……!(愕然)き、気付かなかった。
おかあさんは錬金術解らないのだろうけど、ダンナも息子たちも錬金術使うので、他の一般人よりは詳しそうだなーと。ちんぷんかんぷんの話を楽しげにするダンナをいとしそうに眺めているようなひとだといいなあ。とか妄想。
ところでおかあさんの名前、アニメ公式ページでトリシャとなっていたのでトリシャにしましたが、アニメ限定なんでしょうか。

NOVELTOP