「……兄さん」
「んー?」
 ふと掛けられた声に、オレは活字から目を上げないまま返事をした。僅かに沈黙。
「兄さん」
「なに」
 生身の左手に握った万年筆を紙に走らせながら答える。再び沈黙。
 オレはそこでようやく顔を上げ、広げた本もそのままにこちらに顔を向けていた弟を見た。
「なんだよ」
  アルフォンスは僅かに首を傾げる。表情の読み取れない鎧の身体になってから、アルは極端なボディランゲージを使用するようになった。いや、身振り手振りだけでなく、喜怒哀楽を強く込めた口調や笑い声なんかも含まれるわけだが。
 
 無機物の身体でいることに絶望することもなくそれに馴染む努力をした弟を、オレは実はかなり尊敬している。
 けれどそれは痛みを伴う賛美だ。口には出来ない。
 
「アル?」
 首を傾げたままこちらを注視しているアルフォンスを促すと、また僅かな沈黙を経てからふるふると首が振られた。
「ごめん、なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
「ほんと、なんでもないんだ。邪魔しちゃってごめん。今日中にこれ読んじゃうんでしょ? がんばろ」
 ぽん、と積まれた書籍を叩き、アルは広げたページへと目を落した。しばらく眺めてみるが、顔を上げる気配はない。オレは俯いた顔を覗こうと首を傾げた。机に突っ伏すようにして見上げる。目の部分の赤い光がちらちらと動き、活字を追っている。
「なあ、アル」
「ん?」
 アルフォンスは顔を上げない。さっきと逆だ。
「言えよー。気になんだろ」
「もう、なんでもないって言ってるのに」
 呆れ声で返したアルの目が、ちらり、とオレの方へと動いた。僅かに首を傾げた仕種が無骨な鎧だというのになんだか可愛らしい、と思うのはオレだけだろうか。言えば嫌がるとは思うけど。
「なんでもないってことあるか。言いたいことがあるなら全部言え」
 この間のようなことはごめんだ、と暗に告げたオレに、アルはふと申し訳なさそうに首を縮めた。
「大したことじゃないよ。その」
 アルフォンスは俯く。目の光が隠れてしまうと感情がより一層読み取りにくい。気まずいのか、困っているのか、怒っているのか、悲しいのか、なんなんだ一体。
「えーとね、ちょっと、呼んでみたくなっただけだから」
 
 ………は?
 
 よほどぽかんとした顔をしてしまったんだろう、アルはオレを見て慌てて両手をぱたぱたと振った。
「あ、ええと、別にね? な、何かあったとかそういうんじゃないから! うん!」
「あ、ああああ、そ、そうか! うん! な、なんでもないならいいんだ、うん!」
 どうも照れているらしいアルに負けず劣らず照れて、オレは慌てて本を広げた。思わず髪を掻きむしる。ちらりとアルを見遣るとやはり広げた本に顔を隠すようにしてしきりに照れているように見える。
 その様子にまた照れて、オレは無理矢理活字に目を落した。
 
 オレとアルフォンスは普通の兄弟よりも仲が良い、と思う。
 
 そりゃあ二人っきりの兄弟だから当然と言えば当然だが、昔はそれでもこれほどべったり、と言う事もなかった気がする。まあいつでも行動は共にしていたけど、それは目的が同じで同じ家に住んでいた兄弟だったのだから当然だ。けれど昔は、少なくともオレは、こんなにアルフォンスのことばかり考えてはいなかった。
 
 母さんを生き返らせることを考えていたから、と言うわけではない。人体錬成を考えていた時間が空いて、そこにアルが納まった、ということではないのだ。
 そうではなくて、昔のオレは自分の事ばかり考えていた。
 子供だったのだから当然だ、と自己弁護する気持ちもないわけじゃない。でも思い返してみると、オレはいつでもオレのしたいことにアルフォンスを巻き込んで来た気がする。
 
 人体錬成にしてもそうだ。
 
 アルは言ったのだ。しちゃいけないことだって書いてあるよ、と。けれどそのほんの僅かな反発を、オレは軽々しく退けた。
 アルフォンスだって母さんが生き返れば嬉しいに違いないと信じていて、実際アルだってそれを望む気持ちはないわけではなかったから、結局オレはそこに付け込んだ。
 自分に忠実で、都合の悪いことは理屈を捏ねてねじ曲げるオレと、慎重なくせに結局オレに押し切られるアル。
 そりゃ喧嘩はたくさんした。アルフォンスは根っこの部分はオレ以上に頑固だから、譲れないことは絶対に譲らない。母さんに買ってもらったアルの本に落書きしたときは泣くわ怒鳴るわどつくわで大変だった。オレはぼこぼこにされた。
 あいつは昔っからほんと喧嘩は強い。
 筋力やスピードは似たようなものだというのに、体術だってアルフォンスのほうが実力的に一段上だ。センスの問題だろうか、こればかりは敵わない。………指一本分の身長差のせいではない、と信じたい。
 
 話が逸れた。
 
 まあオレの悪戯にアルが怒る、なんてことは頻繁にあったけど、オレは自分の本当にしたいことはいつだって必ずやって来た。アルフォンスはそんなオレにいつでも付き合ってくれた。錬金術の勉強も、人体錬成も、家を焼いたときも、そして今も。
 
 オレはアルフォンスを元に戻す。
 これは贖罪じゃない、我侭だ。
 
 足を持って行かれたことが罰なんじゃない、それは単なる代償だ。アルフォンスを失ったことこそがオレへの罰だった。
 弟を巻き込んで、何もかも失わせてしまったことこそが。
 
 その罪悪感と苦痛を背負って生きて行くことこそが、神がオレに架した十字架だったのだ。
 
 けれどオレは再び神に背を向けた。
 そして今も、アルフォンスを巻き込んで罪悪の道を歩んでいる。
 罰を受けることを拒み、罪を償うことなく、アルフォンスのためと称してオレの我が侭のために。
 
 オレがアルを失いたくないために。オレがアルに忘れられたくないために。それだけのために。
 
「兄さん」
 
 いつの間にか思いに耽っていたオレははっと顔を上げた。アルフォンスが心配そうにこちらを見ている。
「どうしたの? ……疲れた? 今日はもう帰ろうか」
「あ、ああ、うん」
 取り繕うように笑ってオレは本を閉じた。
「なんか集中できねーや。どうせそろそろ閉館だ、帰るか」
「うん」
 こっくりと頷き帰り支度を始めたアルを、オレはぼんやりと目で追った。でかい身体でちまちまとよく動く。
 積み上げた本を抱えてカウンターへと返しに行くアルを見送り、オレは万年筆とメモをひとまとめにした。無意識に溜息が洩れる。今日もめぼしい収穫はない。
「兄さん、行こう」
「ああ」
 アルに促されて立ち上がり、オレたちは図書館を出た。夕焼けに赤く焼けた通りは家路を辿る足早に通り過ぎる人々ばかりだ。
 そんな人々に混じって宿へと歩くオレの後ろを、アルフォンスが付いて来る。口調や態度ほど控え目でもないくせに、アルフォンスはオレの後を付いて歩くのが癖になっているみたいだ。がしゃんがしゃんと鳴る鎧の足音は、よくよく聞くと割に軽い。
 この間リゼンブールへ向かったとき、壊れたアルを持ち上げたアームストロング少佐がその軽さにちょっと驚いていたけど、アルの鎧はオレの体重より軽い。まあ古物商の奥で埃を被っているような普通サイズの鎧よりは重いけど、それでもせいぜい四十キロというところだろう。子供とは言わないが、大抵の大人よりは軽い重さだ。
 ちなみにオレは身長の割には(自分で言っててもなんか腹立つが)重い。機械鎧のせいだけでなく、鍛えているためだ。ウィンリィにデブ呼ばわりされたときは本気で張り倒そうかと思ったが(アルに止められた)。
 鈍重な見た目に反してアルの動きが妙に軽いのは、肉体がないせいだけではなくその重量のせいもあるんだろう。
 
 ………肉体。
 
 身体があったら、アルは今頃どんな姿だったんだろう。
 標準の十四歳よりは小柄かもしれないが、身長はオレより高そうな気がする。組手の動きから想像するに、手足も長いんじゃないだろうか。
 しなやかで素早い、生命力に満ちた肉体。
 オレが失くさせてしまった身体。
 もう四年も経つ。早く取り戻さなくては。
 
 十歳の頃のアルフォンスの姿をオレは今でもはっきりと思い出せる。写真を持ち歩くような真似はしていないしロックベル家にあるもの以外は家と一緒に焼いてしまったけど、それでも忘れることはない。
 たとえアル自身が忘れても、オレは決して忘れない。
 
「…………兄さん」
 
 ぽつん、とアルがオレを呼んだ。オレは足を止めて振り向く。
 夕焼けに赤く照らされた鎧は酷く不吉で、オレはほんの少し眉を顰めた。
 
「アル?」
 アルフォンスはオレに合わせて足を止め、わずかに首を傾げてこちらを見ている。
「どうかしたか?」
 僅かな沈黙。
 ………既視感。
 アルはふっと我に返ったようにふるふるとかぶりを振った。
「あ、ごめん、なんでもない」
「……また呼んでみただけか?」
「う、うん」
 わずかに吃りながら頷いて、アルはえへへ、と笑い声を上げた。
「早く帰ろう、兄さん」
 ぽん、と肩を叩いてオレを促すアルフォンスに頷いて、オレは再び足を進めた。そうしながら横目で隣に移動して来たアルを窺う。
 
 夕焼けに赤く焼かれた鎧はやはり酷く不吉で、オレの胸を騒がす。
 あの日の腐りかけた魚のような生臭い血の臭いが、鼻を突いた気がした。
 
 ああ、血の色のようなんだ、と気付き、オレはアルから視線を外した。
 
 正面には沈み掛けた大きな太陽。
 
 まるで空の傷口のようだ。
 
 ああ、なんだか予感がする。
 多分、また。
 
「兄さん」
 
 アルはオレを呼ぶ。
 
「……なんでもない」
 
 呼んでいなくては忘れてしまうかのように。
 自分が誰かを。
 オレが誰かを。
 
 オレはアルフォンスを憶えている。
 けれどアルは。
 
 アルフォンスは忘れてしまう。
 
 魂の記憶の保存期間はいかほどのものなのか。
 記憶と脳との関係は。
 
 
 
 
 オレの脳はいつまでもアルフォンスを憶えている。
 
 
 
 アルの魂は、いつまでオレを憶えているだろう。

 
 
 
 
 

■2004/4/17
『ふちをのぞく』のひとつ……かなあ?(なぜ疑問形)
うちの兄さんは何もかも自分のせいだと考え何もかも自分のためだと考えているエゴティストです。よくも悪くも主人公気質。
ところでタイトルが意味が解らなくなりました。あっちとこっちみたいな意味だったんですが(解りません)。……最初と最後で話が違う気がしますが気のせいということにしてください。

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