君の右手は冷たいな、と恋人が言った。
 ボクの右手を柔らかく握っている恋人の左手の体温はボクには伝わらない。
 
 
 
 
 実際、兄さんは上手くやった。
 賢者の石を手に入れた、とその小指の先程の小さな小さな固いゼリーのような感触の赤い石をボクに見せ、兄さんはそれを使って自分の左足を錬成して証拠とした。兄さんの左足は元に戻るのと引き替えに代価を奪うことはしなかったし、だからボク安心して、兄さんにボクの身体を錬成してもらうことにしたのだ。
 元に戻ったら兄さんの右手をボクが錬成してあげよう、なんて甘い夢を見ながら。
 だから目が醒めたとき隣に兄さんがいないのがとても不思議だったし、兄さんの服と靴と機械鎧の右腕だけが転げているのもおかしいと思ったし、連絡が途絶えたことを心配した大佐たちがやって来たときもぼんやりと錬成陣の真ん中に座り込んだままで、造り立ての身体には飲まず食わずで裸で過ごした二日間は相当に負担だったらしく、その後ボクは高熱を出して危うく死に掛けた。
 大佐と中尉たちが捜索してくれたけど兄さんも賢者の石もどこにもなくて、病院で目が醒めるたびに側にいてくれた大佐はとても難しい顔をして試作品の賢者の石は使用限界があって、それを過ぎると灰よりも細かく砕けてしまうのだとボクに説明した。何度も何度も説明した。
 ボクはその意味がよく解らなくて、それは聞いたけれど、では兄さんはどこに行ったんだろうと何度も何度も大佐に尋ねて、あのひとに酷く悲しい顔をさせた。
 
 どれだけ探しても兄さんは見つからなくて、ボクがようやく理解して、もういいです、兄さんはこの世のどこにもいないんですと大佐たちに告げるまで、大佐たちはどこにもいないと解っている兄さんを捜し続けてくれた。
 それは優しい欺瞞だったけれど、ボクはお陰で少しだけ立ち直り、今こうして生きている。
 
 恋人の手を握り、微笑んでいる。
 
 
 
 
 
「君の右手は冷たいな」
 もう一度、この春少将になったばかりの恋人が言った。
 ボクの右手は肉と骨で出来ていて動かしたり物を掴んだりも出来たけど、その掴んだものの感触や熱や痛みを感じることが出来なくて、だから慣れないうちはよく怪我をした。1年で2回骨折して2年で5回ひびを入れた。
 堪りかねた将軍(あの頃は大佐だった)が辛抱強く訓練に付き合ってくれて、それで今ようやくこうして、あまり怪我をすることもなく、感覚のない右腕と付き合えるまでになっている。
「右腕は魂と引き替えに元々無かったものだから」
「それは君の兄の話だろう」
「でも、この身体は兄さんと引き替えに出来ているから」
 将軍は少しだけ悲しそうな顔をした。ボクはこのひとが兄さんを可愛がっていたことを知っている。
 兄さんはボクを愛していたけれどこのひとに恋をしていて、このひとはボクに好きだと言ってくれたけど兄さんに想われていることを心地よく感じていたようだった。
 そしてボクはと言えばその頃様々なひとに想いを分けて、兄さんもこのひとも、このひとの部下たちも幼馴染みも幼馴染みの祖母も師匠夫妻も幼馴染みの親友の少女ももうお墓の中のひとたちやまだ見知らぬいつか出会うひとたちまでみんなみんな愛しくて、だからこのひとの愛の言葉に頷いて、兄さんのキスに笑った。
 ボクが将軍に優しくしてもらうたびに兄さんは幸せなような、悲しいような、そんな優しい顔をした。
 将軍の愛してるの言葉を疑ったことはないけれど、兄さんに抱き締められることをこのひとがそれほど嫌だと思ってはいなかったことを、ボクはちゃんと知っている。そしてそれが嫌ではない。
 今も多分、このひとは兄さんが側にいたのなら、あの鋼の腕に抱き寄せられるままに拒むことはしないのだろう。むしろ抱き締めるあの腕がないことが、このひとの寂しさになっている。
 人間に戻った今のボクにはそれが少し悲しい。
(けれどそれがなんの悲しさなのかは解らない)
「アルフォンス」
 将軍の掌が、ボクの頬を撫でた。真っ黒で光をそのまま反射する石のような眼が、薄く細められる。
「眼を閉じなさい」
 ボクは言われるままに眼を閉じた。掌が耳元へ滑り込み、ゆっくりと唇が触れる。
 キスをするとき、抱き合うとき、そのどちらもの間ずっと、ボクは眼を閉じている。それは将軍がそう望むからなのだけれど、だからボクは、ボクを愛し慈しむこのひとの顔を、一度も見たことがない。
 鎧の頃は、その兜へと僅かに口付ける普段からは想像も付かないほどに優しい顔を時折見ることが出来ていたのだけれど(このひとは、優しい顔をするとき少しだけ老けて見える)。
 唇が深く合わせられた。それに応えながら恋人の背に両腕を回し、ボクは薄く薄く、瞼を開く。
 目の前に睫を伏せた瞼が見える。
 睫はゆらりと震えて、薄目を開けたボクを見た。うっとりと弛んだ光を乗せていた黒い瞳がすうと醒めていく。その中に映る金色の光は爛々と強く輝いていて、離れて行く唇をボクはその獣のような瞳の眼でぼんやりと眺めた。
 左手だけに感じる、熱い身体が冷めていく。
「………ボク、どうして将軍が目を閉じろ、と言うのか解ったよ」
 将軍が、困ったような顔をした。優しくボクの顔を撫でて薄く微笑むその顔は慈しみに満ちているのに、眼の光だけが硬質で、その感情の伺い知れない双眸はボクの金の瞳を見ている。
 ボクは視線を落とした。
「この眼、」
「とんだ置き土産だ」
 ボクの言葉を遮って、そう戯けたように言った恋人に、ボクは少し笑ってしまった。将軍もくすくすと笑い返して、ボクを緩く抱き寄せる。ほとんど身長の変わらない、むしろこのひとの方が目線が低いくらいのボクらでは、男女のようにどちらかがどちらかの胸に顔を埋めることなんか出来ず、ボクらはお互いの肩に頬を預けてただ体温を感じた。女のひとのように柔らかくない身体同士ではぴたりと隙間を埋めることは出来なくて、兄さんとこのひともそうなんだろうか、とボクは考えた。
 けれどボクと兄さんなら多分きっと、全部溶け合ってしまうくらいにぴったりと、隙間なく、魂の内側まで───きっと。
 それは、このひとの寂しさに繋がるのだろうか。
(そしてボクの悲しさに繋がるのだろうか)
(だってボクはもう兄さんと抱き合えない)
「兄さんの眼なんだ」
「……ああ」
「この眼は愛せないんでしょう、将軍」
「……………」
 無言の返答は肯定だったけれど、ボクはそれに感謝した。
 兄さんの恋と、兄さんを愛しているボクへの気遣いに、ボクは心から感謝した。
 ボクはこのひとをとてもとても愛しているけれど、それでもここに置いて行く。
(このひとは再び兄さんと抱き合える)
 彼を置いて行ってしまうボクをまだ愛してくれることが、兄さんを愛しているボクをその気持ちごと愛してくれることがとてもとても嬉しくて、ボクは少しだけ、泣いた。
 彼のための涙ではなく、多分、自己のための。
 
 ああ。
 
 兄さんの魂の一部が、ボクにくっついているかのようだ。
 この自己愛。
 兄さんを愛することは自分を愛することのように思えた。ボクと兄さんは二人で一人のように感じる。ボクらは既に離れがたく融合していて、だからもう二度と出会うことはないのかと、
「アルフォンス」
 低い低い声が、優しくボクを呼ぶ。
「………どうしてもやるのか」
 ボクは兄さんの眼で将軍を見つめて、研究室で輝いている、小さな赤い石のことを考えた。六年掛けて探し回って漸く手に入れた賢者の石の試作品の、ひとつ。
「兄さんが戻ってくるよ、将軍」
「私は君が居れば、それで構わない」
「そうだね。兄さんがボクを呼び戻す、と言ったらそのときは同じことをあのひとに言ってあげて」
「あれはそんな言葉では止まるまいよ」
「ならボクも止まらない」
 ボクは微笑み、恋人の肩口に額を寄せた。軍にいると華奢な、けれど組み手をする相手のない今のボクよりもずっと鍛えられている長い腕が背を包む。温かい、生きた体温。
「………あなたが好きだ」
「珍しいな、君からそんな言葉が聞けるとは」
「そうですか?」
「そうだよ。君は誰の好意も受け入れはするが、それを言葉で返すことはしないだろう、昔から」
「昔って、鎧だった頃? あの頃は、だって」
「今もそうだ」
 ふ、と笑った将軍の腕が強くボクを抱き締めた。息が止まるのではないかと思うほどの抱擁に、ボクは身体が軋む音を聞く。
「………行くな、よせ。君の兄の分まで、私が君を愛しているから」
「将軍、」
「成功するとは限らない。むざむざ君を失うことになるかもしれない。そんなことは」
「将軍、ボクはあなたのものではない」
 ぎり、と小さく歯軋りの音が聞こえた。そんなことはこのひとは疾っくに承知しているのだ。
 ボクは薄く笑って恋人の背を抱き返す。
「ボクは兄さんのものなんだよ、昔からずっと。だってこの魂は兄さんの右腕なんだから」
「───アルフォンス」
「兄さんをよろしくお願いします、将軍」
「アルフォンス」
「大丈夫、必ず成功するから」
 だって賢者の石があるんだよ、と笑うと、それでも鋼のは行ってしまったじゃないかと恋人は年に似合わない拗ねた口調で呟いて、後はもう何も言わず、ボクの瞼に口付けた。
 ボクは彼の望み通りに眼を閉じて、やってくる波をただ受け入れた。
 
 
 
 兄さんはボクに刻印を残した。
 その刻印はあのひとに容赦なく兄さんを思い出させてあのひとはそのためにボクを奪い尽くしてしまうことが出来ない。そのためにボクはあのひとのものになることは出来ない。
 その刻印はボクをいつまでも兄さんのものにするためのもので、それは兄さんの独占欲の現れだ、とボクは知っている。あのひともきっと気付いてる。
 兄さんはボクもあのひとも愛したけれど、兄さんのいない世界であのひとにボクが奪われてしまうことを赦しはしなかった。
 
 だからボクも、兄さんにひとつ刻印を残す。
 たとえば。
 声、を。
 
 ボクは薄く微笑んだ。
 ロイ、と囁く兄さんの唇から洩れる声は甘く優しいハイテノールで、ハイバリトンだった兄さんのものとは違う。
 愛を囁く言葉は全てあのひとの抱き締めたあのひとの愛したあのひとの恋人だったボクのもので、あのひとはその声に、否応なくボクを想う。
 
 あのひとは兄さんのものにはならない。
 
 ああ、ボクは兄さんと二人で一人のように思っていたけれど、独占欲の在処はこんなにも違う。

 ボクは兄さんと同じものではないのだろうか。
 ボクは兄さんと同じ場所にはいないのだろうか。
 ボクは兄さんと二度と会うことは出来ないのだろうか。
 
 ボクらは無限にループする。
 螺旋は鋭く弧を描き止まることなく下降する。
 
 底の見えない螺旋の先を、地獄と呼ぶのだろう、と考えて、ボクは血の滴るような赤い石を思った。
 
 
 
 これはあの赤い石のうちに込められた、呪詛と死による罰なのだろうと、ボクは思った。

 

 
 
 

■2004/11/16

なにやらよく解らん。
エド→ロイ→←アルの片思い無限ループ。でも兄弟は愛しあっているのでエドアルなんですが分類不能ゆえアルフォンス話。別名エルリック兄弟に迷惑被る大佐の話。(まんまだよ)

アゾットはパラケルスス(ホーエンハイム)の持っていたという短剣(?)の銘です。柄に悪魔が封じられていてパラケルススは悪魔を自在に向かわせてひとを殺させたとか賢者の石が付いてて傷や病を癒したとか悪魔を退けるとか色々胡散臭い伝承のある剣みたいですがほんとに持っていたかどうかは不明。
また、Azothには始まりであり終わり、すなわち全一の意味もあり、フラメルの十字やウロボロス、そして賢者の石と同義である…とかなんとか。水銀の転化した言葉だとかも言われるらしいですが。よくわからない。

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