「いたたた、ちょっと兄さん痛いって! 左手のほう痛い!」
「あ、わり。お前頭皮薄いんじゃねえ?」
「ていうか久々のお風呂だもん! そりゃ弱ってるよ!」
「だからも少し体力付けてから入れって言ったのに」
 バスタブの縁に腰掛けたままわしわしと長く伸びてしまった金髪を髪を洗っていた兄の呆れた声に、アルフォンスは肉の削げ落ちた、けれど瞳だけはきらきらと生命力にあふれている顔でぶうとむくれた。
「だから一人で入るって言ったのに」
「ばーか。風呂は体力使うんだっつうの。ぜってえ途中で倒れるって、お前」
「倒れませんー」
「たーおーれーる。おら、目ェつぶれ」
「ぶっ、ちょ、」
 瞑れ、と言ったときにはざあと掛けられたシャワーの温い湯に、アルフォンスは慌てて両手で顔を覆った。掌の下で湯気にむせる。
「おっ、と、アル! 大丈夫か!?」
「ばっ……急に、やめてよ! 手伝うならもっと丁寧にしてよ!」
「平気みたいだな」
「平気じゃないって……ッ、も、うわ、にがあ」
 口に流れ込んだ泡に顔を歪めて舌を出し、両手を揃えて差し出したアルフォンスの肉のない掌に、エドワードはシャワーの湯を注いだ。アルフォンスはぶくぶくと口をすすぐ。
「まだしぶしぶする……」
「もっとすすぐか?」
「だいじょうぶ……」
「あー、目ぇこすんな」
 泡に目をしょぼつかせた顔を上向けて掌伝手で湯を掛けてやり、そのまま上を向かせたままエドワードは細く荒れてしまった金髪から残りの泡を流した。アルフォンスはおとなしく目を閉じてバスタブの中で膝を抱えている。
 そのもう十五歳にはなる年齢の割に華奢な骨の形の突き出た膝小僧を眺め、エドワードは目を細めた。
 成長期の直中に著しい栄養失調に陥らざるを得なかった肉体は、ほとんど拘束されていたにも等しい状況も相まって身長こそ伸びてはいたがその成長に見合うだけの筋肉も骨格もできあがってはいなかった。
 筋肉はこれからのリハビリでそれなりに付いてはくるだろうが、骨格はどうか解らない。アルフォンスよりも栄養状態の遙かによかったはずの己の右手ですら、左手と比べると手の大きさも腕の長さも見てはっきりと解るほどに違うのだ。身体中で右腕だけが骨も細く関節も華奢で、傷一つない日焼けのない白い肌も加わり女の腕のようだ。
 それが全身となれば、果たしてどれだけ取り戻せるものか正確に予測などできない。
 しかしそれは言わずに、エドワードはぽん、と弟のまるく整った形の頭に手を置いた。
「もーちょっと肉付けて、そしたらリゼンブールに帰ろうぜ、アル」
「今すぐ帰りたいけど」
「車椅子やだっつったのお前だろうが」
 ぎゅー、と長い髪を絞ってやるといたた、とまたアルフォンスが文句を言った。
「抜ける!」
「こーしてまとめるとお前髪少ないなー。もさもさしてたからもっと多いかと」
「栄養不足で髪が細いだけだもん! ハゲじゃないやい!」
「いやあ、栄養不足でハゲてんじゃねーの?」
「ハゲてないもん! もー、早く切りたい!」
 本気にでもしたのか半ば涙目のアルフォンスに笑い、エドワードはぶつぶつと文句を言いながら髪を掻き上げている弟の痩せた横顔を見下ろした。
「……なあ、アル」
「んー?」
「お前、俺が行かなかったらどうするつもりだったんだ」
 アルフォンスは首を捻るようにしてエドワードを仰ぎ見た。
「行かなかったらって、真理に?」
「おう。まさか扉を代価にする方法に気付いてたのか?」
「気付いてなかったよ。さすがだよね、兄さん。そういう方法があったのかって、ボクびっくりした」
「持ち上げたって何も出ねーぞ。んじゃなくて、」
「来るって知ってた」
 アルフォンスは太陽色の瞳でエドワードを真っ直ぐに見詰めた。まるい大きな瞳は、けれど記憶にあるより幾分か凛々しさを乗せて大人びている。頬にふっくらと肉が乗れば実年齢よりも幼くは見える童顔だろうと想像はつくが、それでも失われた年月が確実に存在したことを示している。
「兄さんなら必ずなんとかするって、知ってたよ。だから心配なんかしてなかった」
「お前」
 エドワードは呆れた溜息を吐いた。
「そんでもし俺が何も思いつかなかったらどうする気だったんだ」
「どうする気ったって、でもあの時はあれが最善だったんだもん。仕方ないじゃん」
「ほんとに焦ったんだぞ。くそオヤジは自分を使えとか言い出すし」
 アルフォンスは目を丸くして眉を吊り上げた。
「えっ、何それ! バカじゃないの!」
「まったくな。またどっか行っちまったなー、あいつ。次会ったら殴ってやる」
「なんで兄さんが殴るのさ。怒るならボクでしょ」
 ぷりぷりと怒っているアルフォンスの肩に温かな湯を掛けてあたためて、エドワードはコックを捻った。
「ほら、もう上がれ」
「うん。あー、さっぱりしたー」
 バスタブの縁を掴んでよろよろと立ち上がるアルフォンスを支え、エドワードは大判のバスタオルを頭から被せた。タオル地の下でアルフォンスがもぞもぞと水気を拭く。
「………ね、兄さん」
「何だ?」
 アルフォンスの静かな声が、どこか挑むような響きで囁いた。
「ボクは錬金術を使うよ」
 用意していた着替えを手に、エドワードは振り向く。アルフォンスはバスタオルを被ったまま、濡れた長い金髪の奥からじっと見詰めていた。意外と頑固で意志の強いアルフォンスらしいきっぱりとした声が、その唇から放たれる。
「ボクは錬金術師をやめない」
「別に使えばいいじゃん」
 あっけなく頷くと、アルフォンスはぱちくり、と大きな目を瞬かせた。優しいカーブを描く眉がくうと下がる。
「え、けど、錬金術がなくてもいいって、真理が正解だって……」
「そりゃ、俺の真理だろ。俺の答えだ」
 頭からバスタオルを下ろして肩に被せ、エドワードは少しばかり情けない顔で見ている弟に笑った。
「お前にはお前の『正解』があるだろ。お前の真理はお前の中にある」
 骨に皮が被るだけの胸の真ん中をとんと叩き、エドワードはほら、と着替えを差し出した。アルフォンスはぽかんとエドワードを見詰め、反射のようにそれを受け取る。
「……そっかあ。やめなくていいのか」
 ぽかんとしたまま呟いたアルフォンスに、エドワードはふん、と鼻を鳴らした。
「あったほうが便利だろ」
「便利っていうか、錬金術でなきゃできないこととか、あると思うし……もちろん師匠が言ってたみたいに、錬金術なんか使わなくたっていいし、使うべきじゃないんだけど」
「俺は使うべきじゃないなんて思わねえけど、でも師匠はやっぱすげえよな」
「うん」
 頷き、アルフォンスは感慨深げな顔をした。
「兄さんと兄さんの真理を見て、ようやく師匠が言ってたことが解った気がするんだ、ボク」
「そっか」
「扉のことは、まだよく解んないんだけどね。ボクはボクで、もっと考えなくちゃ」
「おー、いい心掛けだ」
 一人決意を込めた様子で頷くアルフォンスに笑い、エドワードはふと口を噤んだ。それから幾分か表情を引き締めて弟を窺う。
「お前、でかい代償使わせたとか思ってんじゃないだろうな?」
「思わないわけないけど、でも言わないよ」
 言ったも同然の言葉に、エドワードは頷いた。感情と意志はそぐわないことが多々あるものだ。それを、喩え兄だとしても、他人が操ることはできない。だからアルフォンスが理解をしているのならそれで構わなかった。
 アルフォンスの心はアルフォンスのものだ。今も昔も、これからもずっと。エドワードのものであるものなど、一つもない。
 けれど僅かな繋がりを感じる。混線した精神はきっとまだ絡まったままで、だから多分、扉を失ったエドワードは、アルフォンスを通して世界と繋がる。
 
 全と一とを弟の扉を通して、身の裡に抱く。
 
「ならいい。アルフォンス」
 身体を拭いていたアルフォンスはそのまま顔も上げずになあに、と鎧の時よりも少しだけ低くなりかけていた声で返した。エドワードはバスルームの隅に置かれていた椅子を引き寄せ、弟に向き直る。
「おかえり」
 アルフォンスは顔を上げた。縺れる金髪の奥から、その金色と同じ色の瞳が笑う。
 アルフォンスの真理は責める存在ではなかったな、とエドワードは思う。素直で聡明で頑固者のこの弟は、疾うに正解の欠片を手にしているのだろうと、そうも思う。
 
 驕り高ぶる錬金術師を嗤う真理は、しかし気高き理想を嗤うものなのかと。
 
「ただいま、兄さん」
 おう、と笑い返して、エドワードはよろよろと立っていた身体を強引に椅子に座らせ濡れた髪をわしわしと撫でて余計に縺れさせ、痛い痛いとアルフォンスを喚かせた。

 

 
 
 
 
 

■2010/06/24

Alkimiya=Alchemy

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