独特の風味のあるお茶を淹れて戻ると、少年はこちらに背を向けマントルピースに所狭しと置かれていた写真立てを眺めていた。まだまだ幼い細い肩に成長を見越したものか少しばかり大きめの赤いコートをふわりと羽織り、ひとつに束ねた濃い金髪を背の中心に流している。 「お待たせしてごめんなさいね」 少し首を傾げた姿勢で写真を眺めていた少年がはっと振り向いた。蜜を流したかのようなくりくりとした金眼が、ぱちりと瞬く。 「いいえ、こちらこそすみません。どうぞお構いなく」 「……どうぞ、座って」 少年は頷いて、促されるままにソファに腰掛けた。 「せっかく訪ねて来てくれたのに、残念だったわ」 「……お父様は、いつ?」 「去年の暮れに……若い頃に大怪我をしたとかで、もともとあまり丈夫なひとではなかったのよね」 「お母様は」 女は小さく肩を竦めて、苦笑をした。 「もう十年も前に。私を産んで、産後の肥立ちがあまりよくなくて寝たり起きたりを繰り返しているひとで……私は遅い子だったから」 そうですか、と頷いて、少年は少し視線を落とし、それから目を上げた。 「残念です。直接会ってお礼が言いたかったのに」 「……お礼?」 「ええ。昔、マスタング大佐とホークアイ中尉には、兄さん共々大変お世話になって」 「昔…?」 女はまじまじと少年を見た。どう見積もっても十五にも届かない少年が、それこそ父母の昔々の呼び名で彼らを呼ぶことが奇妙に思えた。 昔話として幾度も聞いたことはあるものの、女の知る限り、国外追放を受けこの国へとひっそりと住まった後に父母がそう呼ばれていたことはないはずだ。 肩書きを全て外されて、国籍すら失い、砂漠を横断して僅かに縁があったというシン国へと渡り、それから更にこの小さな国へと住み着いたとき、母は四十に手が届くというのにまだ旧姓のままだった。 本当なら、彼女は祖国へと置いて来たかったのだけれど、と。 暖かい暖炉の前で幼児だった女を膝に乗せ、年老いた手がゆっくりと黒髪を撫でながら愛おしそうに苦笑した、その声を憶えている。 父母は、女の年齢からすればとても年老いてはいたけれど、娘の目から見ても仲睦まじかった。父は母をとてもとても愛していた。 思案の淵に沈んでいた女をじっと優しい視線で見詰めていた少年が、ふっと音を立てずに立ち上がった。女は眼でそれを追う。 「どうかした?」 「訃報を伝えます」 「え?」 少年はにこりと微笑み、真っ直ぐに立った。 「エドワード・エルリックが十四ヶ月前、五十一歳で亡くなりました。マスタング大佐とホークアイ中尉には大変お世話になりましたから、直接お礼を言えないことをとても気にしていました。だからボクが、代わりに」 「ああ……」 息子か孫なのか、と瞬いている女を余所に、少年は続ける。 「アメストリス国は十二ヶ月前、ドラクマ国へと無血のままに降伏し、今は仮にドラクマ国領アメストリス州となっていますが、直に名称も改められるでしょう。アメストリスという国は、事実上消滅しました。エドワード・エルリックは辛うじて、アメストリス国籍のまま没したことになります。また、ロイ・マスタング元大総統とリザ・ホークアイ元大総統補佐におきましては、二年前からアメストリス国籍が戻され、現在はドラクマ国籍が与えられています。ですから、もしお望みなのであれば、あなたはドラクマ国民のご両親の代わりにドラクマ国の国民として、元アメストリス国領地へと帰還することが可能です」 今すぐ決める必要はありません、と少年は懐から一通の封書を出し、そっとカップの隣へと置いた。 「いつでも、お気が向いたときにはこちらへ連絡をしてください」 「………え、」 「アメストリスは自主領として独自に政治を行うことが、今は許されています。ただし今のアメストリスには、マスタング元大総統の築いた精神を受け継いで行く者がいません。アメストリスという国が亡くなるのは構いませんが、しかしドラクマは戦争大国です。アメストリスは自主領ですが、ドラクマ国領である以上はあのひとの求めていた、次代の平和は形を成すことはないでしょう」 「あの、」 「ですから、あなたはアメストリスへとやってくれば必ず政治に巻き込まれると思います」 女はぽかんと瞬いた。 「私が? 何故?」 「マスタング大佐の一人娘であられるからです。あのひとの思想を受け継いでいる可能性があるからです。それ以上に───あなたがご両親から受け継いだ、その血に意味がある、と、考える人間が多いからですよ」 ドラクマ国は王室があります、と少年は薄く眼を細めた。 「多国籍だったアメストリスとは違って、血族というものにとても力があるんです。そういうものに対抗するためにはこちらも血族を手に入れる必要があると、そう言う者もいるんです。ただボクはそれがいいことか悪いことか解らないし、何を主旨とするかによっても大きく違ってくるものだと思う。───あなたは一度もアメストリスの土を踏んだことがないんだ、無理強いはしたくない。だから、引き受けたんです、この仕事を」 「………急に、言われても」 「ええ、だから、何年掛けて考えてくれてもいいし、後から気が変わったっていいんです。ただアメストリスに来てしまえばきっとあなたはもうこの土地に帰ることはできないから」 ゆっくり決めてください、決めなくてもいいんです、と微笑んで、少年はふと踵を返した。 「あの」 「すみません、シン国にも寄らなくちゃいけなくて───直接情勢を伝えたかったんだけど、あっちに寄ったらしばらく放してもらえないだろうって思って、素通りしてきちゃったんです。ボクがアメストリスを出てから半年以上経ってるし、なにが起こっているかも解らないから、急がなくちゃ。お暇します」 「そんな、せめて今日だけでも泊まって」 子供が出歩く時間じゃないわ、と言うと、少年は驚いたように瞬き、それから小さく笑った。 「そうですね、子供が出歩く時間じゃない。若いお嬢さんが出歩く時間でもないですよ、お見送りも構いません。道は解ります」 それじゃあ、とかつ、と踵を鳴らし掛けて、それから少年はふっとマントルピースの上の、先程まじまじと眺めていた写真をもう一度見た。 「………あの、不躾なお願いだとは解っているんですけど」 少年は写真立ての中でもとびきり古い、若い頃の父母とその部下だったという若者たちと、小さな気の強そうな少年と、大きな鎧の写っているものを指差した。皆楽しそうに笑っている。この小さな少年と大きな鎧は兄弟なのだと、本当か嘘かも解らないおとぎ話のような不思議な兄弟の話を、女は幾度も父と母から聞いていた。父母は自分たちの話はあまりしなかったけれど、その代わりのように、強くてひたむきな兄弟の話を、たくさんたくさんしてくれた。 「これ………いただけませんか?」 少年は恥ずかしそうに肩を竦めた。 「ボク、兄さんや自分や故郷の写真はたくさん持っているんですけど、実はマスタング大佐たちの写真は一枚もないんです。なんだか撮り損ねちゃったっていうか……多分、エリシアのところに行けばあるんだろうけど、あのひとの撮った写真は───全部、エリシアとグレイシアさんのものだから」 すみませんご迷惑でしたらいいんです、と恐縮する少年に微笑んで、女は写真立てから古びた一葉を取り出した。 「はい、どうぞ。いいのよ、アルバムにまだ何枚もあるから、構わないわ」 ありがとう、と嬉しそうに満面で笑って、少年は瞳をきらきらとさせて写真を眺め、それから大事そうに懐へとしまった。 「それじゃ、ボクはこれで。慌ただしくってごめんなさい」 「あ、ねえ、あなた」 ぱたぱたとほとんど駆け出すようにして出て行きかけた少年が、振り向く。 「名前を訊いていないわ。あなたは誰なの? そんなに小さいのに、あんな遠い国からわざわざ──私にこんな話をしに来たのはどうして?」 少年はぱちぱち、と大きな眼を瞬かせ、それからあはは、と声を出して笑った。幼い手が、自らの胸を差す。 「ボクはアルフォンス・エルリック」 おとぎ話の兄弟の、鎧の弟の名を名乗って少年は朗らかに笑う。 「ボクは───セブン・シン。兄さんが、兄さんの死んだ後もボクが死んでしまわないよう、造り上げてくれたティンクトゥラ、そのもの」 だから、と少年は囁いた。 「ボクは───もはやおとぎ話そのものなんです。ボクはこれからたくさんのものを見て、たくさんのことを記憶して、たくさんのひとにそれを伝えていくのだと───ボクは先遣りになるのだと、そう決めたんです」 だからこれはそのひとつめです、と続けて、そうだ、と少年はポケットをあさった。 「これをどうぞ。お守りにしようかと思っていたんだけど、相応しいひとがいるのだから渡さなくちゃ」 手を取り、ちゃら、と掌に置かれたそれはずしりと重い懐中時計だ。 「………国家錬金術師の?」 「ええ、マスタング大佐のものだったんです。あのひとは国を出るとき、置いていってしまったので……エリシアが持っていたのだけど、ボクが旅に出ると知って、お守りにとくれたんです。でもあなたが持つのがいいと思うから」 女は銀時計をまじまじと見詰めた。少年の温かい手が、離れる。 「それじゃあ、さようなら。いつかまた」 声に慌てて顔を上げると、もう少年はいなかった。遠くなる足音を追い掛け閉じた玄関の扉を開けて外に飛び出しても、夕闇が訪れたその田舎道に、少年の姿はなかった。 ティンクトゥラ、と。 少年の、到底信じることのできない言葉を反芻して、女はじっと銀時計を見詰めた。 傷だらけの銀は鈍く深く輝き、これを持っていたというひとが、どれだけ丁寧に磨き上げてきたのかを物語っている。 それを、引き継いでいくのだと。 父を母を、その血を───継いでいくのだと。 女は踵を返し、玄関の扉を閉じて居間へと戻った。 少年が一口も口を付けなかったカップの横に置いたアメストリス国の印で綴じてある封筒を拾い上げ、ソファに腰掛ける。高々と足を組み肘掛けに頬杖を突く姿勢は、父の癖がいつの間にか移ってしまったものだ。嫁の貰い手がなくなるぞとよく笑われたものだったが、叱られたことは一度もなかった。 この中に何が書いてあるのか、それはまだ解らない。一体誰が、この自分を必要としているのかも、それも知らない。 父母の、国とその民へとに懸けた人生を、女はさほど知らされてはいなかった。彼らは自分たちの人生をあまり語らなかった。ただ、どれだけの愛しい者に恵まれていたのかを、それを語ってくれたのみだった。 女は封へと指を差し込み、蝋を剥がした。幾枚も綴られた手紙を引き出す。 少年の残して行った温くなったお茶で唇を湿らせて、女は折り畳まれた便箋を開いた。 長い夜になりそうだった。 |
■2006/9/10
「お前其れは、不幸の先遣りに違いないよ」
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