2 / 海  


 
 パニーニャの両脚は義肢だ。
 
 高速道路での大規模な玉突き事故で両親を亡くし両脚を失くしたのだと聞いたときにはアルフォンスには想像の付かない壮絶な人生にどう言葉を返していいのか解らなかったが、パニーニャは「でもあたしは運がよかったよ」とあっけらかんと笑った。
「ドミニクさんに引き取って貰えたし、脚も貰えたしね。でも海で泳げなくなっちゃったのがちょっと残念かなー」
 あはは、と笑うパニーニャはプールでも足の届く浅いところでしか泳げない。鋼の脚は決して浮かばず、生身の部分を水の底へと引き込んでしまう。
 
 だからアルフォンスは海に誘った。海水浴が出来て機械鎧の隙間に砂が入り込んで不具合を起こしてしまう砂浜ではなく、遊泳禁止のごつごつとした岩場の奇観の海へ。
 
「ッわー! 凄いねえ、こんなとこあったなんて知らなかったよ」
 ばさばさとパニーニャの白いワンピースの裾が強い風にさらわれる。膝丈のボトムを下に重ねているとは言えめくれたスカートから覗く足を見るのがなんとなく憚られて、アルフォンスは慌てて海へと目をやった。
「電車で二駅なんて、かえってわざわざ遊びになんて来ないでしょ」
 そうだねえ、と笑ってパニーニャはひょいと岩場へ飛び乗った。剥き出しの機械鎧は柔軟に少女を受け止め、その身軽な動きをサポートする。
「転ばないでよ、パニーニャ」
「陸上部のホープに何言ってんの。転ぶわけないでしょー」
「油断してると危ないってば。兄さんとかそれでしょっちゅう怪我して帰ってくるんだから」
「まあ、エドはねえ」
 あはは、と笑ってあっという間に一番高い岩によじ登ったパニーニャは、そのてっぺんに片足で立って額に手を翳し水平線を眺めた。褐色の背を首の後ろで結んだワンピースの長いリボンが撫でて行く。
 深呼吸をする。
「海の匂いだー」
「潮の匂いだね。好き?」
「そうだね、好きだよ」
 見下ろしたくりっとした黒い眼が、三日月型に笑む。
「ありがと、アル! 誘ってもらわなかったら今年も海に来そびれてたよ」
 アルフォンスは笑みを返す。
「夏じゃなくても、パニーニャが来たいなら秋でも冬でも春でもいつでも連れて来るよ」
「冬の海は寒いよー?」
「たくさん厚着して手袋してマフラーしてカイロ持ってあったかくして来ようよ」
「耳当ては?」
「耳当ても。白いもこもこしたやつにしよ」
「うさぎのヤツ?」
「そ、それはボクはちょっと……」
 似合うと思うのに、と言って悪戯っぽく笑うパニーニャに、もー、と形ばかりむくれて見せてアルフォンスは岩場によじ登った。
「気を付けて」
「空手部のホープに何言ってるんだか」
「空手と岩登りは関係ないよ」
「陸上と岩登りも関係ないよ、パニーニャ」
 よいしょ、と少女よりも一段低い岩に座り、アルフォンスは足をぶらぶらと揺らす。
「パニーニャさ、体操部からも勧誘来てるんだって?」
「あ、うん。この間高等部の先輩がわざわざ教室まで来たんだ。恥ずかしかったよー」
「人気者だねえ」
「アルこそ柔道部とかレスリング部からも勧誘来てるって聞いたけど?」
「うん。でも兄さんにバレると絞められるからこっそりね」
「あは、ほっといてやれ! って?」
「うん。アルの好きにさせろーって」
「ブラコンだ」
「弟離れ出来てなくて困った兄さんだよね」
「アルだって兄離れ出来てないじゃない」
「ボクはブラコンじゃなくてマザコン」
 自分で言うー? とけたけたと笑うパニーニャにちょっと危ないよ、と慌て、アルフォンスは手を差し出した。
「ほら、座って」
「大丈夫だよ」
「もし転んだらどうするんだよ! 痛いだけで済めばいいけど、大怪我でもしたら困るでしょ」
 アルは心配性だなあ、と言ってパニーニャは素直に腰を下ろした。アルフォンスの頬の横で鋼の脚がぶらぶらしている。
「アルはさー、進路どうするの?」
「普通に高等部に行くけど?」
「でも、すぐ大検取るんでしょ」
「んー……それより国家錬金術師資格取りたいなー、とか」
「今でも取れるんじゃない? エドみたいにさ、えーと…なんだっけ? あのひと。黒髪の」
「マスタング先生?」
「そんな名前だっけ。エドの家庭教師のひと」
「そんな名前だよ、ロイ・マスタングさん。院の第2研究室の主任してる。あのひとがどうかした?」
「うん、だからさ、あのひとに推薦してもらえば? エドが取ったのってたしか中一のときだったじゃない。先生に推薦してもらって受験したんでしょ?」
「まあ、普通は中学生が受ける試験じゃないからねえ。でも、推薦っていうか、18歳まで先生が勉強の面倒を見るから、って条件で受験出来たんだよ。ボクまで迷惑掛けちゃ悪いよ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
「…どうしてそこまで面倒見てくれるの?」
 首を傾げたパニーニャを見上げ、アルフォンスは金の眼を細めた。年相応の童顔がどことなく大人びた表情に変わる。
「うちの父さんってさ、ボクにはよく解んないけどなにか凄い研究してたりするらしくてずっと研究室に泊まり込んでてうちにはほとんど帰って来ないんだけどね、先生が大学生の頃に父さんが色々と便宜を図ってやったことがあったらしいんだ。そのツテでね」
「あ、そうなんだ」
 ふーん、と呟いたパニーニャの横顔をアルフォンスは眩しげに見上げた。
「パニーニャはどうするの、進路」
「うーん……高等部には行かずになにか手に職付けたいなー、とか」
「………ドミニクさんはなんて言ってるの」
「大学まで行きなさい、って言うのはリドルさんとサテラさんだけどね。ドミニクさんはあたしの好きにしろって」
「パニーニャは学校嫌いなわけ?」
「ん、大好きだけど」
「陸上続けたくないの?」
「続けたいけど」
「………遠慮しているんならそれは『好きなように』ってことではないと思うけど?」
「うん、そうなんだけどね。でも悪いなあって思っちゃうのはどうしようもないじゃない? あたしがドミニクさんたちを好きな証拠だもん」
 アルフォンスはパニーニャ、と名を呼び岩に突いていた細くしなやかな指をそっと取った。まだ子供のまるまるしい感のある指は、それでも青年となる準備を始めているのか関節が目立ち、長い。
 パニーニャはぱちぱちと眼を瞬かせ、金色の睫がくるりとした金の眼を見下ろした。
「どうしたの、アル?」
「ボクね、前々から思ってたんだけど」
 アルフォンスは小首を傾げる。
「パニーニャにとってドミニクさんてお父さんか…おじいちゃんみたいなひとじゃないの? ただの恩人?」
「ただの、って言い方は酷いなあ」
「あ、ごめんね」
「いいけど。アルが悪い意味でそんなこと言う子じゃないのは解ってるし」
 機械鎧のリハビリで学年が2年遅れている年上の同級生は猫のように口角の僅かに上がった口をきゅうと引いて笑った。
「すっごく大事なひとだよ。……そうだね、お父さんは死んだお父さんだけだけど、おじいちゃんとかいたらドミニクさんみたいに好きだったかなって思うよ」
「じゃあさ、解るよね」
 アルフォンスは真面目な顔で続けた。声変わりのなかなか来ない(アルフォンスの密かなコンプレックスだ)可愛らしい声が真摯だ。
「パニーニャがさ、一生懸命好きなこと頑張って、キミに合う仕事とかに就いて幸せになったほうがドミニクさんたちは喜ぶって」
「………うーん」
「パニーニャが遠慮しちゃうのがドミニクさんたちのことが好きだからって言うのはよく解るけど、でもほんとに感謝してるなら、パニーニャは誰より幸せにならなきゃ」
「あたしは幸せだけど?」
「それって自己満足だよ、パニーニャ」
 う、と呟きわざとらしく胸を押さえてパニーニャは笑った。
「ぐっさり来ました、今の」
「ごめんね」
「ごめんねって言えば全部済むと思ってるー?」
「そうじゃないけど、でもこういうことパニーニャに言えるのってボクかウィンリィだけだもん。だから言うよ」
 夏の少し前に好きなんだ、と告白して来たときと同じくらい真剣な顔で言う年下の可愛い恋人に、パニーニャは頬が綻ぶのを感じる。
「そっかあ」
「うん」
「それじゃあ仕方がないなあ」
「でしょ」
 アルフォンスはふと子供の顔で笑ってきゅ、とパニーニャの指を握った。
「ま、パニーニャがなにかしたいことがあってどうしてもそれをしたいから高等部は行かないっていうなら止めないけど、でもドミニクさんやリドルさんたちにちゃんと相談してからにしなよね」
「って、アルはあたしと高校行きたくないの?」
「行きたいけど、そんなことよりパニーニャの進路が大事でしょ」
 言って立ち上がり、アルフォンスは腰に手を当てて首を傾げた。
「じゃ、帰ろっか」
「えー、まだいいじゃない」
「ダメ。1時間経っちゃったから。リドルさんに潮風は1時間までって言われたし」
「帰ったらちゃんと手入れするから錆びたりしないよ」
「ダメー。リドルさんと約束したんだもん」
「アルの頑固者ー」
「頑固で結構でーす。はい、帰るよパニーニャ」
 うもー、と拗ねた顔を作ってパニーニャはぽんぽんと岩場を降りた。それに続いてこちらも身軽にアルフォンスが降りて来る。
 どちらからともなく手を繋ぎ、軽く腕を振りながらぶらぶらと堤防を登り雑草に持ち上げられる荒れたアスファルトを歩く。遊泳禁止区な上に岩場のためか、周囲には釣り人がちらほら見えるだけで観光客はほとんどいない。
 じーわじーわと夏の盛りを示すように油蝉が鳴いている。
「………あたしはさ、アル」
「うん?」
 正面に目を向けたままの黒い瞳は曇らない。いつでも前と上を見ているパニーニャのその眼がアルフォンスは好きだ。
 決して、救いのない後悔をしない瞳。
 どんな逆境でもひとは笑顔を持てるのだと、言葉ではなくその瞳で、態度で、表情で、全身全霊でアルフォンスに示す、肉体と魂と精神全てを躍動させて生きる生命力の塊のような娘。
 
 彼女こそが流れの中の一。
 自らを認識しない、けれどだからこそ美しい、生。
 
 そんなことを考えながら眩しさに目を細めたアルフォンスに気付かぬまま、パニーニャはえへへ、と照れた笑顔を浮かべて僅かに首を竦めた。
「高校時代なんて一生に一度しか来ないんだから、たしかに進路は大事だけど、それでもアルと一緒に高校生したいなあって思うんだけど」
 アルフォンスはぽかんとパニーニャを見つめた。パニーニャはほとんど目線の高さの変わらない少年を見、にーっと悪戯小僧のように笑う。
「そーゆーのも大事だと思わない?」
「え、っと」
「あたしの彼氏がアルだってことと同じくらい大事なことだとあたしは思うなあ」
 アルフォンスは白い顔を綺麗なトマト色に染め、金の眼をこぼれそうなほど瞠っている。パニーニャはあは、と笑った。
「凄いねえ、アルってあたしのこと大好きなんだ」
「………そう言ったでしょ!」
「うん、聞いたけど。嬉しいな」
「う、嬉しいんだ」
「うん」
 そ、そっか、とどもった少年は耳まで真っ赤になったまま俯いて、後は何も言わなかった。
 けれど握ったその手が夏の日差しにも負けないほどに熱かったので、パニーニャはまた笑って大きく腕を振った。

 
 
 
 
 

■2004/8/21
もはや誰だこれ状態ですが、アルパニだと言い張ってみる。パニアルでもいいです。もうどっちでもいいです。アルとパニが二人でいてお互いに大好きだったらなんでもいいです。かわいくさわやかにいちゃいちゃしてくれればなんでもいいです!(握りこぶし)

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