「あ、と」 ベッドのヘッドボードへ掛けていたコートを取ろうと伸ばした腕の袖がサイドボードを擦り、置いてあった読み差しの文庫本がばさ、と音を立てて床へと落ちた。古い流行小説か何かのようで、エドワードは小説など読みはしないからアルフォンスが長い夜の暇潰しにでもしていたものだろう。 「あちゃー……ページ解んなくなっちまった」 拾い上げぽりぽりと頭を掻きながらぱらぱらと捲るとそれはどうも甘ったるい恋愛小説のようで、たしかにアルフォンスは恋愛小説の類も読むには読むが(なんと言ってもあの弟は恋に過剰な憧れを抱いている)、それにしたってこれではまるでいい歳をした女のようだ、とエドワードは肩を竦めた。我が弟ながらアルフォンスの読書遍歴の幅の広さには感服する(無論皮肉だ)。 小説なんかの何が面白いのかね、と考えながら尚もページを捲っていたエドワードは、ふと書き込みらしいインクの染みを見つけて手を止めた。両手で持ち直し、一ページずつゆっくりと捲って見る。 また、細かな文字の、書き込みが。 東部の訛りと略文字を多用したそれは自分たち兄弟でもなければ容易く解読は出来ないだろう。東部の田舎の言葉の解る人間で、なおかつ錬金術師でなくては読み解けないものだ。 エドワードは表情を引き締めてその書き込みを読み、それから一度閉じてカヴァーの完全に剥がれたタイトル文字の刻印すら擦れて読み取れない表紙と黴の染みがうっすらと浮く裏表紙を見、一ページ目を捲った。 「あーっ、兄さん! 酷いやそれボク読んでたのに!!」 灰皿の上で灰になりかけていた文庫本とそれを鋼の右手でがしがしとつつき崩す兄を発見し、アルフォンスは買い出し袋を抱え扉を開いたまま子供のように手足を突っ張って叫んだ。 「もー、なんでそういうことするのさ! ボクの本なのに!!」 「うるさい。それよりアルフォンス君、こっち来て座りなさい」 ドア閉めて、と指示する兄になんだよー、とむくれながら、それでももう一度穏やかながら有無を言わせぬ口調で繰り返され、アルフォンスは渋々と扉を閉めて使っていないベッドへと紙袋を置き、兄が胡座を掻いているベッドへと腰掛けた。 「なに?」 エドワードはまだぶすぶすと燻っている半分焼け落ちた本を指した。 「なんでこんなもん解読してんだ、お前」 「ああ、やっぱり兄さんも解った?」 渋面になったエドワードは唇を歪め、まあな、と答えた。 「人体錬成の記録じゃねーかよ」 「うん。ほら、こないだ寄った街のバザーで見つけてさ、表紙が手書きだったし中身もタイプライターで打ってあってさ、手製みたいだったからなんだろって思ってちょっと中身見たら、なんか暗号化されてるような気がして買ってみたんだよ。5センズだった」 「いや値段はどうでもいいんだ」 「役に立つかと思ってさ。でもまだ全然解読出来てなかったのに」 「大したことは書いてなかった」 アルフォンスは僅かに沈黙した。 「………え、て、解読しちゃったの?」 「小説の中身がそのまま記録をなぞってあったから楽だった。お前もいい線まで行ってたけどこだわるとこ間違えてたんだよ。けど」 エドワードは弟を見つめる。 「………恋人を生き返そうとした記録だってことは解ってたんだろ?」 「うん、それはね。兄さんの理論ほど完璧じゃなさそうだったから無駄かなって思いはしたんだけど」 「なんでそんなことすんだよ、お前」 え、と呟いたアルフォンスの眼窩の赤光が不思議そうに瞬く。 「だって、人体錬成理論はなくちゃいけないでしょ。賢者の石があれば全てが済むとは限らないし、それに石がもしなくても、本当に完璧な理論があれば」 「出来ないんだよ、間違ってるんだ!」 がん、と機械鎧の拳がサイドテーブルを叩いた。乗っていた灰皿が揺れ、燻っていた文庫本が更に崩れる。 アルフォンスは兄の怒気にしばし絶句し、それから恐る恐る首を傾げて俯いている金髪の奥の顔を覗こうとした。 「………兄さん? 怒ってる? どうして?」 「だから、間違ってるんだよ。理論がいくら完璧でも駄目なんだ! 完璧な理論を引っ提げて、また驕った真似をすれば今度こそ、お前」 「兄さん」 「母さんを見なかったのか、アル。あんなのじゃ駄目なんだよ。人体錬成理論なんかもう完璧なんだ、理論は間違っちゃいなかった! そうじゃないんだ、足りないんだ、命には理論だけじゃ全然足りない何かがあってそれが解らなければ手を出すべきじゃないんだ。そうじゃなきゃアル、お前が、───お前を」 「兄さん、」 「オレたちは間違ってたんだ。また間違うわけには行かないんだよ、アル。今度こそ間違えずにちゃんとお前を」 「兄さんてば!」 声を張り上げるとエドワードははっと顔を上げた。険のある目付きが瞬きごとに緩み、やがてほっと息を吐く。 「………わり」 「いいけど。……訊いていい?」 「ん」 アルフォンスはがしゃ、と肩を落として背を丸める。 「じゃ、ボクらは何をしてるんだよ」 「何って?」 「だからさ、研究とか。何を探してるのさ。その足りない何かを探してるんじゃないの」 「足りない何かを探してるんだよ。今んとこ賢者の石が第一筆頭候補だな。何が足りないのか解ろうが解るまいが、石があれば丸ごと問題がない。理論すらいらないかもしれない。ありゃブラックボックスだ」 「でも、賢者の石はないかもしれない」 「けど、石に代わる何かはあるかもしれないし、造り出せるかもしれない」 「……………」 「今までだってオレの理論をベースに研究して来たろ。……なんで今更、一から別の理論を組もうと思ったんだ?」 「別に一から組もうと思ったわけじゃないけど」 アルフォンスは小さく肩を竦めた。 「他のひとの理論を見てみるのもいいかなと思ったんだ。問題点が見つかるのかなって……兄さんは間違ってたって言うけど、ボクは兄さんの理論が間違ってたとは思ってない。完璧だったのに間違ってるわけがないよ。でも何かが足りなかったって兄さんが言うなら、何かが足りなかったんだ。その何かさえあればあのときだって失敗はしなかったかもしれないし、………他のひとの失敗の記録を見れば、その何かが解るかも知れないって思っただけだ」 アル、と呟いて、エドワードはじっと弟を見つめた。その見つめ続ける視線に居心地の悪さを感じたアルフォンスはかしゃんと首を傾げ、兄を見遣る。 「………なに? 兄さん」 「ん、いや」 エドワードは眼を伏せ、僅かに口元へと笑みを掃いた。緩くかぶりを振り、何かを振り落とす仕草を見せる。 「お前は見てないんだもんな………」 「え?」 「ん、なんでも。いいんだ、お前は知らなくて」 「………意味深で気になるんだけど」 「気にすんなって」 むう、とむくれた気配のあるアルフォンスに苦笑して、エドワードはばし、とその腕を叩いた。 「気にすんなって! それよかさ、さっき新聞で見たんだけど、なんかリオールがどうのって」 「リオール?」 「ああ。聖人がいるとかいないとか」 「なに、聖人て。なんの聖人」 「知らね。でもま、取り敢えず手掛かりもないことだし、イーストシティに顔出す前にそっち寄って、ユースウェルまで足伸ばして、それから戻らないか? 行ったことなかったろ、どっちも」 「まあねえ。あんまり錬金術に関係する話聞かない土地だしね、どっちも」 「んーでもま、試しにさ。ちょっと手詰まり気味だしな……」 そうだねえ、と器用に溜息のような声を出して、アルフォンスは肩を落とした、眼窩の光が瞳を細めたかのように薄く絞られる。 「早く見つかればいいね、賢者の石」 「だなあ。早いとこお前を戻さないとな」 「兄さんの手足が先だってば。ボク結構不便ないもん、この身体」 「馬鹿言うな」 へへ、と笑い、アルフォンスは灰皿を眺めた。 「………見てないかあ」 「ん? なに、まだ気にしてんのか」 「そりゃあね。でも兄さんが言いたくないならいいや。ボクはボクの方法で色々考えるよ。多方向から見たほうが真理に近付けるもんね」 僅かに沈黙した兄にアルフォンスは「兄さん?」と首を傾げる。エドワードは何でもない、と笑って、ベッドから降りた。 「じゃ、そろそろ準備して行くか。昼過ぎに丁度リオール方面まで行く列車があるんだ」 「時間ないじゃないか! もー、兄さんお昼まだなのに」 「売店でなんか買ってくよ」 「ちゃんと温かいものを落ち着いて食べたほうがいいに決まってるじゃん。そんなだからちっこいんだよ兄さんて」 「ちっこい言うなテメェがでけーからってッ!!」 「ちょっとやめてよ蹴らないでよ! ボクだって好きででっかいんじゃないやい!!」 がしゃんがしゃんと金属をぶつけ合い、隣室からの苦情の怒鳴り声でぴたりと動きを止めたアルフォンスの兜を、兄の鋼の拳ががつんと最後に一度殴った。ずるいや兄さん、とむくれながらアルフォンスはずれた兜を直す。 「じゃ、行こうぜ」 「うわ待ってよー! 荷物片してないのに!」 「そのまま持ってきゃいいだろー」 がしゃんがしゃんと足を蹴り合いながら、兄弟は部屋を後にする。ばん、と閉じられた扉のその衝撃でばら、と半分燃え残った本がばらけた。 扉には鍵が掛けられ、喧しい金属の足音と言い合う子供たちの声は遠去かり、二度と戻ることはなかった。 |
■2005/1/16 十萬打記念SS。フリーSSでしたが、現在は配付は終了しておりますので持ち帰らないでくださいませー。配付終了とともにデッドリンクしてましたがこっそり復帰させてみました。
初出:2004.12.9
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