「中尉中尉、ちょっと中尉」
「連呼なさらなくても聞こえています」
 変わらずの硬質の声色で返した副官に、いつもの倍の勢いで積み上げられて行く書類にまさにお手上げのポーズで両手を上げ万年筆を放り出して、ロイは唸った。
「どうして今日はこんなに多いんだ! 会議があるとか誰か来るとか大きな事件があったとか犯行声明が入ったとかそんなことはないんだろう!?」
「ありませんね。犯罪率は先月よりは少し上がってはいますが、先週あたりから比べれば随分と平和なものです」
「じゃあどうして」
「余計な口を利いていないでさっさと片付けなければ帰れませんよ」
「さっさとやったって終わらないし帰れない!」
「終わりますよ。今日はお帰りいただきます」
「───リザちゃん!」
 悲鳴じみた声で名を呼んだ上官をようやく書類から眼を上げたリザはちらりと横目で見、ふ、と小さく溜息を吐いた。
「大佐、執務中です」
「リザちゃん、何を怒っているんだ。私がなにかしたのか」
「怒ってなどいません。その呼び方は止めてください、仕事中です。周りに示しがつきません」
「怒ってるんじゃなきゃなんなんだ。昨日サボったから怒っているのか? でも昨日付の書類はちゃんと上げたよ」
「昨日怠けた分の小言は昨日のうちに言わせていただきました」
「じゃあ、君の犬にやきそばパンをあげたのが拙かったのか?」
「餌の時間以外に食べ物を与えないでいただきたいものですが、たまねぎと虫歯になりそうな甘い菓子さえ避けていただければ構いません」
「食堂のやきそばパンにはたまねぎは入っていないよ」
「では構いません」
「………じゃ、一昨日の書類を准尉に丸投げしたのがバレたとか」
「……………。………それは存じませんでしたが、後でファルマン准尉に一言言っておきます。今後なさらないようにお願いします」
 デスクの一角で青醒めるファルマンを余所にでは何なんだ、と呟き腕を組むロイへと歩み寄ったハボックが、拾い上げた万年筆を差し出した。
「はい、大佐。いいから仕事してくださいよ。あんたが終わらんと我々も帰れんのですよ」
「───少尉! お前はこの量を理不尽だとは思わないのか!」
「まあなかなか壮観だとは思いますけどね、でも仕事溜めた翌日なんかはいつもこんなもんでしょう」
「でも今日中にだぞ!? 帰れって言ってるし! 無理だ!!」
「やってみなきゃ解らんでしょ」
 はいはい仕事して、と幼子をあやすような口調で宥めるハボックにううう、と呻り、ロイは机に突っ伏した。
「どうして今日はみんな冷たいんだ………」
「どこがですか。みんなあんたに付き合って自分の仕事置いて手伝ってんじゃないですか」
「でもこれ明らかに明日締めが混じってる……」
「明後日締めも混じってますよ。いいからそれ早く読んでサインしてくださいよ。チェックが済んだら刷るんですから。明後日の会議用資料なんスよ」
 ことん、と突っ伏す黒髪の先に万年筆を置き、ハボックは鳴った電話に視線を向ける。顔を上げたロイが立ち上がるよりも早くリザの視線を受けて受話器を取ったブレダは、しばらく当たり障りのない返答をして、通話を切った。
「………誰だったんだ、ブレダ少尉」
「ヒューズ中佐でしたよ」
「……………。私に用だったんじゃ」
「取り込み中だから、と伝えましたんでね、また後日掛け直すそうです」
 この調子で今日は電話にも出ていない。
 最後の逃げ道もきっちり封じられていることを嫌々ながら認め、司令室内を見回し、誰も視線を合わせてくれないことに消沈しながらロイは仕方なく万年筆を握った。
「……私が何をしたって言うんだ……」
「何もしてないからじゃないっすか」
「上官批判か、ハボック少尉」
「滅相もない。心から尊敬してますよ、仕事の上では」
 だからサボらず終わらせてくださいね、とのんびりと笑った部下を睨んで、ロイは書類の山へと手を伸ばした。
 
 
 
 
「ほんとに終わらせてしまうんだから凄いですよね」
 決済済みの書類の山をチェックするリザを手伝いながら感嘆の息を吐いたフュリーに、女性士官はにこりともせずに答えた。
「やれば出来る方なのよ」
「どうして普段はああなんでしょう」
「余裕があるからかしらね。時々は忙しくして差し上げたほうがいいのよ、あの方は。……そうでなくては休暇も取って下さらないのだもの」
 纏めた書類を綴じながら童顔の曹長はあはは、と笑う。
「ずっと泊まり込んでいらしたようですしね」
「何のための自宅なのか解らないわね」
「二階南の仮眠室はすっかり大佐の居室になっていますよね」
 司令室から出て直ぐの階段を上って突き当たり、隣に書庫があり南向きの窓から暖かな日差しの入る仮眠室をすっかり私物化している上官を思い出してまた少し笑い、フュリーは纏めた書類を箱へと収める。
「フュリー曹長。そろそろ帰って構わないわ」
「いえ、最後までお手伝いします」
「でも、もう少しだから。あなた、明日も通常勤務でしょう」
「そうおっしゃいますけど、中尉も出勤でしょう。大丈夫です、いざとなったら泊まりますから」
「大佐の悪い癖が移って来たわね。私は明日は遅番だから大丈夫。お帰りなさい」
 でも、と更に言い募るフュリーに、リザは薄く微笑む。
「上官命令よ、フュリー曹長。お帰りなさい。あなたこそここ2、3日は忙しくて大変だったでしょう」
 フュリーは眉尻を下げた情けない表情で、小さな丸い眼を瞬かせる。
「………それじゃあ、申し訳ありませんがお先に失礼させていただきます」
「はい、ご苦労様」
 それでもまだ少しまごまごとしているフュリーを急かしたリザは、鳴った電話にふと目を向けた。慌てて取ろうとしたフュリーを留めて手を伸ばす。
「………はい、」
 相手の名を呼び掛けて、ふと虚を突かれたように黙ったリザをフュリーは首を傾げて見つめる。
 しばらく呆然と受話器を握っていたリザは、やがてゆるゆると表情を崩し、微笑んだ。
「………はい、大佐。ゆっくりおやすみください」
 酷く優しい笑みと口調でそう呼んだリザを、フュリーは眼を瞬かせて見つめ、それからその微笑につられるように口元を笑みに弛ませた。
 リザは笑みを漂わせたまま、そっと受話器を置いた。
 
 
 
 
「大佐、たーいさ、着きましたよ起きてください?」
 バックミラー越しにシートに斜めに寄り掛かったまま眠っていた上司を見遣ってそう呼ぶと、うーん、と眉を寄せ唸ったロイはもぞもぞと身を起こした。
「………うん?」
「着きましたって。ちゃんと家に戻ってベッドで寝てくださいよ」
「………仮眠室でいいのに」
「たまにはちゃんと帰ってくださいよ。ああほら、明かり点いてますよ。鋼の大将が待ってんじゃないですかね」
 あいつは宵っ張りですからね、まだ寝ちゃいないでしょ、と続けたハボックに、素直な口調でうん、と相槌を打ったロイは一瞬固まり、それから身を乗り出し運転席のシートを掴んだ。
「はがねのが何でいるんだ!?」
「だって来てましたから、今日」
「私は会ってないぞ!!」
「そりゃそうでしょ。アルと来て司令室には入らずに中尉に資料室の鍵もらって二人して資料調べて、帰り際に中尉に今日は大佐は家に帰るはずだからなんなら自宅で待っててやってくれって言われてましたもん。会ってないはずですよ」
「どうして教えてくれないんだ!? 半年ぶりなのに!」
 悲鳴じみた非難の声にハボックは肩を竦める。
「教えたらあんた、仕事にならんでしょうが。ほらさっさと降りて。大将、待ちくたびれてんじゃないですか。あんまり待たせちゃ機嫌悪くなるでしょ」
「け、けど……明日とか明後日の仕事も混じってたのに………」
 ふ、と苦笑を洩らし、ハボックはぱくりと煙草をくわえた。
「中尉がね、明日は非番にしておきますからゆっくり休んでくださいって言ってましたよ」
「…………、……え?」
「明後日はね、大佐は準夜勤になってるはずですから。夕方から出て来てくださいね」
 ほら早く降りて、ともう一度急かされて、苦笑を浮かべつつ振り向いた部下を呆然と見つめ、ロイはその唇から火の点いていない煙草をつまみ取って顔を近付けた。
「お前も一役買ったのか?」
「一役?」
「知ってたのか? 中尉が、明日の私の勤務を」
「俺だけじゃないっすよ、みんな知ってました。だから文句も言わずに仕事手伝ってたんでしょ。あんたここんとこ全く休日なしでしたからね」
「……………」
「ま、お陰で明日明後日は俺らも楽出来ますからね。今日一番大変だったのはやっぱりあんたですよ。お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
 黒い双眸をこぼれそうなほど丸くして瞬きも忘れている上官の肩を軽く押し遣って、ハボックはその指から煙草を奪い返す。
「ほら、降りてくださいって。それともなんですか、玄関の鍵まで開けてくれとか言いたいんですか」
「ハボック少尉」
「なんですか」
 ロイはふ、と肩を落とし、僅かに視線を伏せた。
「ありがとう。愛してるよ」
「───気持ち悪いこと言わんでくださいよ」
 げんなりと半眼になった部下に軽口を返すのも忘れたように、ロイは慌てて後部座席を降り自宅へと駆ける。
 その背中を見送って、やれやれと肩を竦めたハボックは黒髪が玄関を開き中へと入るのを見届け煙草に火を点け、ゆっくりと車を発進させた。
 
 
 
 
 どたばたと喧しい足音を立てて帰って来た家人に、ソファで伸びていたエドワードはようやく帰ってきやがった、と眉を顰めた。
「おかえり、遅かっ……」
「久し振り、はがねの! 再会の抱擁は少し待ってくれ!」
「いや別に抱擁なんかしたくねェしっておい、なんだよどこに電話………」
 半年ぶりの恋人を放って電話を掛け始めたいつもならばうざったいほどに絡んでくるはずのロイを、エドワードはソファに胡座を掻いて不機嫌に見遣る。司令部に掛けたらしいロイはすぐに自らの副官を呼び出したようで、なんなのまだ仕事中かよ、と呟いてエドワードは渋面になった。
「ああ、中尉。今帰ったところなんだが」
 急いた口調で受話器に縋り付くように話すロイはエドワードに半ば背を向け、こちらにはまったく注意を払っていない様子だ。エドワードは立ち上がり、ゆっくりとそのコートを纏ったままの背中へと近付いた。
「さっき少尉に聞いた。明日のこと」
 急くロイの声が、僅かに甘さを乗せる。横顔に薄く穏やかな、微笑。
「………ありがとう。愛してる、リザちゃん」
「なッ……」
 何それ、と口の中で呟いて、エドワードはこちらを見ない横顔を睨んだ。
(い、言うか普通!? オレの目の前で、いくら中尉だっつても………)
 
 蕩けそうな顔で、女に、愛の告白だと?
 
 うん、おやすみ、と囁いてそっと受話器を置いたロイは、微笑を湛えたまま振り向いた。
「はがねの」
 ふと、エドワードの渋面に気付いたのかロイの頬から微笑が落ち、申し訳なさそうに眉尻が下がる。
「ああ、待たせてしまったね。待ちくたびれたかい? 今日は仕事が忙しくて、でも代わりに明日は、」
「うるせぇ」
 素早く伸びた右腕がコートの襟を掴み細い身体を壁に押し付けた。ど、と低い音を立てて壁に背をぶつけたロイは、忙しなく瞳を瞬かせてエドワードを見下ろす。
「はがねの? 怒っているのか?」
「怒んねーとでも思ってんのか? 何なめてんだお前」
「なめてる? 誰を」
「オレをだ」
「誰が?」
「お前だよバカ」
 いかにも心当たりのない、と言った様子で首を捻った惚けた顔を張り飛ばしたい衝動に駆られながら、エドワードは左手を握り締めて耐えた。右腕であったならもう振り上げていたかもしれなかった。
「………いいよ、もう」
「はがねの?」
 歯軋りに混ぜて呟いて、エドワードは右手を乱暴に離し踵を返して歩き出す。ソファに掛けられていたコートを足を止めずに取りそのまま扉へ向かおうとすると、驚いたように駆け寄ったロイがその腕を掴んだ。
「どうしたんだ、帰るのか?」
「帰る」
「そんなに時間がないのか? でももう夜中だし、列車は……」
「あるよ、夜行。でも別にそういうんじゃねェから」
「じゃ、どうして」
 エドワードは肩越しに苦々しく恋人を睨む。
「ムカついたから帰んの!」
「どうして怒ってるんだ」
「解んねーのがムカつく。つか、手ェ離したほうがいいよ。引き留めないほうがいい」
「どうして。半年ぶりなのに」
「優しくする自信がねーんだよ」
 腕を振り払うと伸びてきた長い腕がぐるりと胴に絡んだ。エドワードは大きく溜息を吐く。
「くっつくなよ、帰るっつってんだろ」
「はがねの」
「うるせェよ、一人で落ち込んでろよバカ。明日司令部行くからそれまでに何が悪かったのか考えて反省しろ」
「明日は非番だ」
 ぴたり、とエドワードは動きを止めた。
「………は?」
「中尉が非番にしてくれたんだ。その分今日はとても忙しかったけど、だから明日は君とずっと一緒にいる」
「………おい、オレにも予定というものが」
「はがねの」
 ぎゅう、と抱き締めた腕と背中に触れる身体が体温を伝える。つむじにふっと笑みを混ぜた吐息が落ちた。
「………おかえり」
 ゆっくりと、エドワードの肩から力とともに怒りが抜けた。
(まったく、どうしてこんな簡単なことでオレは)
「………それ、アルにも言ってよ」
 ふふ、と嬉しそうな笑い声が微かに頭の上で聞こえた。
「もちろん。明日は三人でどこかへ行こうか」
「あんたんちの書庫見せて。アル呼ぶから。図書館が改装中とかで開いてねーんだよ、今」
「ん」
 解った、と呟いた唇が金髪に口付けた。その触れたくて仕方がないと言った仕草に、エドワードは口の中で呻り、コートを床へ落として胴に絡む両腕を剥がし振り向く。瞬く黒い眼が見下ろしている。
 エドワードはその黒いコートの襟を掴みぐいと引き寄せて、乱暴に唇を押し付けた。
「───ただいまッ!!」
 珍しく耳まで真っ赤に赤面したまま怒った顔でそう言い捨てた少年に、ロイはうっとりと笑って抱き付いた。

 
 
 
 
 
 
 
『DEAR MYDOGS DEAR MYBEAR』はリクエストをくださった思露さまのみお持ち帰り・転載可です。
他の方のお持ち帰り・転載などはご遠慮ください。
転載について


リクエスト内容
「甘やかされるお題エドロイのロイ」

依頼者様
思露さま

■2004/11/22
甘やかしてみました、めいっぱい。誰も彼もに。…甘やかし過ぎましたか。お待たせした上に捻りがなくてほんと申し訳ない…です……(壁に手を突きつつ)。

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