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01 見上げた空は



「………なに、兄さん」
 芝生に寝込んだ兄がこちらを見上げてにやにやしているのでそう尋ねると、兄はんー、と呟いてくり、と顔を傾けた。
「なにが」
「いや、見てるから。視線がうるさいなって思って」
「見てねえし」
「見てただろ」
「見てねーって。オレが見てたのは空だし」
 弟は僅かに黙った。
「………なるほど」
「なにが」
「いや、ボクが大きいから兄さんが空見てる視界の中に入っちゃうんだねって」
「嫌みかおい」
「被害妄想じゃないの兄さん」
「っせ」
 言って再び顔を上向けて目を細めた兄をしばし見下ろし、弟は倣うように空を見上げた。下から兄が小さく喉を鳴らして笑った声が聞こえる。
「オレ、空見上げんの好きだな」
 晴れも雨も曇りも雪も朝も昼も夜もみんな。
「天井見るのも好きだ。上見上げんのは好きだな」
 変な兄さん、と首を傾げた弟に、兄はもう一度喉を鳴らして笑った。
 
 お前を見上げたら空も見えるからさ、と。
 
 続けられた言葉に弟はもう一度、変な兄さん、と肩を竦めた。

 
 
02 すべてを擲(なげう)つ


 ぱり、と最後の稲妻が拡散した。じっと見つめた先で血に濡れた印が微かに明滅する。
 はっ、と小さく息を吐き、熱に浮かされたように(実際浮かされているのだろう)靄の掛かる頭を振って、傍らに転がっていた兜の房をひっ掴み、がしゃん、と乱暴に首の覆いへと押し付けた。上手く行けば、この兜にも魂が分かたれる。同じ材質の、同時に作られた同じ時代の、対になった兜だ。
 右肩と左の腿の切断面からどぼとぼと溢れるように流れていた血はまだだらだらと流れ続けていてもうろそろ身体中の血が尽きてしまうのではないかと考える。
「………アルフォンス」
 囁くと、熱っぽい息が洩れた。死に掛けている身体はこんなにも熱い。
 ずるずると身を伏せて、冷たく埃を被る鎧の上へと伏す。鋼鉄が血に濡れて黒々と光る。
「………アルフォンス」
 魂を閉じ込めた、鉄の棺だ。あちら側へと置いてきた、右手に掴んだ魂を。
「アルフォンス。………眼を醒ませ」
 囁く言葉はまだ熱を込めていて、けれどまるで寒がるように細く酷く震える。
 ああ、早く起きてくれないと兄ちゃん死んじゃうぞ、アルフォンス。
「アル」
 かん、かん、かん、と、付けた頬の下で鉄が鳴る。床から上るなにかの振動をそのまま響かせたものなのか、弟の魂の馴染む軋みか───再び死に逝くその叫びか。
 ああ、アルが死んだら。
(オレも死ぬよ)
 長く長く溜息のように息を吐いた唇が微かに笑みに歪む。眼を閉じる。その思い付きは素晴らしいものに思えた。あちら側に持って行かれるのではない。引き戻した魂と共に死に、黄泉の国へとゆく。
 
 共に地獄への道行きを。
 
 鉄の指が、き、と小さく音を立てて震えた。
 少年の唇が更に大きく笑みに歪み、は、と嘲笑に似た声を洩らした。
 
 ───生きるか、戻るかアルフォンス。
 ならば生きて共に、地獄への道行きを。
 
 きし、と軋んだ鉄の手が、薄く開いた視界の隅で持ち上がった。

 
 

03 電話



「えー、じゃないって、そこはセロリ! 絶対セロリ! ………いや、それはウィンリィがセロリ嫌いだからだろ? ……え? いいって誤魔化さなくて、知ってるし、ボク。絶対残すじゃん。えー? だってそれはみじん切りにしてもらってたから……」
 先程から幼馴染みとの電話の終わらない弟は、受話器を耳の辺りから少し離した位置に当てて楽しそうに話をしている。平常より少しばかり声量が高いのは、そうでなくては受話器へと声が届きにくいせいだ。
「え? なに、ごめん、もっかい……あ、うん、そうそう」
 幾度目かの聞き直しをして、弟は何気ない仕草で受話器の持ち手を変えてがぽん、と兜を外した。手持ち無沙汰に司令部でもらってきたクッキーの箱に詰められていた緩衝材をぷちぷちと潰していた兄は思わずぎょっとする。
「あ、よく聞こえる。……え? ううん、なんでも。声うるさくない? 大丈夫? うん、それでさ」
「……………、」
 呆然と眺める先で弟は頭を外した首から内部へ受話器を突っ込んで、どうやら血印に寄せて話をしているらしい。囁くようになった響く声は時折言葉を成さなくて、くすくすと聞こえる密やかな笑い声がまるでなにかいかがわしい密談でもしているかのように錯覚させる。
「………アル」
「やだなーそうじゃないよ。……うん? あ、そうだね、じゃあ今度行ったときにでも……あーうん、いつかな」
「おい、アル」
「兄さん次第? ああ、手入れはね、させてるけど。でもなんか最近埃が詰まりやすいみたいで……あ、オイルはさ、レッドレッグ社の……え? 駄目なの? そんな安くないよ?」
「アル!!」
 がん、と背を蹴ると弟の身体の中に回線の向こうで『わっ』と叫んだ声が小さく響いた。何の今の音、と小さく幼馴染みの声が鎧を響かせている。
 弟はくるりと振り向いた。頭のない鎧が、それでも瞬時に周囲の温度を下げたのが解る。
「………なに、兄さん。まだ電話中」
「切れ」
「はあ?」
「いーから切れッ!」
「………ウィンリィ、ごめん、またすぐ掛けるから。うん、なんか兄さんがうるさくて。ごめんね、じゃ」
 はあ、と溜息を模した声を洩らし、弟は鎧の中から引き出した受話器を置いた。
「はい、なに?」
「頭付けろ頭」
「はいはい」
 がぽん、と傍らに置いていた兜を付け、弟はかしゃん、と首を傾げる。
「なあに?」
「なあに? じゃねーかわいいふりしても駄目だ!」
「いや意味解んない。なにキレてんの」
「キレもするわ!! お前な、なに頭外してんだよ! 聞こえるだろんなことしなくても!!」
「聞こえにくいんだもん」
「それでも駄目!! 暑くてもまっぱで歩くヤツなんかいねーだろ!? それと同じだ!!」
「どこが同じだよ」
「同じだろ!!」
 なんで解らんのだとじだんだを踏むと、弟はふっと雰囲気を和らげてもう一度首を傾げた。
「………あ、そうか。頭外れる人間なんかいないもんね。ホテルの部屋だし兄さんしかいないし、鍵も掛かってるし大丈夫かなって思ったけど、いつ誰に見られるか解んないよね……ごめんね、ボク考えなしだっ、」
「そうじゃねえ!!」
 はあ? と首を傾げる弟の胸甲をがん、と叩き、兄は大真面目にその眼窩を覗き込んだ。
「身体ん中に受話器突っ込むなんてお前が犯されてるみたいで嫌だ!!」
「……………………。」
 無言で、ゆっくりと持ち上げた拳が馬鹿を殴り飛ばした。
 弟はくるりと電話に向き直り、じーころろ、とダイヤルを回す。
「……あ、ウィンリィ? ごめんねさっき。ん、大丈夫、……ん? 電話代?」
 弟はにこやかに笑う。
「いいんだ、気にしないで。どうせバカのお財布から出すんだからさ」
 
 バカ呼ばわりされた兄は。
 
 何が悪かったんだろう、とみるみる青くなる頬を押さえながら床にひっくり返ったまま首を傾げた。

 
 

04 離れたくない



「やだ! 離れたくないー!!」
「諦めろってしょーがねーだろ!?」
 巨体を小さく小さく丸めて(それでもでかい鉄の塊だ)蹲り、弟は泣き声で叫んだ。
「こんな小さくて柔らかくて湿っててあったかいのに!」
「柔らかくても湿っててもあったかくてもお前にゃかんけーねーだろ鎧の中が獣臭くなるだけだ」
「ひっひどい兄さんそーゆーこと言う!?」
「現実を見ろアルフォンス。逃避してもいいことないぞ」
 ほら、と壁時計を指差して、兄は重々しく宣言した。
「列車の時間まであと7分だ! さーその腹開けて猫捨てろ!!」
「や、やだ!! 兄さん飼っていいって言った!!」
「言ってねーよ雨降ってるから一晩だけなら部屋に入れていいっつっただけだ」
 ほらあと6分、と怒鳴った兄は、蹲ったままの弟の兜をがしゃんと外す。
「ちょ、なにすんの兄さんのすけべ!!」
「す、すけべってお前……あーもーほら出て来い猫ー。エーサーだーぞー」
「うわ兄さんずっこい!!」
「動物に餌付けは当然だ」
 弟が身を起こすよりも早くひょこりと鎧の首から顔を覗かせた猫の首根っこをつまみ上げ、兄はトランクを掴んだ。
「ほーら行くぞ、アル」
「ボクのにゃんこー!!」
「お前のじゃねーっての」
「兄さんの鬼! 人でなしー!!」
「鬼で結構。っつか列車に遅れる!」
 慌ててばたばたと駆け出した兄を、兄さんのバカ! と叫んだ弟が慌てて追った。

 
 

05 雨



 雨止まないなあ、もう走って帰ろうかなあ、でもそうすると錆びるとかって兄さんが怒るし、と軒下で大きな身体を縮めていた少年は、人込みの中にちらりと見えた赤にふと視線を向けた。
 その赤は真っ直ぐに、少年へと向かって大股で歩いてくる。
(あーあ、そんなに大股で歩いたら泥が跳ねちゃうよ)
 ふ、と困ったように息のようにな声を洩らした少年に鋭い金の眼を向けて、フードを被った頭のてっぺんから真っ赤なてるてる坊主はにっと唇を歪めて笑った。
「ちゃんと待ってたな、アル。感心感心」
「まあね。濡れて帰ると怒るひとがいるからさ」
 ここに、と指差せば、赤い塊はそうか、と言ってもう一度笑う。少年は空を見上げた。
「でも、軒下でもボク濡れちゃうんだよねー、大きいから。あんま意味ないかも」
 さっさとホテル戻って拭いたほうがいいかも。
 うんうんと頷いた赤い塊は、少年の鉄の腕を取る。
「飯喰おうぜ、アル」
「ん? ホテルで食べないの?」
「この店で喰ってきゃいいだろ。喰ってる間に止むんじゃねえ?」
「そのためにわざわざ出て来たの、この雨の中」
 少年は憤慨したように腰に手を当て赤いフードの中を覗くように僅かに身を屈めた。
「もう、食べてる間に身体冷えるだろ。風邪引いたらどーすんだよ、馬鹿じゃないの兄さん」
「馬鹿って言うな!」
 げん、と左脚で蹴られた鎧の足が鳴った。

 
 

06 おやすみなさい



 電気を消して、ランプに火を入れ明かりを絞って、カーテンは左半分だけ閉めて、右側のベッドに腰掛けて。
 半分覗いた窓から見える、星の夜空がとても綺麗。
「兄さん、」
「………いいぞー、散歩、行っても」
 ぐじゅ、と真っ赤になった鼻を鳴らす兄に小さく首を傾げて笑って、弟は手を伸ばしてその襟元に毛布を引き上げずれていた額の濡れタオルを乗せ直す。
「いいよ、今日は読書の日」
「……星が綺麗だろ、今日。台風行ったばっかだ」
「いいの、この本読んじゃいたいから。……おやすみなさい、兄さん」
 ぜい、と小さく胸を鳴らし、ランプの僅かな光に茶に光っていた金眼がぱたりと閉じられた。
 こんこん、と、乾いた咳をして。
「おやすみ、アル」
 弟はうんと頷いて、兄の唇から寝息が洩れ始めるまでその閉じた瞼をじっと見つめた。

 
 

07 秘密



「母さんが戻ってきたらさあ」
 そうっと計りに石灰を積みながら、弟がどことなくうきうきとした口調で言った。嵐の音に紛れた声に、うん? と兄は振り向きもせずに返す。
「ウィンリィんとこのおじさんとおばさんも戻せないかなあ」
「あー……」
「ウィンリィ喜ぶよね」
「すっげえ泣いてたからなー、あいつ」
「うん。それでまたみんなでさ、楽しく暮らすんだ」
「んー……でも魂の情報がなあ」
「ウィンリィからもらえばいいじゃない」
「理論がなー……オレら母さんのことはよく知ってるけど、おじさんとおばさんはなー……」
「でも、なんとかならないかな?」
「………まあ、研究してみるか」
 よ、と精製水を満たしたボトルを抱え、兄は肩越しににっと笑う。
「まず母さんだ! 今日、母さんが戻って来るんだぜ、アル」
「うん! 絶対うまく行くよ!」
「ッたりめーだっての」
 がつ、がつ、と塞がった両手の代わりに足を蹴り合い、兄弟は我先にと台所を飛び出した。
「ウィンリィには内緒だよ、兄さん。吃驚させるんだから」
「ばっちゃんにも内緒だぞ、吃驚させんだから」
 顔を見合わせお互いの眼に昂揚した色を見て、兄弟はひひっと肩を揺らして笑った。

 
 

08 一は全 全は一



 身体をきゅうきゅうに丸めて隙間から差し込む光に僅かに眼を細める。年老いた獣のような仕草に密やかに微笑う声がうなじをくすぐる。
 
 ざり、と金髪が血印を擦る感触が感覚の総てを刺激する。視覚いっぱいの金と、聴覚いっぱいの呼吸と血流。快感のような、悪寒のような、内臓を撫で上げられることがあるならきっとこんな具合ではないかと思うような不可思議な錯覚。
 はあ、と洩れた音は息ではなく声ではあったが、それでもきっと過ぎた感覚に蕩けた吐息ではあったのだ。
 
「兄さん」
 
 囁いた声にうなじを擽られ、黙って首の後ろへ回した生身の指を、声の響くそこへとざり、と擦り付けた。がしゃん、と音を立てて、世界が軋む。
 
「………アル」
 
 眼球に触れられるような、喉の奥へと触れられるような、身体の中にずぶずぶと指を突き込まれるような錯覚に、そろそろと腕を持ち上げて、胸甲を閉じた腹を抱く。
 
 肉で象られた骨と血と臓物と魂の詰まった世界の総てを、身体の中に抱いていた。

 
 

09 「キミたちって」



「アル」
「ん」
 名を呼ばれ、くり、と顔を向けた鎧の油に光る面を乾いた布できゅきゅ、と手早く拭き、ついでとばかりにちゅ、と唇が触れて去った。
「次、肩んとこ。外して拭くか」
「だね、今日時間あるし。埃溜まるんだよねえ、ここ、結構」
「………お嬢さン」
「んー?」
「あれはなんだろウ」
「あー、気にしないで」
 新聞を開き眺めていた少女はぱたぱたと手を振った。
「あいつらいつもあんなもんだから」
「………この国では普通のことなのかナ」
「んー、」
 少女は灰青の眼を上げてにこりと微笑む。
「他では見ないよね」
「…………そうカ」
 それだけ言って、異国の皇子は黙り込んでしまった。 

 
 

10 我慢できない!



「ッあーもー我慢出来ねェ!!」
 そう叫んだ兄は暖かな室内だと言うのにまるで吹雪きの中にでもいるような完全装備(厚手のコートに皮の手袋に毛糸のマフラーぐるぐる巻き)でアルフォンスへ座れと指示をした。
 言われた通りに座り込むと、気難しい顔でずんずんと近付いて来た兄はべったりとその鎧の身体に抱き付く。
「……………。……兄さん」
「ん」
「………なにしてんの?」
「うるせえずっと我慢してたんだよ!! 寒いから近付くなとか冷たいから触るなとか風邪引くとか世話するのは誰なんだとかそんなことばっか言いやがって!!」
「………いや、だって冬だし……」
「アル不足解消!! 黙ってろ!!」
 再びべったりと抱き付いた兄のその金色の旋毛を見下ろしてああそう、と呟いて黙り込み、アルフォンスはふっと周りを見渡した。視線の合った奇異の眼を向けていた軍人たちがそそくさと仕事に戻って行く。
(………別に、寒くなくしてくれるなら抱き付くのはいいんだけどさ)
 司令部なんだよね、ここ。
「……TPOって知ってる? 兄さん」
「なにそれ」
 うんまあ兄さんの辞書にはないよね、と呟いて、アルフォンスははあ、と溜息を模した声を洩らした。

 
 

11 光の庭



「おかーさーん! 雨やんできたー!」
「やんできたー!」
 窓際に張り付いて庭の雨に揺れるトマトを眺めていた幼い兄弟が喚く。
「おかあさーん!!」
 はいはい、ちょっと待ってね、とキッチンから優しい声がして、兄は満足げに「うん!」と頷いて出窓に両腕を乗せしきりに首を傾げて明るくなり始めた空を眺めている弟をぎゅうと押し遣り再び窓辺に張り付いた。
「赤いのだけとるんだぜ、アル」
「うん」
 ぽかんと口を開けて空を見ていた弟の大きな金の眼が、くるりと動いて兄を見る。白く明度を増していく天からの光に、その瞳に星が光る。
「今日はスパゲッティだよね、兄ちゃん」
「ばっか、シチューだろ」
「えー、でも、トマトのシチューなら昨日食べた」
「昨日のはビーフシチューだもん」
「ビーフシチューってトマト入れるんだよ、兄ちゃん」
「赤ワインで赤くなるんだぞ」
「トマトも入れる!」
「入ーれーなーい!」
 わあわあと喚く間に、見る見る空は光を増して細い雨が慌てたように残りの雨粒をぽつんぽつんと落として行く。あ、と眼を輝かせて庭に視線を移した弟にまだ不満げなまま唇を尖らせた兄は、それでも倣って庭を見た。
「おかあさーん! 晴れたーっ!」
「おかあさーん!」
 はいはい、もう少しね、とキッチンから響く声はとても優しくて、甘い。

 
 

12 恋人



「アールー」
「なにー?」
「愛してるよ」
「何言ってんのバカじゃないの兄さん」
 いつも通りの冷たい反応にこちらも変わらずに、と笑った兄に、弟は小さく小さく呆れたようにかしゃん、と肩を落とした。僅かに顔を背けるように首を傾げる。
「………ボクも愛してるよ」
「知ってる」
 じゃあ言わせるなよ、と大きな鉄の手がべち、と金髪に包まれた後頭部をはり倒した。

 
 

13 ありがとう



「アル、ソース取って」
「ん」
「サンキュー」

 
 

14 「君ってヤツは」



 どだだだだ、としか表現しようのない足音を響かせて誰かが廊下を走っている。
 と思った途端にどがん、と扉が壊れたのではないかと思うほど(なんとなく斜めに傾いでゆらゆらしている気がするから中尉に見つかる前に元凶に直させよう)乱暴に入室した凶悪な顔の豆は、ただでさえ目付きの悪い眦をぎりぎりと吊り上げ大きく開けた口ですうっと息を吸った。賢明な大人は握っていた万年筆を離してさっと耳を塞ぐ。
「アルどこやったーッ!!!!」
 きいいん、と耳鳴りの余韻をやり過ごし、ちらりと周囲を見渡せば呆気にとられていて耳を塞ぎ損ねたのっぽの少尉が悶絶している。大佐は手を下ろしてこほん、と軽く咳をした。
「えー……鋼の。まず落ち着け」
「落ち着いてられっかこれがッ!! ああっだからアイツ連れてくんの嫌だったんだよこんな悪の巣窟に!!」
「悪って」
「アルみたいなか弱くてかわいい子供がうろついてたらすぐに変態の餌食だ! 女日照りで飢えてる狼どもがゴロゴロしてっからな軍なんて! くっそアル…! 無事なんだろうな!? 要求はなんだ!!」
「いろいろつっこみたいことはあるんだが取り敢えずその握り拳を下ろせ」
 ぶるぶると震えている鋼の右手を指差し、大佐ははあ、と溜息を吐いた。
「で、どうしたんだって? 弟がいないのか」
「うん、いない」
 けろりと表情を納めどかどかと荒い態度で歩み寄り、鋼の錬金術師はどっかとソファに座った。
「資料室の鍵返してる間にいなくなった。ここで喋ってんじゃねーかなーって思ったんだけど。見てねえ?」
「見ていないな」
「………中尉の犬んとこかなー」
「かもな」
「だとすりゃ長ェよな……」
 眉を顰め、子供はじろりと大佐を睨むように見遣る。
「中尉にさー、犬家に置いてくるように言わねえ?」
「言わない。突然何日も帰れなくなることもあるんだ、世話が出来んだろう。大体中尉の犬は躾がいいしな、司令部に連れて来ていても問題ない」
「なるほど中尉が怖いと」
「曲解しすぎだ」
「あーあーもー帰りてーんだけどなーこんな男臭いとこ用ないしー」
「館内放送でも掛けてやろうか。アルフォンス・エルリック様お連れ様が飽きておられます至急司令室までお越しくださいませー」
「気持ち悪い声出すな」
 うえ、と舌を出してそっぽを向いた子供は、一拍置いてぱっと立ち上がった。何事だ、と視線を上げた大佐を無視したままぴりぴりと酷く緊張した様子でじっと何かに集中している。
「………おい、はが」
「しッ」
 びッ、と片手を上げて言葉を制し、子供はぐるりと開きっぱなしの扉へと向き直った。そのあたりで漸く大佐の耳にも、そのがしょんがしょんと鳴る鎧の子供特有の足音が届き始める。
「あ、兄さん、やっぱりこっちにい」
「アールー!!!!」
 ひょこりと顔を覗かせた鈍色の巨体に司令室の奥から一直線に駆け寄りどかーっと抱き付いた兄に、わあ、と呑気な悲鳴を上げて鎧の子供は僅かに揺れ一歩後退った。
「ちょ、なに、にいさ、」
「どこ行ってたんだよお前ーッ! あのアホ大佐にでも攫われたんじゃねーかってオレもーすげー心配しただろ!?」
 すりすりすり、と鎧に顔を擦り付ける子供の暴言におい、と呟いた大人の声は届かない。
 鎧の子供はげんなり、と顔に書いてある様子でこちらを見ている兄の上官に申し訳なさそうな視線を送って、ぽこぽこと兄の金髪を撫でた。
「ホークアイ中尉が大荷物抱えて通り掛かったからさ、手伝ってちょっと資料室まで行ってたんだよ。ごめんね、勝手にいなくなって」
「いや、いいんだ無事なら」
 兄は弟を見上げてにっと笑う。
「お前やさしーからなー」
「何言ってんの、普通だよ。誰だってそうするでしょ」
「でもなー、アル。あんまうろつくんじゃねーぞ? ここ軍の中なんだし、お前民間人なんだからな。せめてオレに一言言ってから行けよ?」
「うん、解った。ごめんね、心配掛けて」
 素直に頷いた弟にもう一度に、と笑い、子供は振り向きもせずに司令室を出て行く。それを慌てて追った弟は、思い出したように僅かに足を止めてぽかんとしている軍人たちへと会釈をし、「待ってよ兄さーん」と可愛らしい声を上げてがしょんがしょんと兄を追って去った。
「…………な、なんだったんです、大将のヤツ」
「猫かぶり」
「は?」
「弟の前で猫かぶり。………あ、」
 ぽかんとしたままののっぽの少尉を余所に、大佐はうんざりとこめかみを揉む。
「扉直させるの忘れた」
「あー……中尉に怒られるっスね」
「天災ということで片付かないかな」
「まあ、アレは一種の嵐でしょうが」
 無理じゃないっスか、と力無く呟いて煙草を銜えた部下に「室内禁煙だ」と不機嫌な大佐はクリップを投げつけた。

 
 

15 ケンカのあと



 わあわあと泣いている弟は取っ組み合ったときに出来た擦り傷に絆創膏を貼ってもらっている。それを窓から覗いた先程まで納屋に隠れて鼻をずるずる言わせながら蹲っていた兄は、痛む頬の傷と切れた唇を押さえて口を曲げた。
「ほら、アル、終わりよ。エドはどこか知らないかしら」
「知らないもん兄ちゃんなんか!!」
 そう、と苦笑する気配が空気を震わせ、さっと窓の下にしゃがみ込んで隠れた兄は開いている窓から切れ切れに聞こえるしゃくり上げる弟の声と、宥める優しい声を聞く。
「もう泣かないで、アル」
 男の子でしょう? とは、その声は言わない(男でしょ! と怒鳴るのは、遠慮のない幼馴染みのほうだ)。けれど自分には「お兄ちゃんでしょう?」とやんわりと微笑むそのひとのその言葉が、兄はとても好きだった。
 そうだ、オレは兄ちゃんだから、アルを許してやんなきゃないんだ。
 乱暴に擦った鼻をぐず、と啜り、兄はこっくり頷いて立ち上がる。けれどそれでも玄関に駆けて家に飛び込むには勢いとタイミングが掴めなくて、ぐずぐずと立ち尽くしているその背に、ほんの微かに笑い立ち去る気配を感じた。振り向いて、そっと窓から覗く。
 ひとりぽつんと火の入っていない暖炉の前に座り込んだ弟が、もちもちした小さな手でごしごしと顔を擦っている。もう泣いてはいないその眼が赤い。
「………兄ちゃんのバカ」
 なんだとこのヤロウ。
 せっかく許してやろうと思ったのに、と兄は引き攣る。しかしその兄の内心などお構いなしに(当たり前だこちらに気付いていない)、弟ははあ、と泣いた後の熱っぽい息をひとつ吐いた。
「………ごめんなさい」
 小さく呟き、首を傾げ、弟は何度かごめんなさいと繰り返した。謝る練習をしている。
 弟なんだから兄ちゃんを立ててやらなくちゃ、と、弟が考えていたかどうかなんて解らないのだけど(そんな難しいことを考えるような年ではなかったのは確かなのだが)、それでも弟は兄を馬鹿と罵りながら、しゃくり上げながら、それでもごめんなさいと素直に告げるのだ。
 
 ボクも悪かったよ、殴ってごめんね、兄さん。
 
「………ってな、お前はすんごい可愛い子供だったわけだが」
 エドワードは鼻血に染まった詰め物を抜きながらしみじみと言った。
「なんで今はこうも可愛くないんだろうなあ……」
「それ言うならさあ、そのあと窓から慌ててよじ登って来て『アルごめん痛かったよな!』って大泣きした可愛い男の子はどこにいっちゃったんだろうねえ、兄さん」
「オレんなこと言った?」
「言った。あーもー小さい頃はあんなに素直でお兄ちゃんお兄ちゃんしてたのになーボクの自慢の兄さんだったのに」
「自分を棚に上げるな! オメーだって昔はあんなに素直ですぐびーびー泣く可愛い弟だったのに!!」
「可愛くなくて結構ですう。あーほら兄さん動かないでよ、バンソコ貼れないじゃん」
「お前が殴んなきゃ怪我もせずに済むんだよ!」
「悔しかったらボクより強くなれば?」
「お前今鎧だろーがあッ!!」
 かーっもーむかつく!! とじたばたと暴れる兄を、だから動くなっての、と鎧の弟はべしりとはたいた。

 
 

16 髪結い



「あーダメ、無理、やーめた」
「おい投げるな、コラ」
「ボク今鎧だからさー、細かい動き苦手なんだよね。ごめんね兄さん」
「可愛く首傾げてもダメだ! 大体お前その姿でもオレよか全然器用じゃねーかよ。なんで三つ編みができねーんだ?」
「したことないもん。兄さんこそなんでそうちゃっちゃって結えるの? 難しいよこれ」
「ウィンリィも出来んだぞ?」
「ウィンリィ女の子じゃんか。女の子って髪結うのが上手いんだよ」
「そんな男女差別があるか。男の美容師はどうすんだ」
「あー、あれ凄いよねえ。男の人のが髪洗うの上手い気がしない?」
「話逸らすな」
「だからなんでボクにやらせたいかな。自分で結えばいいだろ」
「阿呆! また右腕が壊れたりしてみろ! 誰が結うんだよ!」
「少佐に頼めば?」
「いーやーだあああ!!」
「なんでトラウマになってんのか解んないよ兄さん。少佐、凄く上手かったじゃん、三つ編み」
「でも嫌だ! ちょっと手元が狂ったら髪の毛根こそぎ抜けそうじゃねーか!」
「うんまあ……それは解る気はするんだけど」
「ほら、もっかい練習!」
 はあ、とアルフォンスは溜息を吐いて差し出されたブラシを手にした。
「………ねえ、兄さん」
「あー?」
 さくさくと髪を梳き、三つに分けてさて、と首を捻りながらアルフォンスは呑気な声で続ける。
「手元が狂って髪の毛根こそぎ抜けたらごめんね」
「なっ、」
 ぎくりと強張った兄の背に、アルフォンスはくすくすと笑った。

 
 

17 僕は君のための僕



 ぼんやりと窓辺を見遣る。しとしとと湿った音を立てて、温かな雨が降っている。
 ごんごんごん、と床を揺らすのは列車の振動で、この建て増しに建て増しを重ねた建物ばかりが連なる一角は線路は遠いというのにこうしてびりびりと振動が不安定な建物を伝わって届く。
 誰かが取り込み忘れたシーツが、じっとりと雨を吸って重たくロープをたわませる。
 もぞり、と、首筋の筋肉が微かに緊張した。
「………起きたか?」
 もぞもぞと蠢く気配がして、一拍を置いてうん、と小さな寝惚けた声が答える。
「おはよ、兄さん」
「おはよう、アル」
 青年は眼を細め、窓に斜めに背を向け壁に掛かる姿見を見た。微笑む。
「なんだ、元気ないな? 夢見でも悪かったか?」
「ん……おなかすいた」
「ああ、」
 そういや今日は朝から食ってないな、と呟いて、青年は立ち上がりコートを手に取る。
「なんか食いに行こうか」
「ん、…でも雨降ってるよ、兄さん」
「いいよ、あったかいから」
「風邪引くよ、」
「大丈夫。オレ丈夫だから」
「血印が流れちゃう」
 青年は唇を歪めて笑い、杖を手に取った。こつん、と床を叩く。
「入れ墨だから、大丈夫」
「ああ、」
 そうだっけ、と呟いて、さらさらと髪の毛か柔らかな布地がうなじを擦るように膚が粟立った。
「痛くないか、コートの襟」
「うん、大丈夫」
 でも外が見えないなあ、と呑気に呟く声に我慢しろよ、と笑って、青年は帽子を被った。ぎこちなく強張る身体を杖で巧みに支え、扉を開く。
「兄さん、」
「ん?」
「………ボクらあとどのくらい生きるのかなあ、」
「んー……」
 もう右目の視力はほとんどない、灰色に濁り始めた金の眼を細めて青年は口元に深く深く皺を刻んで微笑む。
「そんな長くはないんじゃないか」
「……そっかあ」
 しわがれた声に、子供の声が囁いて返す。
「時間、二人分以上だからなあ」
 ごめんね兄さん、と申し訳なさそうに囁く声に、いいよ、と返して青年は骨張った大きな皺だらけの手でそっと首の後ろを包んだ。ざわり、と怖気のように緊張が走る。
「────オレはお前のものだ、アル」
「兄さんてそればっかりだ」
 ボクこそ兄さんのものなのに、と呟く声に密やかな笑い声で返して、青年は閉じた扉に鍵を掛け、ゆっくりと錆びた鉄の階段を降りた。
 ごんごんごん、と、遠くの列車の振動が、革靴の底から骨を震わせた。

 
 

18 枯れた花



「兄さーん! ボク先に行くよー?」
 おー、と書斎から返事が響く。アルフォンスはまったく、と溜息を吐いて白い花を抱え外へ出た。風が大分冷たくなった秋晴れの中、墓地へと向かう。
 師匠のところから帰って来てから兄はまるで何かに憑かれたかのように研究に没頭するようになった。以前は母の墓参りは前に供えた花が茶色く枯れ果てる前には新しい花を供えることが出来るほど頻繁に通っていたというのに、今は月命日ですらアルフォンスひとりで向かうことが度々あるほどだ。
 
 ───母さんは戻ってくるのだからと。
 
 多分そう思っているんだろうなあ、とアルフォンスは呆れと諦めを交えて小さく肩を竦めた。
 イズミ師匠に師事をして、少なくとも兄は格段に腕を上げた。天才じみた鋭さを秘めていたひらめきは正しい理論を得て更に鋭く、凡人には到底窺えない境地に手を掛けつつある。あの兄の頭脳を持ってすれば、きっと人体錬成も夢ではない。
 だからきっと、母は戻る。兄の理論の完成した、そのときに。
(……けど、だったら、このお墓は何のお墓なのかなあ)
 かさかさに枯れた花を片付け吹き溜まっていた風に乗って降った落ち葉を軽く掃除をして新しい花を供え、十字を切って指を組み合わせて眼を閉じ、考える。
 
 たった28歳で死んでしまった母さんの、28年間分が記録された肉体の。
 
(そっか)
 28年間の、時間の墓だ。
 ならば花を供える意味はある。28年の流れに敬意を示して、母の生きた軌跡を愛おしんで。
「あれ? なんだよ、花持って来たのか、アル」
 じっと祈りの仕草のまま瞑目して考え込んでいたアルフォンスは唐突に掛けられた声に飛び上がった。
「えっ、な、あ、あれ? 兄さん?」
 慌てて振り向いた弟に、エドワードは怪訝そうに眉を顰める。その手には白い花。
「キッチンに置いてあったからお前忘れてったのかと思ったのに」
「あ、ちょっと多過ぎたから半分置いて来たんだよ」
「なんだ、そうなのか」
 言いながら、でもせっかく持ってきたのだし、とアルフォンスの供えた花に更に花束を足して兄は十字を切り指を組んで僅かに瞑目した。アルフォンスはその横顔を見つめる。寝る間も惜しんで(食事だけは人一倍だが)研究を進めているにも関わらず、その眼は疲労に淀むこともなく鋭いままで、顔色も悪くはない。気力が充実していれば身体の調子はある程度ついてくる、ということなのだろうか。
(それとも師匠のとこで体力付いただけかなあ)
 それは自分にも言えることで、やわやわと細かった身体は太くこそなっていないものの随分と引き締まり、筋肉が付いた。さすがに肉体労働をしている大人とやっては勝てはしないが、ひ弱な男なら腕相撲で勝つ自信もある。
「なあ、ばっちゃんが今日はシチューだって」
「ああ、」
 寒くなって来たもんねえ、と上げた顔をくりっとこちらへ向けて笑った兄に笑い返し、アルフォンスは立ち上がり枯れ葉と枯れた花を入れたバケツを掴んだ。
「んじゃ、帰ろっか」
「おう」
 オレ持つよ、と何を言う間もなくバケツを奪われ、アルフォンは手持ち無沙汰にさっさと大股で歩き出した兄の影を踏んで歩いた。
 
 あのとき散々泣いた自分たちの涙や、火の気のないキッチンや、手入れが悪くて枯らしてしまったトマト畑や。
 
 そんな寂しさも、母の28年間の記録とともに。
 
 母さんが戻ってもお墓の花は枯らさないようにしよう、と考えて、アルフォンスは小さく笑った。

 
 

19 銀時計



「SV1000?」
「SV1000」
 ええー、と房飾りを梳いていた首なし鎧の弟は不満げな声を上げて外していた兜をかぽりと嵌める。
「国家錬金術師って戦場に行ったりするんじゃなかったっけ? 純銀じゃすぐ傷だらけになって壊れちゃうんじゃないの」
「いや、さすがに留め具んとこは鉄かSV950あたりだと思うけどさ」
 ばさ、とベッドの上に拝命証やら規約の書類やらの入った封筒を放って自らも腰を下ろし、兄はふー、と息を吐いてブーツをすぽすぽと脱いだ。
「やっぱすぐ傷だらけにはなるみたいだぜ。マスタング大佐の見せてもらったけど、何回も磨き直して打ち直したらしいけどそれでもぼこぼこになってた。銀鎖もこんだけ太いのに、三回切れたって言ってたし」
 落として留め金んとこが割れて蓋が外れたこともあるらしい、と呆れ顔で言って、兄はポケットから取り出した銀時計をぽんと放って掌でキャッチする。弟は実用性がないなあ、と尖った声を上げたが、すぐに溜息を模した声で棘を緩ませた。
「まあ……それだけ大事にしろってことなのかもね」
「しねーだろ、こんなもん」
「いや、するの、普通は。物凄いお金が掛かってるんだよ、その銀時計いっこに」
「まあ高価は高価だろうけど」
「じゃなくてー、年間研究費とか凄いだろ。その銀時計が欲しくてでも試験通らない錬金術師って多いらしいよ。ほんとに一握りしか受からないんだって。兄さんは推薦受けてたから実績なくてもすぐ実地試験だったんだろうけど」
「お前詳しいな」
「ちょっと調べてみたんだよ。ボクも取ろうかなって考えてたときに」
 ふーん、とつまらなそうに呟いて、兄はまじまじと銀時計を見つめ、ふと思いついたようにその裏面を機械鎧の縁でがり、と傷付けた。
「何してんだよ兄さん、」
「こっちこい、アル」
 なんだよ、と咎める声のままで言って、それでも素直に近付いた弟の肩の装甲に兄はかり、と銀時計を掠る。
「………なに」
「んー、刻印? 名前とか彫ってあるわけでもねえしさ」
 薄く十字に傷の入った裏面を撫でて、兄はポケットへと銀時計を滑り込ませる。
「無くしたときの目印とかさ」
「無くすなよ」
 冷たく突っ込み、弟はまあいいけど、とベッドの上に放られていた封筒を手に取り中の書類をぎこちなく捲りながら読み始めた。
 兄はごろりとシーツの上へと仰向けに転がり、ポケットの中の銀時計を探る。
 生身の指先に、今付けたばかりの傷の縁が、ぎざぎざと触れた。
「………オレたちの刻印、な」
「ん?」
 顔を上げた弟に、なんでもねえよ、と笑って、兄はぱたりと眼を閉じた。

 
 

20 キス・キス・キス



「おでこにちゅ♪ ほっぺにちゅ♪ すきだよアルくんすきすきちゅ♪」
 やさしい声が甘く囁くように唄っている。もぞ、と寝返りを打った幼児は毛布にくるまったまま弟をあやしている背中を寝起きの腫れぼったい眼で見つめた。
「しっかりきゅ♪ やさしくきゅ♪ すきだよアルくんすきすききゅっ♪」
 きゅうっと抱き締める腕に抱きつき返した弟は、舌っ足らずに「おかあたんきゅっ」と繰り返してきゃあきゃあと笑った。
「あら、エド。起きた?」
 むく、と起き上がると明るい緑の眼が向き、微笑んだ母は片腕に弟を抱えたままもう片腕を広げて見せる。幼児は口をへの字に曲げたまま、とたとたと近付いた。
 あらご機嫌斜めかしら、泣いちゃうかしらと瞬く母に構わず、腕の中の弟が満面の笑みを浮かべて短い両腕を伸ばす。
「にいたん、すきすきちゅっ」
 その仕草はまるで天使のようで、エンジェルスマイルの視線の先でしかめられていた幼児の顔が綻んだ。
 
 
「アルくんすきすきちゅーっ」
 むくりと起き上がり様にソファの端に座っていた弟の太い鋼鉄の首に腕を巻き付け、むちゅーっと面の継ぎ目に熱烈にキスを送り再びぱたりと寝入ってしまった最年少国家錬金術師に、向かい側のソファで旅の話を聞いていた大佐も煙草を灰にしていた少尉もなにより当の鎧の少年も全員が固まった。ひとり何事もなかったように中尉がコーヒーを置く音がかちゃりと小さく響く。
「た…た…大佐大変! 兄さんがおかしくなっちゃった!!」
「大丈夫だアルフォンス、君の兄は元々おかしい」
 それはなんのフォローにもなってません大佐、と何本目かの煙草を咥えた少尉がぐったりとぼやく。
 鎧に抱き付いたままの兄が、むにゃむにゃと幸せそうになにか呟いた。

 
 

21 神様なんてこわくない!



「そんなの食べたら罰が当たるよ、兄さん」
「アホか。科学者がそんな迷信信じるな」
 食事が足りていなかったわけでもないのに教会の庭の苺を摘み取って食べた兄は、その後しばらく腹痛で唸るハメになった。
 天罰覿面、と弟はトランクから薬を取り出しながら肩を竦めた。

 
 

22 これだけは



「も、ほんと勘弁してくださいアルフォンス君!」
 涙目で部屋の隅ででかい身体を縮めてぷるぷると震えている兄を見つけた弟は、ぜえぜえと肩で息をしながら座った金眼でぎろりと睨んだ。
「だ、め!! 約束は約束だろ!?」
「オレもうこれ以上身長いらないし!」
「ボクがピクルス克服したら自分も牛乳飲むって言ったのは兄さんだろー!? まったくひとのこと子供扱いしといてそれかよ! ふざけんなばかっ」
「ばかって言うな!」
「ばかはばかだっ!」
 どんどんと足を踏み鳴らしてやって来た弟は小さな子供の身体をしているというのに怒りの気配をまとって異様に威圧感がある。兄はますます身を縮めて頭を抱えた。
「ほんとすみませんでしたアルフォンス君! いやアルフォンスさん!! まさかお前がピクルス食えるようになるなんて思わなかったんだよー!」
「飲め」
 捲し立てる兄を無視して、弟はずいと牛乳瓶を突き出した。うっと呻いた兄はそっと視線を逸らす。
「飲めってば」
「…………………牛乳きら、」
「そんなの解ってるよボクだってピクルス嫌いだよ」
「むしろアレルギ、」
「嫌いなだけでアレルギーになれるならボクは兄さんアレルギーになるよ」
「へ!?」
 ぱっと上げた視線の先で、弟はにっこりと愛らしく微笑んだ。しかしそのまとう冷気に兄はひくりと引き攣る。
「………あの、アルフォンス?」
「飲まなかったら、兄さんボクに触るの禁止」
「ちょ…それだけはやめてー!? 折角お前生身に戻ってちゃんと触れるようになったのに!!」
「別に兄さんに触らせるために戻ったわけじゃないもん」
 ぷい、と顔を背けて、弟はこん、と床に牛乳瓶を置いた。
「じゃ、ちゃんと飲んでね。あ、捨てたら解るから」
「な、なんで解るんだ」
 てくてくと退室し掛けていた弟は、くる、と肩越しに振り向いてにこりと笑い、人差し指でつんと唇をつついて見せた。
「ちゅーすれば解るよ。牛乳飲んだあとって牛乳のにおいがするんだ」
 え、と呟き赤面した兄は、直ぐさまさあっと青醒めた。
「あの、アル……?」
「なに」
「オ、オレ、牛乳飲んだあとにお前とキスしたことってないよな……?」
「兄さんそもそも牛乳飲まないじゃん」
「じゃ、……その、なんでそんなこと知ってんだ」
 弟は悪戯でもするようににんまりと眼を細めた。
「さあね?」
 じゃあちゃんと飲むんだよ、とうきうきとした足取りで出て行った弟を呼び止めることも忘れ、硬直した兄はぎぎぎ、と首を巡らせ牛乳瓶を見つめた。
 冷えた牛乳瓶から、水滴がころりとひとつ転がった。

 
 

23 叫び



「      」

 
 

24 終焉



 水35リットル・炭素20kg・アンモニア4リットル・石灰1.5kg・リン800g・塩分250g・硝石100g・イオウ80g・フッ素7.5g・鉄5g・ケイ素3g・その他少量の元素。
 
 プラス。
 
 限り無い無知と無知に因る幸福。
 
「行くぞ、アル」
「うん」
 
 青白い稲妻が終焉を告げる。
 無知のしあわせと無垢な愛と安定とただしいうんめいと真っ直ぐな未来と健やかな成長と繋ぎ合う手と当たり前の離別の時を。
 
 失う。
 
 
 どろどろと濃い血の河を渡る。

 
 

25 いつまでも



 好きだよ。いつまでも一緒にいよう。たった二人の兄弟なんだ。
 うん、と頷いて繋いだ手に少しだけ力を込めて、けれどほんとは知っている。
 
 そんなことはうそだということを。
 
 世界は未来へ向かって一方的に強制的に流れゆく。大河の中のちっぽけなさかな二匹、ひれを触れ合わせて並んで必死に泳いで泳いで泳いで流れの中で渦の中で己を見失わないよう互いに縋って縋って縋って。
 つりばりに掛かるのは渦に呑まれるのはどちらが先か。
 
 
 ようこそおろかなれんきんじゅつし、と。
 姿の見えないおのれが嗤う。

 
 

ex 無題



 ごとん、と足下にトランクを置いて、腕に抱いていた猫を放してしゃがみ込んだまま手を振って見送っている弟の隣に並ぶ。満腹になった野良猫はぴんとしっぽを立てて振り向きもせずに真っ直ぐに、誇り高い生き物のように光満ちる大通りへと歩いて行く。
「もういいか、アル」
 弟は兄を見上げ、うん、と頷き立ち上がった。
「もういいよ、兄さん」
 よし、と頷き兄は腕に抱えた深紅のコートを羽織る。背に染め抜いたフラメルの十字はいつまで経っても色褪せはしない。弟はよいしょ、とトランクを掴んだ。
「いいよアル、オレが」
「買い出しいっぱいしたからね、重たいでしょ? ボクが持ったほうが能率いいよ」
 それに、と弟は兄の右手を指し示す。
「ウィンリィの機械鎧、随分軽量化されたんでしょ? トランクでバランス取る必要、もうないじゃん。筋力だって付いてるんだしさ」
「おお、オリャ力持ちよ。だからそんなトランクなんか軽々だっての」
「疲れないボクが持ったほうが能率がいいんですー。もう、早く行かなきゃ列車が出ちゃう」
 がしゃんがしゃんと歩き出した弟に溜息を吐いてわしわしと金髪を掻き混ぜ、兄は軽い足取りでその後を追った。腰の銀鎖がしゃんと鳴る。
「どこに行こうか、兄さん」
「東だろ」
「そのあと」
「ユースウェルだろ」
「ユースウェルまでのチケットってだけだろ。そーのーあーと」
 兄はかりかりと顎を掻いた。
「………ま、どっかにな」
「クセルクセスとか行ってみる?」
「描いて見せたレリーフ以外はめぼしいのは無かったぜ」
「じゃあ、シンとか?」
「だったら案内頼んで、リゼンブールから出たほうがいいっぽいけど」
「クセルクセスもリゼンブールからのほうがいいんだっけ?」
「案内のオッサンはそう言ってたけどな」
 そっか、ふうん、と頷いて、弟は路地を吹き抜けた風に煽られた房飾りを軽く払う。
「………どこに行こうねえ、兄さん」
「だから、東だろって。何もなかったら次は……うーん、西にでも? 北はもうちょっとで雪だし」
「そうじゃなくて」
「国外のほうがいいって?」
「そうじゃなくて」
 兄は眉を顰めて弟を窺う。弟はふっと兄を見下ろし、小さく首を傾げた。笑ったように見えた。
 こん、と、胸当てを鉄の手が叩く。からっぽの音がする。
「うん。なんでもないよ、兄さん」
「………なにが?」
「東だよね。次が西」
「……………」
 弟はもう一度微笑むように首を傾げ、前を向いてふいに足を速めた。
「急ごう兄さん。列車に遅れちゃう」
「………おう」
 眉を顰めたまま、兄は弟を追って駆け出した。
 
 
 どくん、と。
 鼓動の合間の僅かな瞬間の記憶が。
 にやりと嗤った姿の見えないおのれが。
 ようこそおろかなれんきんじゅつしと。
 
 お前はもう帰れないんだよと甘く優しい子供の声が。
 
 二度目の鼓動で兄の意識はこの世に戻った。
 
 
 兄さん。
 
 
 
 続く鼓動を、ボクは聴いていない。

 
 
 


更新履歴>>>
 
2005.09.25 1〜3
 2005.09.26 4〜8
 2005.09.27 10
 2005.09.28 9・11・12
 2005.09.29 13〜16
 2005.09.30 17
 2005.10.01 18
 2005.10.02 19〜22
 2005.10.03 23〜25・ex
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