「きおくそうしつ?」 異国の聞き慣れない食べ物の名前でも発音するように辿々しく繰り返したハボックに、鎧の少年はそうです、とかしゃんと身体を鳴らして頷いた。 「記憶喪失、健忘症、記憶障害、物忘れの酷いヤツです。いわゆるアムネジア」 ははあ、と解ったのか解らないのか判然としない返答をして、ハボックはつまんでいた煙草を咥えた。 「どんだけ憶えてないんだ?」 「全部です。でも一応、一般的な知識はあるみたいで……えーと、個人的な情報だけがすっぽり抜けてるカンジです」 「つーことは、名前とか国家資格持ってることとか」 アルフォンスは再び頷く。 「錬金術の存在は知ってますけど、自分が錬金術師だということは解らないです」 「体術は?」 「反応は悪くはないけど、身体が覚え込んでるとこまでですね。体術って結構頭使うでしょ」 「俺はどっちかってーと勘に頼るほうだけどな。うんでもま、憶えてなきゃ動けねえな」 ぷは、と煙を吐いて、ハボックはちらりとアルフォンスを横目で見遣る。 「………んで、お前のことは?」 「憶えてませんよ、勿論。ハボック少尉のこともホークアイ中尉のこともマスタング大佐のことも全部。司令部に連れて来るのだって凄く苦労したんですから。なんで軍司令部に未成年の民間人がほいほい入れるんだって言ってごねるし、銀時計が本物だって何度言っても信じてくれないし」 段々と拗ねた口調になる鎧の子供にそうかあ、と頷いてハボックは灰皿に煙草を押しつけた。 「……んで、お前のことは話したのか?」 「アルフォンス・エルリックという名前でひとつ半下の弟で、リゼンブールが故郷でボクも錬金術を使うってこととかは」 「身体のことだよ」 う、と言葉に詰まった子供はもじもじと両の指を合わせて俯いた。どこか照れたような、ばつの悪いような仕草だ。 「えっと……まだ言ってない、です。からっぽだとか言ったら吃驚すると思うし……」 「全然思い出さないのか? どのくらい前から?」 「え、えーと……」 アルフォンスは何故か慌てたように人差し指をぐるぐると回す。 「あっ、えーと、中央でちょっといざこざに巻き込まれて階段から落ちたときからだから、もう……2週間? く、くらい、かな?」 「2週間もお前、なんも憶えてない上にお前の事情知らないのと一緒にいたのか?」 「いっ…いや、ホテルの部屋も別々に取ってた、から……」 おいおい、と溜息を吐いたハボックといつの間にか書類を捲る手を止めてアルフォンスをじっと見つめていた女性士官の鳶色の瞳に慌て、鎧の子供は誤魔化すように窓の外へと視線を向けた。中庭では軍人たちの質問責めにキレた兄がしゃがみ込んで小さな背をこちらへ向け、ブラックハヤテ号をつまらなそうにじゃらしている。 「あ、」 それをどこか困ったように首を傾げて見るともなく見つめていたアルフォンスが、短く声を上げて窓に張り付いた。二人の副官が揃って視線を向ける。 「大佐、」 ポケットに手を突っ込んだまますたすたと横柄な足取りで蹲った子供に近付いていく国軍大佐に、再びアルフォンスが声を上げる。 「あ!」 「あ、」 ハボックの口から火を付けようとしていた煙草が落ちた。 三人の見ている中すたすたと歩み寄った黒髪の軍人は歩を緩めることなく片足を振り上げ、軍靴の踵で子供の後頭部を前方へと押し出すように蹴った。 「………た、大佐ぁ……」 何してるんだよもう、とほとんど泣き声で呟いて、苦労性の弟はよろりと立ち上がりがしゃんがしゃんと司令室を出て行った。 残された副官二人は肩を竦め合い溜息を吐いて、窓際から離れる。 「………ま、気持ちは解らんでもないです、アルの話聞いた後じゃあね」 「ハボック少尉、見なかったことにね」 「了解」 ぴ、と軽く敬礼をして、ハボックは落ちた煙草を拾った。 「ッてェな何すんだあァ!?」 「ちょっと蹴ったくらいでぎゃあぎゃあ喚くな」 「蹴った!? 今のが蹴った!? 踏んだの間違いだろ!?」 思い切りつんのめり地面に転げた金髪の子供を未だポケットへと手を突っ込んだ姿勢のままふん、と鼻を鳴らして見下ろした大人は、潰される前に素早く逃げた副官の飼い犬にちらりと視線を向ける。黒い犬はたかたかとその足下に寄り、ぴたりと前足を揃えて控えるように座った。 子供は不満げに大きな金眼を眇める。 「アンタの犬かよ。勝手に構ったのが気に食わないんならそう言えよ、立派に付いてんだろうが、口が」 「私の犬ではないな。ホークアイ中尉の飼い犬だ」 「ああ? あ、あの金髪の女の人?」 ふーんそうか、と呟いてよ、と立ち上がった子供はぱたぱたとコートの土を払い、それから後頭部に左手を当て眉を顰めた。 「うわ、土だらけ」 ひでぇなもう、とぶつぶつと言いながらぱらぱらと土を払い落とす様子をロイはじっと見下ろしている。ちらりと上目遣いに視線を向けたエドワードは、むっと眉を寄せた。 「何怒ってんだよ、アンタ……」 肩章に視線を這わせ、エドワードは続けた。 「………マスタング大佐? か?」 「そうだ、鋼の錬金術師」 「あ? ……ああ、オレのことか? アンタそんな風に呼んでんの。っつか、アンタとか言っちゃダメか?」 「好きにしろ」 「だって偉いひとだろ」 「今更君に敬語など使われても気持ちが悪いだけだ」 「なにそれ」 酷ェの、と言いながら何故かくつくつと喉を鳴らして笑う子供はもう機嫌を直している様子だ。ロイは眉を顰めた。 「鋼の。君、頭の線がどこかいかれたな」 「いかれたから色々すぽっと忘れたんじゃないの」 ぼりぼりと頭を掻きうわまだざらざら、と口を歪めてエドワードは掌に付いた土を払い落とす。機械鎧の右手は滑らかに動いている様子だ。 「機械鎧は大丈夫なのか」 「あ? ああうん、慣れてるみたいだな。アルフォンスが付けてからもう4年も経ってるって言ってたし、身体が使い方覚えてんじゃねえ」 ふん、と呟き何か思案するように右手の人差し指で唇を撫で、ロイは片目を眇める。 「………鋼の、君……」 「兄さん! 大佐!」 がしゃんがしゃんと派手な金属音を立ててやって来た鎧の子供に視線を向け、ロイは再びむっと不機嫌に顔を顰める。エドワードはその様子をちらりと眺め遣り、それから弟へと片手を上げた。 「用事済んだか、アルフォンス? だったらもう行こうぜ、こんなとこいたってしょーがねーだろ」 「えっ、いやっ、さ、さっき大佐に蹴り飛ばされてたけど兄さん、大佐に何かしたんじゃ───」 ふいに伸びて来た軍服に包まれた腕がアルフォンスの兜の房飾りを掴んだ。 かと思えばがぽんと頭を外されて、兄弟はぽかんと見合う。 「────たっ、大佐!?」 何するんですか返してください! と大慌てで兜を奪おうとするアルフォンスに逆らわずに返してやりながら、ロイはじっと金眼の子供を観察している。呆気に取られていたエドワードは、その夜色の眼へとそろそろと視線を這わせてぎこちなく、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。 「ええっと…………、………と、トリックオアトリート? なんちて」 「ほう」 感心したように片眉を上げた大人はにっこりと満面の笑顔を浮かべた。 「いいことを教えてやろう。その言葉はだな鋼の、悪戯をする前に言うべきものなんだぞ?」 「え、い…やあ……」 「それにまだ10月は始まったばかりだ。万聖節など何週間先だと思っているのかね?」 笑顔の大人が一歩踏み出すごとにじりじりと一歩後ずさり、エドワードは冷ややかな汗の浮く顔にぎこちない笑みを乗せる。 「だ、だってハロウィンの頃は来れねえし……ッ!」 「少し早いハロウィンもいいだろうさ、菓子くらいいくらでも恵んでやろうじゃないか。そうではなく、問答無用で悪戯を仕掛けた、その理由を聞かせてもらいたいのだがね私は」 「いやだって菓子なんかもらうよりアンタの慌てた顔見たほうが面白………」 語るに落ち過ぎだろ兄さん、と呟きくるりと背を向けたアルフォンスの背後で、逃げ損ねてその長い腕に捕まったらしい兄の聞き苦しい悲鳴が響いた。 「で、アンタはなんであんなに怒ってたわけ」 ひりひりと痛む強く抓られた頬と焦げた眉毛に憮然としながらソファの上で胡座を掻いている子供の額に、かさりと包みが触れる。エドワードは差し出された紙袋を受け取った。 「なにこれ」 「菓子」 「………はあ」 気の抜けた返事をして開けてみれば、ストライプ模様の飴やら様々なキャラクターを象ったクッキーやら薄紙に包まれたドライフルーツの乗ったパウンドケーキやら銀紙に包まれたチョコレートやらが詰め込まれている。 「………オレあんま甘いもんダメなんだけどー……」 「それほど甘くないものを選んだつもりだが?」 「この派手なスティックキャンディはなんだよ」 「洒落だ」 「洒落かよ」 むす、とむくれてエドワードはかさかさと薄紙を開きパウンドケーキに噛み付いた。 「んで?」 口をもぐもぐとさせながら促せば、向かいのソファに落ち着いた大人はグラスに満たした酒で唇を湿らせながら軽く肩を竦めた。 「先に君の悪戯の理由を聞きたいところだね」 「理由っつーか……解んねえ?」 「解らんね、君が突飛なのはいつものことだが」 あーうーん、と唸り、エドワードは口元の菓子屑を指で払う。 「だってさあ、菓子とかもらってもアルが困るだろ?」 黒眼が瞬く。エドワードは唇を曲げた。 「騙して悪かったしあんなにみんなにしっかり信じてもらえるとは思わなかったけど、悪戯ならアルも楽しいんじゃねえかなって」 「………中央からアームストロング少佐に電話を掛けさせておいて信じてもらえるとはもなにも……」 「あ、やっぱあれが決め手?」 「あとはアルフォンスが……その、今思えばやけに落ち着いていた気はしたが」 ロイは溜息を吐いて顎を撫でた。 「………頭に血が上っていて嘘だとはまったく、思いもしなかったな」 「そうそう、それだよ。なんで怒ってたの」 はあ、ともう一度ロイは溜息を吐く。 「アルフォンスが、」 「? アルが?」 「君に魂のみの身体であることを告白していないと」 「………へ?」 黒眼は逸らされたまま、ふて腐れたようなその顔はどこか照れたようにも思える。 「あの出来た弟にそんな心労を掛けてまで何をやっているんだと思ったらちょっと理性が」 「な………」 なにそれ、と間の抜けた声で呟いたエドワードに、ロイはうるさい、と返して額を抱えた。 「こんな稚拙な悪戯を見抜けなかったなど、恥だ恥。しかもアルフォンスもグルだったわけだ。怒り損じゃないか、」 「もういい黙れ」 低い声に視線を上げると、いつの間にか立ち上がっていたエドワードが机を一歩で乗り越えてロイの脇へと片膝を突いた。 「おいこら、机を足蹴にするな」 「オレを足蹴にした癖になにを言う。……じゃなくて、」 金の眼がじっと大人を見下ろした。 「………抱き締めていい?」 「は?」 「だってさ、」 答えを待たずに広げた両腕をその広い肩へと回して黒髪に鼻を埋め、エドワードはえへへと笑った。 「そんな嬉しいこと言われたら抱き締めたくなっちゃうだろ」 「は? なにが?」 「だってアルのために怒ってくれたんだろ? オレがアルのこと忘れちゃったって思ったから腹が立ったんだろ?」 「…………まあ、そういうことになる、のか?」 「すっげえ口説き文句じゃんそれって!」 「なんでそうなる」 「なるの。オレにはなるの」 すり、と黒髪に頬を擦り寄せ、エドワードはうっとりと囁く。 「オレアンタのこと、凄ェ、好き」 「………ならこんな心臓に悪い悪戯は金輪際しないで欲しいものだね」 なんで心臓に悪いのか、とか、アルフォンスを忘れたことだけがあの理不尽に冷たい眼の理由だったのか、など尋ねたいことはあったけれど、それを問うのも無粋だとエドワードははーい、といい子の返事をして不意打ちでその唇を奪った。 薄く開いた唇からは濃い酒の味がして、まだ吐息の触れる位置で弟には菓子の代わりに使いやすそうな手帳を渡したよ、と囁いた大人の僅かに濡れたそれを、エドワードは今度はそっと甘噛みした。 |
■2006/1/17 ハッピーハロウィーン!
ジャックの銀貨は騙され悪魔。ハロウィン限定SS。フリーSSでしたが、現在は配付は終了しておりますので持ち帰らないでくださいませー。配付終了とともにデッドリンクしてましたがこっそり復帰させてみました。
初出:2005/10/4
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