「大佐」 いつもと変わらない優しい幼い声で呼ばれ、ロイは何かね、と相槌を打った。視線はこの可愛らしい声の鎧の少年の兄が置いて行った報告書に落としたままで、寄り掛かるのは冷たい壁で、伸ばした足の下には古い毛布で、その膝の上にはタオルにくるまり微睡む汚れた子猫。 「あの、大佐」 「うん」 「ズボンが汚れちゃいます」 「そうだな」 「あの、」 「なにかな」 「………泣きそうです」 ロイは視線を上げた。見上げた先の少年は隣に同じ姿で座り込んだまま、僅かに首を傾げて見下ろしている。その眼窩の赤い光が小さく瞬いた。 「それは大変だ」 「大変ですか」 「新年早々君を泣かせたとあっては君の兄に殺される」 「………困りましたね」 「困ったな」 まったく困っていない顔でにんまりと笑い、ロイは機嫌良く再び悪筆の並ぶ報告書へと目を落とした。 「それで?」 「はい?」 「どうして泣きそうなのかね」 かしゃん、と小さく音を立ててもう一度首を傾げ、解りませんか、とアルフォンスは尋ねる。 「解らんね」 「本当に?」 「本当にだ。だから理由を聞かせてくれると有難いんだが」 「………大佐がサボりに出て来てくれてよかったなあと思って」 「それはまた人聞きの悪い。こうしてちゃんと仕事をしているじゃないか」 「でもさっき見たとき机の上に書類が山でしたけど」 「君の兄の報告書を読み終えたらやるさ」 「その前にサボるんでしょ?」 「自主的休憩と言いたまえ」 「同じ意味だと思います」 ちらりと横目で見たロイは、唇を曲げて小さく肩を竦めた。 「年末から家にも帰らず詰めているのだから少しくらい大目に見てくれてもいいんじゃないかね」 「年末も年始も関係なく駆けずり回る兄さんに言ってやってくださいそれ。普通のひとならおやすみするものなんだよって」 「兄が気になるのなら戻りたまえよ。ああ、私がここにいることは内緒に頼む」 「………だって」 ロイの言葉の後半を聞かず、猫が、と呟いたアルフォンスにロイは再びちらりと視線を流す。 「泣きそうか」 「泣きそうです」 「膝に抱けなくて悲しいのかね」 アルフォンスは首を左右に振った。ロイは小さく頷いて、笑う。 「では猫が助かって嬉しいのか」 「…………あと、大佐がちょっと羨ましいなって」 「まあ少し待ちたまえ。もう少し休んだら司令室に戻る。そうすれば君の鎧も温まって、猫も嫌がらないだろう」 はい、と素直に頷いて、それからふと慌てたようにアルフォンスは両手をぱたぱたと振った。 「……なにかね」 「今の兄さんには内緒ですよ!」 「どれの話だ。猫が助かったことか、君が泣きそうだったことか、」 「大佐が羨ましいって言ったことです」 「どうして」 「……体温がないのが悲しいって、兄さんなら思うだろうから」 ははあ、と呟いて、ロイは報告書を折り畳み、封筒に入れた。 「羨ましいと悲しいでは随分違うのにな」 「あんまり、ちゃんと肉体があるひとのことを羨んだりとかして欲しくない……わけじゃないんだろうけど、やっぱりそうだよなって顔して辛そうにするから」 これはこれで面白いんですけどね、と肩を竦めた少年の声に強がりはなくて、ロイは僅かに笑んでこつり、とその鉄の腕を叩いた。 「なかなか便利だものな」 「はい」 「貴重な体験をしていると思うよ」 「ボクもそう思います。肉体があったら知らなかったこととかも、たくさん勉強させてもらってる感じ」 「だが、」 薄く、見下ろす赤い光が瞬く。 「……今年は戻れるといいな」 アルフォンスはあは、と笑って伸ばした腿へと両手を揃えて置き、小さく首を竦めた。 「そう出来ればいいんですけど、こればっかりは。でもまだまだ色んなこと体験できそうだし、……うん、急がなくても」 ほんの少しの強がりのにおいにロイは眼を細める。 「肉体を持っていてこそ出来る経験も多いと思うよ。無償で何かを得ることはなかなか困難だ。何かを選べば選ばれなかった何かを失う」 「………等価交換ですか? 大佐がそういうこと言うの、初めて聞いた気がするけど」 「私は等価交換など信じていないからな。だが、無償で得られる何かがそうは多くないことも知っているんでね」 「………それって錬金術師らしくない言い方ですね」 「何、君たちよりも少しばかり長く生きているだけだ」 よく解らない、という様子で首を傾げるアルフォンスに笑って、ロイは片手にタオルごと子猫をすくい上げ、腰を上げた。 「サボるんじゃないんですか」 「君の鎧を温めなくてはな」 「え、いいですよ、もう少し」 「というか、私が寒いんだ」 言われて初めて微かに震える声に気付き、アルフォンスは慌てて立ち上がった。 「ご、ごめんなさい、ボク、全然気が付かなくて…! あ、は、離れますね! ボクが側にいると余計に寒い………」 「ここまで凍えれば大して変わらんよ」 何気なく持ち上げられた手に鉄の掌を握られ引かれて、アルフォンスは迷子のように大人へと慌てて付いて行く。 「大佐に風邪引かせちゃったら中尉に申し訳ないです」 「そんなに柔じゃない。だが早く温まってくれ。手が凍えそうだ」 「だったら離せばいいじゃないですか……」 うん、もう少し、と言って繋いだ手を離してくれない大人を振り払うことも躊躇われ、アルフォンスは仕方なしに腕を引かれて歩き続ける。 「………でも、ボクが温まったって、司令室でまで手を繋ぐわけじゃないでしょ? だったら大佐にはあんまり関係ないんじゃ」 「今の君に不用意に触れると凍り付いて皮が剥がれてしまうからな」 「え? 大丈夫ですよ、濡れてないから……」 「手を繋ぐ程度ならそれは大丈夫だが」 解らない、と首を傾げる少年をふと顧みた黒い眼が、にやり、と意地悪く笑う。 「このままではキスが出来ない」 「キ………、」 「こっそり戻って、鋼のが君を捜し回っている間にしてやろう」 「し、してやるって……」 「来た早々君が猫を抱えて行方をくらましてくれたお陰で新年の挨拶もまだなんだぞ。キスのひとつやふたつ構わないだろう、減るものでもあるまいし」 「……………。……あの、大佐」 「何かね」 「新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします……」 ちらりと流された細められた黒い眼が不穏だ。ロイはふん、と鼻を鳴らす。 「当然だ」 「…………。……年が変わっても偉そうなんですね、大佐……」 「偉そうなんじゃなくて事実偉いんだ」 大人なんでね、と本気か冗談かも解らない平坦な声で続けたロイに、アルフォンスはええと、と呟きこりこりと額を掻いた。 「怒ってますか……?」 「共犯者に内緒であんな寒い場所に隠れていたことなら、多少腹は立った」 「………そりゃ、その子を連れてたのに外に隠れてたのは考えが足りなかったですけど……」 「一言相談してくれればもっといい隠れ場所を伝授してやったのに」 「って、また新しいとこ見つけたんですか」 「日々精進だよ、アルフォンス君」 「それってこういうときに使う言葉じゃないと思います………」 それもそうか、と声を上げて笑ったロイに、アルフォンスはほっと肩を落とした。握られた手を僅かに握り返す。その感触は解らないが、見つめた視線の先で握り締められたロイの手が、更に握り返す動きで力を込めたのが見てとれた。 「大佐」 「なにかね」 「まだ新年の挨拶、してもらってません」 ロイは足を止め、くるりと振り向いた。ふ、と軽く笑んだまま溜息を吐く。 「仕方がないな」 屈みたまえ、と手招きされて、アルフォンスはぱちぱちと眼窩の光を瞬かせながら身を屈めた。途端兜が引き寄せられる。 「たい、」 掌が、面の継ぎ目、ちょうど口に当たる部分を覆った。その自らの手の甲にロイは口付ける。アルフォンスの視界には、軽く閉じた瞼と伏せられた睫が大きく映っている。 「あの………」 「ハッピーブランニューイヤー、アルフォンス」 「………はい」 呆然とした声を返したアルフォンスに、ロイはしてやったりとでも言いたげな、どこか悪戯っぽい笑みをにんまりと浮かべた。 「さあ、早く戻ろうじゃないか。温まったらきちんと直にしてやるから」 「え、い、いいですよ」 「遠慮しなくていい」 「いや遠慮じゃなくて」 まったく聞いていないロイにぐいぐいと再び腕を引かれ、アルフォンスは小さく溜息を模した声を洩らして妙に嬉しそうなその大人に付いて歩いた。 |
■2005/2/7 お年賀SS。フリーSSでしたが、現在は配付は終了しておりますので持ち帰らないでくださいませー。配付終了とともにデッドリンクしてましたがこっそり復帰させてみました。
初出:2005.01.02
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