「あ」
 小さな段差に眼が行かなかった。
 がくんと踏み外して倒れ込むその先に眼を丸くした小さな女の子を見て、ボクは今度は心の中であ、と言った。多分間違いなく、ぽかんとこちらを見上げているこの女の子の頭にぶつかり押し潰して一緒に倒れてしまう。どう身を捻ってもどこかが必ずぶつかってしまう。ボクは傷める身体はないからどんな無理な体勢だってとれるのだけど、さすがにこの一瞬で、生身の人間と同じように関節の動きに制限のある鎧は御し切れない。
 ので。
 つい、手が伸びた。
 女の子の肩を押しやって、その反動で反転し、背中からがしゃーんと倒れ込む。
 反動でがん、がらがらがら、と頭がどこかへ転がった。女の子は思い切り突き飛ばされた形になって、どたんと派手に転んでしまった。
「ごっ、ごめんね! 怪我はない!? 大丈夫!?」
 飛び起き様そう言ったボクは、やたらと広い視界と擦りむいた掌と鼻の頭とほっぺたと膝小僧のどれも押さえることもせずにボクを見上げるその子の視線で、頭がないことに気が付いた。
「あ!」
「アル!!」
 あわあわと手を彷徨わせて思わず頭がないことを強調し、ボクは慌てて辺りを見回した。先に宿へと入ろうとしていた兄さんが凄い速さで駆け出して道の向こう側まで転がっていたボクの頭を確保した。
「行くぞ!!」
「で、でも、この子、怪我」
 ぽんと投げられた頭を受け取り慌てて嵌めながら、ボクは女の子に視線を向けた。途端ぐしゃりと歪んだその可愛い顔。
 
 あ。
 
「やああああッ!!」
 可愛らしい子供の悲鳴じゃなかった。まるで大人の女のひとみたいな、本当に芯から恐れたような、そんな声にボクは身が竦んだ。
「アルッ!!」
「ご、ごめんね……怪我、ちゃんと診てもらって」
「早くしろアル!」
 兄さんがボクの腕を引っ張った。
 ボクはまだ座り込んだまま泣いている女の子の怪我がとても心配だったのだけど、なんだどうしたと窓から顔を覗かせるひとや向こうから駆けて来るひとたちに気が付いて、もう一度ごめんね、と謝って慌てて兄さんの後を追った。兄さんはどんどん路地へと飛び込んで、時折ばしばしと障害物に穴を開けながら、最短で最長の距離を稼ごうとしているようだった。みるみる市街が遠くなる。
 どんどん走り、線路を見つけて通り掛かった貨物列車の最後尾に兄さんが取りついた。ほら! と出された手を借りてボクも慌てて市街地を抜けて速度を増そうとしている貨物車にしがみつく。兄さんは凄く険しい怒ったような顔をしていた。
「………兄さん。この列車どこに行くんだろう」
「さあな。方向的に隣の街じゃねえ?」
「見つかったら怒られるよね。ていうかこのままじゃ兄さん寒くなるよね」
「しばらく離れたら飛び下りようぜ」
「けど兄さん、買い出しとかする前だったから兄さんのご飯がないよ」
「2、3日喰わなくても死なねえよ」
「水もないんだよ」
 兄さんはじっとボクを見上げた。眉間の皺が癖になりそうだなあ、と思ってボクは指で押してみる。しかし力加減を間違えた。
 ぐらりと傾く兄さんの身体。
「ッて危ね!」
 慌てて貨物車にしがみついた兄さんを咄嗟に支えたボクの手は再び力加減を間違えた。兄さんが痛ェ、と顔を顰めてボクを見上げる。
「なんだよ、アル」
「え? あ、ごめん、なんだか皺が癖になっちゃいそうだなって」
「そうじゃなくて、なんか変だぞ。兄さんの兄さんのってしつこいし。……背中見せろ」
 ボクは素直に背中を見せた。兄さんはあー、と呟きボクの背中を撫でる。ざらざらと鎧の中へと響く音で、結構へこんでいることが解った。
「へこんでんなあ。後で直してやるよ」
「うん、ごめんね」
「なんで謝んだよ」
「……手間掛けちゃうから」
「手間じゃねぇよ」
「あの街の図書館、兄さん凄く見たがってたのに」
「いいよ。またほとぼりが冷めた頃に寄ろうぜ。どうせ東部だ、ちょいちょい報告に戻んなきゃないし」
「………でも」
 ほとぼりなんか冷めないかもしれない。ボクは目立つから。
「ボク、街の外で何日か隠れてようか? その間に兄さんだけ」
「バカ」
 がいん、と向けたままの背中が殴られた。
「お前は悪くない。あの子庇おうとしたんだろ、不可抗力だって」
「うん、大丈夫」
 兄さんはむ、と眉を顰めた。
「大丈夫だと?」
「うん」
「何が大丈夫なんだ?」
 ボクは首を傾げた。
「………何が大丈夫なんだろう」
「解んねーのかよ」
「………解んないや」
 そっか、と兄さんは呟いて、溜息を吐きポールに転落しないよう腕を潜らせてよっこらせ、とタラップへ腰掛けた。ごうごうと兄さんの足の下を過ぎて行く地面。
「………リゼンブールを出て来たときも、タラップから線路見てたよね」
「そうだっけ」
「うん」
「憶えてねぇなあ」
 もう半年経つからなあ、と言った兄さんに、「ボクは憶えてる」と返事をして、ボクは遠くなって行くばかりの街の影を見た。
「ねえ、兄さん」
「んー?」
「………ボク、やっぱりリゼンブールで静かにしていたほうがいい?」
「……………」
 返事がない。
 視線を落すと兄さんは無表情にボクを見上げていた。ボクは申し訳ない気持ちになって、こんなときはどうするんだろう、と考えて、少し肩を縮めて見せた。
 兄さんが溜息を吐いた。
「なんでそんなこと思うんだ?」
「だって、ボク、なんだか兄さんの邪魔ばっかりしているみたいで」
「オレがお前に付いて来いっつったんだぞ」
「置いて行かれるなんて考えたこともないよ、ボク。一緒に来るのが当たり前だと思ってた」
「思ってた、じゃねーよ。それが当たり前なんだよ」
「………そうかな」
 兄さんはまた溜息を吐いた。この旅へと出てから、兄さんはこうやってときどき大人みたいな溜息を吐くようになった。ボクのせいかな、と思うと少し悲しい。
 大人に溜息を吐かれると、なんだかとても気持ちが沈む。
「なあ、アル。向こうのほう」
 兄さんは身を乗り出して進行方向を指差した。ボクは兄さんの頭の上から顔を出して指差された先を見る。
「橋の手前、カーブしてるとこ。森があるだろ」
「うん」
「多分あそこで減速するから、飛び下りようぜ」
「こんなとこで下りてどうするのさ。次の街にすぐ入れるとこまで行かなきゃ」
「線路沿いに行きゃいいだけだし、平気平気。大したことねぇよ」
「ご飯も水もないのに!」
「水は川で汲めばいいだろ」
「お腹壊すでしょ!?」
「水筒を鍋に錬成し直して沸騰させりゃいいだろ」
「ご飯は!」
「森でなんか見つけて行こうぜ。木の実とかキノコとか」
 もう、兄さんてどうしてこう。
「お前鎧になってから過保護だよな−。修行んとき考えれば全然大したことじゃねぇって」
 もう、とボクは項垂れた。
 兄さんて、兄さんて。
 その間に立ち上がった兄さんは減速するタイミングを図っている。
「ほら、アル、行け!」
 ぽん、と叩かれたのを合図にボクは森の端、落ち葉がたくさん積もる場所へと転がった。続いて兄さんがぼすんと転がる。
「………ててて。アル、平気か?」
「ボク、鎧だから。兄さんこそ怪我は?」
「オレは平気だ。なんだよ、心配くらいさせろ」
「もう充分してもらってます」
 ボクは立ち上がって兄さんの落ち葉だらけの身体をチェックする。同時に兄さんはボクの身体をチェックして、さっきへこんだ背中と今へこんだ腕を錬成してくれた。
 そうしてにんまりと笑ってボクを見上げた兄さんは、落ち葉をみつあみにくっつけたまま、ちょいちょいと手招きをしてボクにしゃがめと言った。ボクは膝を突く。兄さんはこほん、と空咳をして、少し悪戯っぽくボクを見上げた。
 兄さんが両腕を広げてボクを見つめる。
「ん」
「…………なあに?」
「だから、ん」
 ちょいちょい、と招くように兄さんの両手が軽く動いた。
「来いよ、アル」
 ボクはぽかんとして兄さんを見つめた。それに焦れたのか兄さんは腕を伸ばしてボクを掴み思い切り引き寄せる。がっしゃんと音がしてボクは勢い良く兄さんに凭れ掛かったのだけど、兄さんは両足を踏ん張って倒れ込むのを防いだ。
 兄さんの思いきり伸ばされた両腕がボクの頭をぎゅっと抱く。
「兄ちゃんはお前が大好きだぞー、アル」
 兄さんの手がボクの頭を撫でているのが振動で解る。
「いつまでも兄ちゃんの側にいろ。リゼンブールに帰るときは一緒だ」
「………でも、兄さん」
「でもじゃない。言うこと聞け」
「でも」
「うるさい、黙れ」
 視界の端っこにあった兄さんのほっぺたがちょっと動いて、面当てを固定しているビスの、ちょうどこめかみの辺りに、小さな小さな振動を感じた。
 
 ああ、今、生身の身体がなくてよかった。
 生身の瞳がなくてよかった。
 
 もし生身だったなら、ボクはみっともなく泣いていた。
「泣くなよー、アル」
「………泣いてないよ。ていうか泣けないよ」
「泣いてんじゃん」
 バーカ、と笑って、兄さんはもう一度ボクのこめかみにキスをした。
「オレと行こう、アル。絶対身体を取り戻してやるから」
「………うん」
「ひとりで帰るなんて言うな」
「……………、……うん」
「一緒に行こう」
 うん、兄さん、と呟いて、ボクはそっと兄さんの肩に手を当てた。機械鎧の硬い肩。
「………兄さんの手と足も、きっと戻してあげるね」
「おー、期待してるぞ」
 ボクの顔を見た兄さんは満面で笑っていたけれど。
 
 その金色の眼が、ちょっとだけ赤くなっていたので。
 
 ボクは、このひとと一緒にいようと思った。
 
 ずっと一緒に。

 
 
 
 
 

■2004/7/25

幼兄弟で一萬打記念SS。フリーSSでしたが、現在は配付は終了しておりますので持ち帰らないでくださいませー。配付終了とともにデッドリンクしてましたがこっそり復帰させてみました。

初出:2004.6.11

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