見おくる背中をつかめない。
「アールー。……なに、どこ行くの」
「グリードさんとこ」
途端あからさまに嫌な顔をした兄を鏡越しに見て、妹は小さく溜息を吐いた。
「グリードさん、悪いひとじゃないよ。ネストのひとたちもみんな」
「ヤクザじゃねーかよ」
「違うもーん」
「暴力団」
「違うってば。ネストはちゃんと営業許可とってるんですー。営業時間はボクは立ち入らせてくれないし、お酒も出されたことないよ」
「ッたりめーだろ! つか、マジ止めろ、あんなのと付き合うのは」
「付き合ってないもん」
「いやそういう意味じゃなくて」
「いいじゃん、友達になるくらい」
「ダメです。兄ちゃんは感心しません。ていうか許可しません」
「兄さんに許可してもらわなくてもいいもん」
生意気なひとつ下の妹に兄はむっと半眼になる。
「母さんに言い付けるぞ」
「んじゃボクもロイさんのこと父さんと母さんに言い付ける」
「おまっ…」
険しい顔を鏡越しに見つめていると、しばしの逡巡の後僅かに目を伏せた兄はうん、と小さく頷いた。
「いいよ、言い付けても」
「は?」
「だからあいつらとはもう会うな」
「何言ってんの兄さん?」
妹は慌てて振り返り、思ったよりも近くにいた兄を見上げて、それからさっと立ち上がった。小柄な兄は中学3年生女子平均身長真っ直中の妹よりもほんの僅かに視線が低い。
それでも最近は僅かずつ男らしくなって来た顔立ちのせいでもう小学生に間違われることはなくて、そんな兄を妹はこっそりと自慢に思っていたし、彼にそんな変化をもたらした兄の彼女も好きだった。
だから妹は慌てて両手をぱたぱたと振って前言撤回を試みる。
「ごめん、嘘! 嘘だから! だからそんな顔しないでよ」
「いいっつーの。お前のが大事」
「ボクのことはいいの! ダメだよ、だって兄さんあのひとのこと大好きなんだから! 絶対別れちゃダメ!」
「……お前のが大事だっつってんだろ。お前になにかあったらオレ何するか解んねぇ」
「大丈夫だよ、ほんとに!」
「あいつも怒るよ。あいつお前のこと結構気に入ってっからな」
「もー、本当に大丈夫だってば!」
妹は苛立ち、ぶんぶんと拳にした両手を上下に振った。
「心配してくれるのはほんとに嬉しいけど、でもボク、グリードさんたちと会うのはやめないから。言い付けられてもやめない」
「あのな」
「……でももし兄さんが母さんたちにグリードさんのこと言い付けても、ボクはあのひとのこと言い付けたりはしないから。だから変なこと考えないで。兄さん、あのひとといると凄く良い感じなんだもん」
「アル」
「変なこと言ってごめんね。それとこれとは別の話だったよね。グリードさんたちのことと、ロイさんのことは全然関係ないことだよね」
だからそんな悲しい顔して悲しいこと言わないで。
ね、と首を傾げた妹にひとつ溜息を吐き、兄はそのすべらかな頬に手を触れ、唇の端にキスをした。
「……暗くなる前に帰れよ」
「うん、大丈夫。グリードさんが送ってくれるから」
「……そんな奴の車に乗るなよ。お前女なんだぞ」
「グリードさんはボクのこと女じゃなくてガキって言うの。ガキは明るいうちに家に帰って家族でメシを食うもんだ、って言うんだよ。だから平気」
「………信用すんなよ、ろくでなしの言うことなんか……」
はー、と額を抱えた兄にもう、と笑って、妹は小さな鞄を掴むとぱたぱたと兄の横をすり抜けた。
「じゃあね、兄さん。行ってきまーす」
「早く帰れよ!」
解ったー、とばたばたと廊下を駆けて行きながらの声が届き、兄はもう一度深い溜息を吐いた。
「……つーわけでさー。でもやっぱ行かせないほうがよかったのかなあ」
「君が言う通りの連中であるなら、そのほうが良かったろうね」
ソファの上で本を開きながら、床に胡座を掻く少年をちらりと見て恋人は続けた。
「……私のことは秘密なのかい?」
「え?」
「家族や友達に」
ああ、と呟いて少年は小さく肩を竦める。
「うちの理事長ってアンタの会社の会長の血縁だって知ってた?」
「………え」
「どっから耳に入ってアンタの立場悪くするかも解んないからさ、いちおー秘密。知ってる奴はいるけどね。アルもだし、あとウィンリィとか」
「……リンとか言う子は?」
「あれはダメだ」
きっぱりと言って少年は顔を顰める。
「絶対手ェ出すから、極秘」
妙に生真面目な顔で言う少年にふうん、と呟き、その可愛らしさについ弛んでしまう口元を本で覆って隠して、恋人は素知らぬ顔で土曜日だというのに学校で講習があるから、と偽って出て来たと学ランを羽織ったままのその姿を眺めた。そっと手を伸ばして前髪だけを長く伸ばした短髪の襟足を撫でる。切り立てらしい真っ直ぐで硬い金髪がさくさくと指を刺した。
「………なに」
「別に」
「誘ってんの」
「可愛がっているだけだよ」
少年は不機嫌に眉を寄せてマニキュアの手を振り払い、床から立ち上がりソファに
片膝を突いて恋人の首筋に顔を寄せた。
「香水変えた?」
「うん」
「シャンプーも変わったね」
「うん」
「化粧品も変わった」
「新製品を試してくれと化粧品会社の開発室に勤めている友人が持って来たから。……君は犬か」
「煙草は変わってない」
「煩い子犬だ」
ぺち、と後頭部を叩いた恋人にいて、と笑って、少年は身を離しぼすりとソファに沈んだ。
「あー、アル、ちゃんと帰って来たかなあ」
「そんなに心配なら付いて行けばよかったのに」
「すげぇ怒るんだもん、そうすると」
「……電話でもしてみれば」
「うーん……」
「じゃなきゃ帰ってあげればいいだろう」
うーん、と呻りしばらく天井を睨んでいた少年は、うん、とひとつ頷くと立ち上がった。恋人はその少年の妙にすっきりした顔を見上げる。
「じゃ、帰るよ」
「…帰るのか」
「うん。あ、明日はアンタ暇?」
「………暇じゃない」
「え、嘘。だってオレ泊める予定だったんじゃないの? だったら予定空けてんだろ?」
「暇じゃなくなった。……仕事が入ったから」
「えー、なにそれ」
つまらなそうに唇を尖らせて、しょーがねえなあ、とぶつぶつと呟きながら鞄を拾うその背になら泊まっていけばいいだろう予定通り、と言えないのは大人の矜持なのか。
くだらないプライドばかりが肥大する、と内心で呟いて、つまらない嘘を撤回するタイミングを掴めないまま、恋人は少年を黙って見送った。
「……というわけでね、暇になってしまった」
休日出勤をしてみると休みのはずの上司がパソコンの前に座っていた。
それを発見してわけを問い質した部下は呆れた溜息を吐くわけにも行かず黙ってコーヒーを掻き回し、結局ひとつ吐息を零した。
「つまらないことを」
「まったくだ」
ふ、と煙を吐いて指に挟んだ煙草から紫煙が立ち上るのを眺め、形のいい足を組んだ上司はしばしの沈黙の後にふと思いついたように部下を見た。首を傾げると短い黒髪がさらりと微かな音を立てて流れる。
傷みやすいこの細い黒髪の手入れの仕方を教えいい美容院を紹介してやったのは部下だ。この上司は美人のくせに、どうもそういうところに疎い。
化粧の仕方も服の趣味も、今まで培ってきた友人関係や異性関係によって築かれてきたもので、二十歳頃まではやぼったくて仕方がなかったよ、と笑う顔はどこか幼い。
「リザ。君、グリードって知ってるか」
「グリード?」
「デビルズネストという店のオーナーか何かで、暴力団員じゃないかという話なんだが」
極道の一人娘である部下は大きな赤茶の瞳をじっと上司に据え、ああ、と呟いた。
「ネストなら父の行き付けです」
「なら、やっぱり」
「うちの組とも無関係ではありませんし他の組からも贔屓にされていたりはしますが、どこかの傘下に入っていることもありませんし、警察に目を付けられていることもありませんし、暴力団がバックについているということもなかったと思います」
「……堅気なのか?」
部下は僅かに微笑んだ。
「ヤクザを顧客に持つのですから堅気とは言い難いでしょうけれど、表立って法を犯してはいないはずですよ。売春行為もありませんし、麻薬を売ってもいないはずです。銃を扱っているとも聞いたことはありません。風俗業ですから刃傷沙汰と縁がない、とは言いませんが、それでオーナーが捕まったことはなかったと思います」
前科者ではありませんし、グレイゾーンではありますが、と付け足して部下はコーヒーを啜った。ふうん、と呟いた上司はほとんど灰になっていた煙草を灰皿に押し付ける。
「そうか、解った」
「エドワード君の妹さんの?」
「うん、贔屓にしていると心配してた」
「中学生でしたか」
「3年だね、受験生だ。とは言っても兄と同じ学院の中等部だし、昇級試験があるだけで済むはずだけど」
「そうですか。……それは少し心配ですね」
「うん。悪い男でなければいいんだけど。年上の友人は得難いものだし」
「あなたが友人になってあげればいいのでは」
上司は小さく肩を竦めた。
「兄の恋人ではね、遠慮が先に立つんじゃないか。私はあの子のことは好きなんだけどね」
「それなら余計な嫉妬はしないことですね」
上司は僅かに黙り、新たに煙草をくわえた。
「マネージャー、吸い過ぎです」
「……吸いたくなるようなことを言うからだ」
「この程度で傷付かないでください、子供でもあるまいし」
「悪かったね、子供のようで」
はあ、と溜息を吐いてまだ火も付けていない煙草を灰皿へと放り、上司は部下のコーヒーを奪って一口飲んだ。まったく子供のようだ、と部下は内心で呟いて、黙って上司を見つめる。
「……君が男ならよかったのになあ」
「は?」
「君のような恋人だったら楽だった気がする」
部下はひとつ瞬いて、それから薄く笑った。
「それではエドワード君とライバルですね」
「そうしたらあんな子は相手にしないよ」
「違いますね、振られるのは私のほうです、きっと」
くすくすと笑い、部下は一筋ほつれた髪を耳に掛けた。上司は不本意そうにそんなことはない、とぼそぼそと呟く。部下はもう一度ふと笑って、小さく首を傾げた。
「あなたが男性であれば、と思ったことは私もありますよ」
「ん?」
「恋人にしてもらうのに、と」
上司ははは、と男のように口を開けて笑う。
「そうしたらきっとすぐに振られてしまうな」
「……そうですか?」
「君は長続きしないじゃないか。今の彼氏はどれだけ続いているんだ?」
「まだ二週間です」
「前のは?」
「ひと月でした」
やっぱり、とまた笑って、上司は足を組み替えた。
「ハボックなんかはどうなんだ? 仲がいいじゃないか。あれなら淡泊だから、意外に続く気がするんだが」
「彼は駄目です」
「何故」
あなたを好きなのですから。
そう胸のうちで呟いて、部下は平然とした口調で嘘を吐く。
「同僚ですから」
「同僚は駄目なのか」
「別れた後にしこりが残るでしょう」
「あれは気にしないんじゃないか、表面ほどには。君も気にしないだろう」
「周りが気にします」
あなたとか、と続けた部下に上司はまさか、と首を振った。
「部下のプライベートなど気にしないよ」
「そうですか、それは寂しいですね」
「……………。……は?」
「冗談です」
「………君の冗談は解りにくい」
「すみません」
謝ることはないけど、と呟いて、上司は空になった紙コップをゴミ箱に捨てた。
「リザ、仕事は終わった?」
「……終わらせても構いませんが。自主出勤でしたから」
「うん、じゃあ上がらないか。君のコーヒーを飲んでしまったから、代わりに奢るよ。食事に行こう」
「飲みかけのコーヒー代にしては高くありませんか」
上司はくしゃりと子供のように満面で笑った。
「仕事の邪魔をして愚痴を聞いてもらった礼も兼ねているんだ。それとも私と食事は嫌かな、気詰まりかい」
そんなことはありません、と生真面目に返して、部下はぺこりと頭を下げた。
「では、ご馳走になります」
「うん。じゃあ、5分後に下で」
「はい。……電話ですか」
うん、まあ、と曖昧に呟いて、立ち上がった上司はそそくさと非常階段へと向かった。上司の私用電話の定位置だ。
部下はやれやれと小さく肩を竦めて立ち上がり、ロッカールームへと向かった。
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