きらきらのかおり。

 
 
 

 恥も外面もない怒鳴り声は段々とヒートアップして行く。
 エドワードはハンバーガーの包みを覗きながらうんざりと溜息を吐いた。
 
 天気がいいから外で食おう。
 
 そう考えてテイクアウトをして、この大きな公園の遊歩道をてくてくと10分歩いてこのベンチに辿り着き、小さく開けた広場の噴水のきらきらとした飛沫に目を細めていそいそと包みを開いた途端、エドワードがやって来たのとは逆方向から女の腕を引きずるように引っ張ってやって来た険しい顔の男(造りはそこそこ色男だが如何せんもの凄く怒っていて茹で蛸だった)が、その連行されていた女に腕を振り払われたのだ。
 まあどうせまた男が女を引きずって去るのだろうと思いきや、そこから延々と始まった痴話喧嘩は納まる気配を見せず、男は声高になって行くばかりで、最初に一言二言なにか冷たい口調で言ったらしいほとんど喋っていない女はこちらへ背を向けたまま、つまらなそうにときどき溜息を吐いている。
(────あ!)
 早くどっかに行かねーかなそれともオレがどっかに行くべきか? と口をへの字に曲げたままカップルを窺った瞬間、男の手が上げられた。しかも拳に握られている。色男らしく細身だが、それでも男には違いなく背も高い。そんな人間に女が拳で殴りつけられたら、生半な怪我では済まない。顔の形が変わってしまう。
「待………」
 思わず腰を上げハンバーガーの包みが落ちるのも構わず駆け出し掛けたエドワードは、ひょい、と避けてしまった女にがくんとつんのめり二、三歩踏み出しなんとかとどまった。近付いたせいでちらりと見えた女の横顔に、一瞬だけしまった、とでも言いたげな色が横切る。渾身の拳を避けられた男に視線を移すと、真っ赤になってぶるぶると震えていて、こりゃこの女殺されるな、とエドワードは眉を顰めた。
「この……ッ!!」
「あー待った待ったタンマ!! それ以上やるならケーサツ呼ぶぜオッサン!」
 女の胸倉を掴み上げ再び拳を振り上げた男にそう叫びながら飛び出すと、血走った目で睨まれた。
「引っ込んでろガキ!!」
「あーハイハイ大人ならも少し子供の手本になるよーなことしようなー」
 言いながら手袋を嵌めた右手でひょいと女の胸倉を掴んだままの男の手を外すと、男はぎょっと目を丸くする。
「女殴るのはどーかと思うぜ、男としてさ」
 言いながらネルシャツの袖を僅かに捲り鋼の手首を覗かせると、男は顔色を青と赤で行ったり来たりさせ、それから小さく舌打ちをして唾を吐いた。
「────テメェ、覚えてろよ、ロイ。裏切りやがって」
「裏切ったわけじゃない。きちんと別れ話は済ませたはずだ」
 背後から降った涼しいアルトに、エドワードはふ、と振り向き改めて女の顔を仰ぐ。
 女は酷く冷たい顔をして、何を映しているかも解らない闇夜のような一面に黒い瞳を小さく瞬かせ、男を見つめた。
「君がどれだけ執着しようと、恋人関係は疾うに崩れている。私のすることに口を出す権利は君にはない」
「テメェ………」
「あーもーこら、よせって! ───ねーちゃん、アンタも言葉選べよ、気の毒だろ!」
 ふ、と、女の視線が初めてエドワードに向けられた。先程までの冷ややかさが嘘のように瞬く丸く瞠られた目が、随分と童顔に見せている。
 どうしてオレが見知らぬカップルの痴話喧嘩を収めているんだ、と溜息を吐きながら、エドワードは人差し指を振って唇を尖らせた。
「別れ話がこじれたにしろ、元々は恋人だったんだろ? お互いもーちょっと気ィ遣うってのはどう? 前は好きな相手だったんだからさ、そんくらいしてやってもいいだろ、お互い」
 女は黙り込み、しばしエドワードを見つめた。苛々と歯軋りをした男がぎろりとエドワードを見下ろす。
「おいガキ、男と女ってのはな、そんなに綺麗なもんじゃ」
「一理ある」
 ふむ、と呟いた涼しい声に、男は絶句した。ついでにエドワードも絶句する。
「は?」
 綺麗に声を重ねた男とエドワードに交互に視線を向け、女は男に向き直った。
「ジョーイ」
「────なんだ」
「君といて楽しかった」
 ゆるり、と、女が寂しさを滲ませた、どことなく泣き出しそうな笑顔を見せた。
「…………ごめんね」
 かあっと頬に血を上らせた男は、みるみる潤んだ女の目をしばし見つめ、やがてゆっくりと目を逸らした。
「………じゃあな、ロイ。付き纏って悪かったよ。あいつと仲良くやれ」
 女は無言で俯く。その足下にぽつり、と涙が落ちて、男は何か言いたげにそれを見つめたが、結局何も言わずに踵を返した。エドワードは呆然とそれを見送り、女を振り返る。
「おい、アンタ………ッて嘘泣きかよ!」
 けろりとした顔でやれやれとばかりに髪を掻き上げるその顔に、先程までの殊勝さは一欠片もない。女は突っ込んだエドワードをちらりと見下ろし、にやりと笑んだ。
「ありがとう、助かった。ところでその右手」
「あァ?」
 機械鎧なのか、と言った女をまじまじと眺め、エドワードはひとつ溜息を吐いて手袋を抜いた。
「見てもいい?」
「………いいけど」
 言って踵を返しベンチへと向かうと、女は当然のようについてくる。落としてべちゃべちゃになってしまったハンバーガーと散らばったポテト、すっかり地面に滲みてしまったコーラに舌打ちをして紙袋を拾い塵を掻き集めていると、女はしゃがみ込んでその白い手がソースに汚れるのも構わず残飯と成り果てたそれを掴む。
「アンタさー」
 二人で塵を掻き集め、袋に残っていた紙ナプキンで手を拭いながら声を掛けると、女は「ん?」と首を傾げた。いまいち歳が読めないなと考えながら、エドワードは呆れた視線で女を睨め付けた。
「さっき、殴られてやればよかったって思ってたろ」
「え?」
「避けてさ、しまったって顔してた。そういうのよくないよ。一発殴って気が済むかどうかなんて解んねーじゃん。却って勢い付いちゃうヤツだっているんだぞ」
 女はぱちぱちと瞬いて、それからふと笑った。童顔がより幼くなって、まるで高校生のようだとエドワードは思う。実際、化粧さえなければ高校生で通りそうだ。しかし今は思い切り平日の昼で、高校生なら授業の真っ最中のはずだ。
「バレていたとは思わなかった。これから気を付けよう」
「それ、バレないように気を付けるって意味じゃねーよな?」
「敵わないな」
 くすくすと笑ってベンチへと座る女に苦々しく肩を竦め、エドワードは右手を差し出す。女は当然のようにその鋼の手をとり、じっと見つめた。
「いつから?」
「一昨年の秋にさ、事故で右手なくなっちゃってさ。左足も機械鎧だよ。見る?」
 何気なく問うと予想に反してうん、と頷かれ、エドワードは瞬いた。右手を見つめていた女は無言を不審に思ったのかふと顔を上げ、きょとんとエドワードを見つめる。
「そういえば、一昨年の秋? まだ1年半くらいだと思うんだけど、それにしてはきちんと動いているな」
「リハビリ頑張ったもん。ってもまだリハビリ通ってっけど。今日も病院行って来た帰り」
「それにしても……大人でも3年は」
「子供のほうが回復力が高いから短く済むんだって」
「そうだとしても極端じゃないか」
「だから、頑張ったんだって。妹もおんなじ事故に遭ったんだけどさ、オレの怪我は自分のせいだって言って凄い気にしてるから、早く元通り動かせるようになんないとさ」
「ふうん……妹思いなんだな」
「まーね。世界一可愛い」
「前言撤回。物凄いシスコンだ」
 くすくすと楽しげに笑う女に言ってろよ、とむくれ、ベンチへ腰掛けエドワードは左足から靴とソックスを抜いた。カーゴパンツを捲り上げて左足を晒す。女はじっとそれを見ている。
「………アンタ医学部とか?」
「ん?」
「じゃなきゃ人体工学部」
「学生に見えるか?」
「学生にしか見えねェ」
 女は小さく笑って社会人だよ、と答えた。
「こんなに間近で機械鎧を見たことが無かったから」
「野次馬かよ」
「まあ、そうだね。気を損ねたなら謝る」
 でも綺麗だ、と言った声はなんの感情も隠っていなくて、けれどその目が穏やかだったので、エドワードはへへ、と笑った。
「だろ。オレの幼馴染みが基礎デザインしたんだ」
「へえ、凄いな」
「だろ?」
 女は目を細めてエドワードを見つめ、ありがとう、と言ってボトムの裾を下ろした。エドワードはソックスと靴を履く。
「………あ、ところでさ、アンタって名前」
「ああ、そう言えば助けてもらっておいて自己紹介もしていなかったな」
 頷き、細身のジーンズのポケットから薄い名刺入れを取り出して女は一枚名刺を差し出した。
「どうぞ、少年」
「ど、どーも………」
「ロイ・マスタングだ」
「あ、オレはエドワード・エルリック。今年から中学」
「そうか。……改めて、ありがとう、エドワード。これから時間は?」
「え?」
 女───ロイはにこりと無邪気に微笑んだ。
「君の昼食を駄目にしてしまったお詫びに、食事に誘いたいんだが、どうだろう?」
「え!? い、いや、いいよ、却って悪い………」
「遠慮はなしだ。もちろん、嫌だと言うなら構わな」
「嫌なんかじゃ!」
 慌ててぶんぶんとかぶりを振って、それからエドワードはあれ、と呟きぱちぱちと目を瞬いているロイを見上げ、それからもう一度、あれ、と呟いた。
「なんか変じゃねぇ?」
「………なにが?」
「や、………オレが?」
「……………。……よく解らない」
 そりゃそうだ、と気の抜けたように呟いて、ぼりぼりと頭を掻き、まあいいか、とエドワードは立ち上がった。
「んじゃ、悪いけどご馳走になるよ」
「そう言ってもらえると有難いよ」
 ふと笑った顔がとても綺麗に見えて、ああこいつ美人なんだ、とエドワードは改めて気付く。
 歩き出したその後に付いて歩くとほのかに甘過ぎない花のような香りが鼻を突き、なんという香水なのだろう、とエドワードは考えた。
 
 化粧も香水も臭いだけだと思ってたのに。
 
 それは女の武器なのだと、エドワードは初めて気付く。
 滑らかな香りはいつまでも鼻孔に残っていて、次に偶然出会う雨の日まで、エドワードの脳裏へとロイの面影を映し続けた。

 
 
 
 
 

■2004/12/05
エド無自覚一目惚れ。

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