エデン
自称大学の友人──ロイは微妙な顔をしていたが──と称した数人にどっと押し掛けられ、さっそく酒を広げ始めた大人たちに声を張り上げて年を越す前に起こしてと頼んでおいたのに、解った解ったと安請け合いした約束が守られることはやはりなかった。
酔っ払いの興味が向く前に早く行け、と囁いてくれたロイの姿は、ほこほこと暖かい居間にはない。
兄弟はぺたぺたとアニマルスリッパを鳴らしてキッチンを覗いた。湯を流しながら洗い物を片付けている後ろ姿は白いシャツがしわくちゃで、ぐしゃぐしゃに乱れた黒髪も相まってちっともかっこよくない。
「ロイー」
「ねえロイー」
ふっと軽く頭が上げられ手が止まり、肩越しに黒い眼が顧みた。少し疲れたように目の下に隈が浮いている。
「ああ、起きたのか。まだ5時前だぞ」
むっと兄がむくれた。
「起こせって言ったのに!」
「まだまだ酔っ払いが元気だったんだ。玩具になるのもなんだろう」
「おじさんたちみんな寝てたよ」
「あんまりうるさいからサンドマンに倣って眠りの魔法を掛けてみた」
「嘘!!」
「もちろん嘘だ」
きゅ、と湯を止め、軽く手を拭いてロイはむくれている兄ときょとんと見上げている弟の元へとやって来るとその金髪に手を乗せた。
「あけましておめでとう、エドワード、アルフォンス」
「おめでとーございます!」
「あけましておめでとーございます」
元気よく言ってぺこんと頭を下げたふたりに眼を細め、ロイはきき、と鳴った廊下に眼を上げた。ぬ、と顔を出したまだ酒の抜けないような男に、兄弟はくりくりと眼を丸くする。父親よりも上の年だろうか。
「教授」
「すっかりお邪魔してしまって悪かったね、マスタング君。そろそろお暇しようかと思うんだが」
「ああ、では運転します。他の者は起きましたか」
「起こす起こす。ついでに送ってやってくれ。あれらは駅まででも構わんよ」
「教授さえ構わなければみんな送りますよ」
言いながら椅子の背に掛けていた上着を羽織り、ロイは兄弟を見下ろした。
「お前達も着替えて来い。暖かくしろよ、手袋もマフラーも」
「帽子も!」
「もこもこもする!」
言ってばたばたと駆けて行った幼児を見送り、教授はしょぼしょぼと眼を瞬かせた。
「なんだ、ホーエンハイム君のところの子供たちも連れて行くのか? 帰りはどうする」
「電車で帰りますよ。車を貸してくれとは言いませんから」
「もこもこというのは?」
「耳当てですよ。……さあ、他の者を起こしてください」
「ああ、そうだった」
きしきしと廊下を軋ませながら行ってしまった小柄な錬金術師の背を見送り、ロイは外出の準備をすべく自室へと向かった。
「ねえ、ロイ。あのひとたち具合悪かったの?」
むっと車内に満ちた酒のにおいとぐったりとした大人たちの姿に戸惑うように小さくなっていた兄弟は、まだ暗い雪の道を歩きながら手を繋いだ先の唯一の素面の大人を見上げた。
「しゅうだんしょくちゅーどくとか」
「食中毒を起こすようなものを食べた覚えはないな。酔っていただけだ」
「よっぱらいなの?」
「酔っ払いだな」
「え、でもロイはあんなにならないじゃん」
「あまり呑まないからな」
実の所は酒は嫌いではないし弱くもないが、強いほうでもないから以前は呑み過ぎて泥酔することもなくはなかった。しかしこの兄弟を預かるようになってからはロイは深酒にならないよう酒量をコントロールすることを覚えた。泥酔した姿を晒して家主の威厳を失墜させるのも辛うじて勝ち得ている尊敬を失うのもごめんだったし、そうでなくてもこの小さな子供たちに酔っ払いの姿を見せることが教育にいいとも思えない。
だから本当は、今日だって研究室の連中を招き入れるのは勘弁願いたかったのだが。
「まあ、大丈夫。酒が抜ければ元気になる」
「……なんで具合悪くなるのにお酒呑むの?」
「さあ、何故だろうな」
痺れるように思考が狭く鈍くなっていく様や、舌の回らない感覚や。それらを感じて己の肉体が酒に冒され機能が低下していく様子と人格が変容していく様子にどこか面白味を感じる。
いつもは己の意志でコントロール出来ていると思いがちの肉体が、実はいつだって妥協した理想のもとに可能な程度に操れているだけなのだと、肉体さえなければ、魂だけであるのなら、もっと優秀な、そんな身体を欲しているのだとそう考えるようになったのは飲酒を始めてからだ。
意志の力を裏切ることなく、自己防衛の本能に阻まれることなく操れる肉体というものは、果たして。
「ねー、ロイ」
くいくい、と腕を引かれ、ロイは吊り上がった大きな金の眼を見下ろした。毛糸の帽子ともこもこの耳当てとマフラーに囲まれた頬は林檎のように真っ赤で、吐く息が白い。やはり真っ赤な鼻の頭に、ロイは眼を細めた。
「どこ行くの?」
「神社」
「しちごさんしたとこ?」
「いや、あそこは混んでいるから、もっと小さくて寂れているところに」
「何しに?」
「初詣」
「はつもうで?」
「そう。今年も一年お前たちが健やかであるようにと祈願しに」
「あとは?」
「朝飯を食べて帰ろう。夕方にはヒューズ家に行くからな、それまで少し眠れ。グレイシアが手料理を用意して待っているそうだから」
ふーん、とよく解っていない顔で頷いた兄にもう一度眼を細め、ロイは「あっ」と声を上げて立ち止まってしまった弟に視線を向けた。
「アルフォンス?」
「おひさまだ!」
嬉々とした声を機に、徐々に白く明るくなっていた世界が、急激に光を増す。冬の柔らかな朝日は網膜を灼くほどではなく、けれど充分に眩いそれに立ち止まったまま眼を細めて、ロイは思惑通りの景色に唇の端を吊り上げた。兄弟はわあ、と感嘆の声を上げたままじっと太陽に見入っている。
「すごーい! すごいねーロイ!」
「そうだな」
「きれー!」
きゃっきゃっとはしゃぐ弟とは裏腹に、じっと挑むように睨むようにそれを見つめている鋭い金眼に、ロイはひとつ瞬いた。
「エドワード?」
「………あれって天国から来るんだって」
「え?」
「隣のじいちゃんが」
マスタング家の隣に住んでいるのはうら若い乙女だ。エルリック家のか、と察して、ロイはもう一度太陽を見た。
「………天国からは来ない」
「え?」
「あれの周りを地球が回っているんだ。この世のものだ、エドワード」
太陽を見つめていた眼が、その黄金に白く光を差しじっと見上げている。
「天国はもっと遠くて、この世のものなどひとつもない、らしいよ。想像もつかないほど美しくて、穏やかで」
───この世の者の言葉や表現力では到底現すことなどできないほどに。
「……いつか見れる?」
「そうだな、ずっといい子でいれば」
「一回行ったら出てきたくなくなる?」
「天国にいるとかこの世にいるとか、そんな些細なことはどうでもよくなるんだ、きっと。いずれ皆逝く、約束の場所だ」
しゃがみ込み、ふたりの幼児の背に腕を回すと擦り寄った金色の子供たちの腕が首に絡んだ。
「君たちの母君は寂しくないよ。君たちがいつか大人になって立派な老人になって、長生きをして、幸せになって、そうして満足してやってくるのを楽しみにしていてくれる」
宥めるようにゆっくりと、力強く大きな手が背を撫でる。兄弟はぐす、と鼻を鳴らした。
「………なー、ロイ」
「ん?」
「このよのものなら、あれ、取れる?」
「え?」
上げられた顔はもう泣いてはいなかった。まだぐすぐすと鼻を鳴らしている弟の頬をしもやけになるからと拭ってやりながら、ロイは首を傾げる。
「取れる、とは?」
「オレのものになる?」
「あー……それはなかなか難しそうだが……」
真剣な表情にロイは眉を下げた。
「………まあ、夢は大きいほうがいい、かもなあ」
「そっか!」
にかっと満面で笑い、兄はぎゅっと大人に抱き付いた。
「じゃあ、ロイに取ってやるからな!」
「は?」
「太陽だぞ! 太陽持ってるヤツなんかいないぞ! ロイにやる!」
「……………。……それは…どうもありがとう…」
一体何のためのプレゼント宣言なんだ、と首を捻りながらも礼を言ったロイに、兄はもう一度にかっと笑った。
「絶対ロイにやるからな!」
弟でもなく、父親でもなく、今は天国にいる母親にでもなく。
にこにこと機嫌の良くなってしまった幼児の心中を察することなく、ロイは首を傾げながら早く早くと腕を引かれるままに立ち上がり、歩き出した。
ぐいぐいと養い主の腕を引きながら、兄弟は顔を見合わせてこっそりと笑った。
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