02 / 雨の降る夜  


 
 こつこつと響いているはずの足音が、どこかひたひたと湿った音を立てているような気がする。窓の外を見遣れば真っ暗で、遠く時折稲妻が光り、思うよりも雲が厚いことを教えてくれる。もしかすると見えないだけで、静かな雨が降っているのかもしれない。
 今日は夜勤だからいつまで書庫にいても構わない、直接自分のところへ鍵を返しに来い、と言った大人の元へと律儀に向かうべく、エドワードは体温を移して温くなった鍵を握り締めた。
 すっかりと遅くなってしまった。
 アルが心配しているな、と新聞の縮小版を読むために昼のうちに別れて図書館へと向かった弟のことを思う。
 
 兄さんまた夢中になってたんでしょ、ご飯は食べたの。あーまた濡れて。傘くらい借りて来なよ───
 
 弟の小言が耳に響く気がする。同時にごろごろと低く獣が喉を鳴らすかのように鳴った空に、エドワードはちらりと窓の外を見た。落雷の気配はないが、早く帰らなくては本格的に降り出しそうだ。
 さっさと鍵を返してフードを被って走って帰ろう、と無駄に重厚な扉の前に立ち、いつものようにノックも無しでノブを回し開き掛け、その僅かな隙間からふっと洩れた気配にエドワードは反射的に手を止めた。中が覗ける程度に開いた扉が、止まる。
 
「────ア、」
 
 微かに、耳を打った掠れた声が。
 まるで弱々しい悲鳴のようなその声は常態よりも高く響くが、それでも聞き間違えるほどではない。間違いなく、この部屋の主のものだ。
 エドワードは隙間から切り取られた、煌々と灯りに照らされた室内を見た。大きな執務机と、そこにいつも陣取っている黒髪と、深紅の絨毯と、白い───剥き出しの、肩と。
「ん………ッく……」
 机に突っ伏した黒髪が濡れたように光る。動きに合わせてさらさらと乱れる。覆い被さっている金髪には見覚えはない。酷く大柄な男に見えたが、けれどそうではないのだとエドワードは妙に冷静に冴えた思考で己の間違いを正した。
 標準的な軍人体型の男だ。単に、その下に組み敷かれている黒髪が、この組織の中では小柄であるというだけで。
 ああこうして見ると酷く華奢な男なのだ、とエドワードはぼんやりと思う。今目にしているものが何を意味するものなのか、それが解らないほど子供ではないがけれど現実感がない。少なくともエドワードの知る常識と世界に、こういったものは今の今まで存在してはいなかった。
 エドワードは微かに眉を顰めた。息を荒げて腰を振る金髪が酷く間抜けに見えた。まるで興奮した雄犬でも眺めているかのような気分だ。自分も、いつか誰かとこうした行為を持つことがあったとして、あんな風に間が抜けて見えるのだろうか。
「───ん、ぅ……あ!」
 掠れた声が僅かに高く響き、顔の脇で握り締めていた掌が天板を滑った。なにかに縋りたいように、その先にあった散らかっていた紙をぐしゃりと握る。その手がてらてらと光り濡れているのが解った。
 あああれでは書類が駄目になるじゃないか、部下の仕事を増やして、とはずれたことを考えて、けれどノブからは手は離れず痺れたような足は動かない。当てられた、わけではない。この行為を結果的に覗き見ていることに、なんの興奮も覚えない。犬の交尾か、それ以下でしかない。
 
 ふい、に。
 
 そんなことを考えていたエドワードを、感極まったように微かに顎を逸らした黒い眼が───捉えた。
 
 ぞわり、と総毛立った気がした。足下にざあっと血が落ちる。エドワードは無意識に眼を瞠った。
 
 泣いたように目元を赤く染め、濡れた唇が紅でも乗せたかのように真っ赤に色付いている。耳許も頬も紅潮しているのに、その首筋とはだけた胸元の鎖骨の辺りが、白い。
 その鎖骨に赤い筋が見えた。血の玉が流れ落ちる。強く爪を立てた跡のようだった。覆い被さる金髪の仕業だろうか。
 そんなことを考えていたエドワードに、男は驚愕するでもなく、ただ───笑った。真っ赤な唇を吊り上げ、薄く開いたそこからちらりと舌を閃かせ、潤んだ眼で、嫣然と、酷く、艶めかしく。
 
 がん、と、気付いた時には強く扉を閉じていた。エドワードはそのまま身を翻し駆けた。鍵は受け付けのカウンターに放り込んだ。
 司令部を走り出て、フードを被るのも忘れ、エドワードはただ駆けた。弟の元へと駆けた。あの冷たい身体に触れて抱き締めて兄さんはやく着替えないと風邪を引くよと小言を聞きたかった。
 
 ああ、あんな熱に満ちた顔なんて。
 
 ───オレの欲望は冷たい鉄にこそあるべきで。
 
 がんがんとこめかみが脈打っている。眩暈がしそうだ。視界がぶれる。
 絶頂寸前のように、何度も詰まる息が熱かった。
 ざあ、と音を立てて落ち始めた雨にも構わず、エドワードはただ駆けた。
 
 
 
 
 
 強い音を立てて揺れた扉にぎょっとして顔を上げた下士官にのし掛かられたまま、ロイはくつくつと喉を鳴らして嗤った。突っ伏した机のぬるまっていない部分が頬に触れて、火照りを落として行く。
「───大佐、今、誰か」
「ああ、いたようだな」
 引き攣るように黙ってしまった下士官にまた嗤って、ロイは首を捻って金髪を見上げた。
「さあ、退け」
「え?」
「退けと言っている。もう用は済んだ。退室しろ」
 下士官は奇妙な顔をした。体内に感じる楔はまだどくどくと脈打っていて、その存在を主張する。ロイは笑みを収めて瞳を細めた。
「何度言わせる気だ? 退け」
「しかし、大佐」
「上官命令だ、と言わなければ解らないのか」
 む、と棘のある空気を纏い、腰を掴んでいた手に力が籠もる。
 ああだから男というのは馬鹿なんだ、とロイは小さく溜息を吐いた。組み敷いてさえいれば、組み敷かれる者よりも強いように錯覚する。簡単に支配欲に取り憑かれる。
「………それで、明日からどうするつもりなんだ?」
 強く律動を始めようとした金髪に、ロイはつまらなそうにそう言った。額に掛かる黒髪を指で捻る。
「お前には母親がいたな。貴様が職を失えば、母親ともども路頭に迷うんじゃないか?」
「─────、」
 僅かな間は葛藤でも逡巡でもないようだった。
 ただ虚を突かれたように沈黙して、そのまま無言で欲が引き抜かれた。ロイは僅かも息を乱さずに、ただ身を起こして服装を整えることもせず椅子へとどさりと沈み込む。下士官は黙ったまま軍服を整え、窮屈そうにジッパーを上げた。
「───失礼、します」
「ああ、さっさと便所でもなんでも、行け」
 軽く手を振ってやると眉を顰めたまま敬礼をし、下士官はぎこちなく退室した。扉が閉まるか否かという間に、ばたばたと廊下を慌てて駆けて行く音がした。
「………あんたねえ」
 はあ、とひとつ息を吐いてより深く背もたれにもたれると同時に、ノックもなく扉が開き、長身の副官が書類を片手に現れた。ハボックは煙草をくわえたまま器用に溜息を吐く。
「アレ、俺の隊のヤツなんすけどね? あんま俺の部下苛めないでくださいよ」
「ああ、では別の隊の奴にしよう。なにかいいのを見繕っておけ」
「次に大将が来るまでに?」
「解っているじゃないか」
「あんた阿呆ですね」
 ばさ、と乱れた執務机ではなく来客用のローテーブルに書類を放って、近付いて来た副官は開いたままのロイの襟へと手を掛けた。
「子供苛めてなにが面白いんですか」
「別に苛めたいわけではないよ」
「嫌われますよ」
「嫌われているよ」
「舐めてると殺されますよ」
 ぼんやりとつまらなそうにどこかへと視線を放っていた黒い眼が、軍服を整えて行く手に焦点を合わせた。
「………誰に」
「だから、俺んとこのはまだ躾がいいっすけどね、皆が皆品行方正ってんじゃないんですよ。あんたなんか一捻りなんて連中も少なくないんですから。発火布があったって、びったり自分にくっついて犯してる奴燃したらあんたも怪我するでしょ」
「ならお前が相手をするか?」
「あんたが女だったらね」
「上官命令だと言ったら?」
「そんな上官は一発ぶん殴って堂々と田舎帰りますよ。つーか、あんま悲しくなること言わんでください。あんたに付いて行こうと思った自分が馬鹿に思えて泣けてきます」
「ハボック、シャツ」
「ちょっと待って、血が出てますから。バンソコどこです」
 上から三つボタンを開けたまま離れ、棚から救急箱を探し出しているその広い背をぼんやりと眺めて、ロイはふっと眼を閉じた。汚泥のような疲労が背骨にまとわりついている。
「仮眠室でも行きますか」
「……お前は仕事を持って来たんじゃないのか」
「ちょっと休んで、交代までに終わらせてください」
 爪痕の消毒を済ませ、絆創膏をぺたりと貼ってハボックは残りのボタンを留めると片膝を突いたまま、変わらずにぼんやりとしていたロイを見上げた。
「この傷は? 黙って付けさせた?」
「掠り傷だろう」
「死ぬ怪我だけが怪我じゃないんすよ。アレは後で絞めときますから、あんたは手ぇ出さんでください。こんなことでどうにかされちゃ気の毒だ」
 あれでもいい奴なんですよ、男が趣味だってこと以外は、と溜息を吐いて、ハボックはよいせと立ち上がった。
「歩けます? 連れて行ってあげましょうか」
「……いい、少しソファで寝る」
「イエッサ。毛布と枕持ってきます」
 軽く敬礼を返して身を返し、扉へと向かい掛けた副官を、ハボック、とぼんやりとした声が呼んだ。
「はい?」
 すう、と上げられた光を吸い込みただ夜のように暗い眼が、ハボックを眺める。
「………あの子は、明日は来るかな?」
 ハボックは小さく肩を竦めた。
「あんた阿呆でしょ」
 背を向け、肩越しにひらひらと手を振って、寝ててください、と言い置き副官は退室した。あいつは不敬罪で訴えられても文句は言えないぞ、と小さく嘆息し、ロイは椅子に沈み込んだまま瞳を細める。
 細く開かれた扉の、暗い廊下に突っ立ったまま、静かに固まっていた小さな子供が、微笑んで見せた途端かっと頬に血を上らせた。金髪を揺らして身を翻し扉を叩き付けるように閉めて、そうして慌てて弟の元へと逃げ帰って行ったあの子供は。
 軽い嘔吐感に唾を呑む。明日は来るまいな、と小さく口元を弛ませて眼を閉じる。
 すみやかに訪れた眠りの闇に逆らわず、ロイは遠く雷を聞きながら意識を落とした。

 
 
 
 
 

■2006/2/14
ハボロイじゃないです。なんでハボがろいろ承知してんのかは知らない(考えとけよ)。ホークアイがどうなのかも知らない。
13/書類の何ヶ月か前とかなんかそのへん。18禁にしなくてもよかった感じでしたすみませ…がっつりえろいのはえどろいでそのうち。

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